303話 愛純にだって悲しい感情くらいある
灰川達はカラオケを諦めて次の場所に向かう事にした。
市乃たちとしてはカラオケに自分たちのオリジナルソングが入っているので、灰川に聞かせて喜んでもらおうと考えていたのだが、その目算は叶わなくなってしまった。
灰川は3人に何処に行くかは説明してあり、皆が行ってみたいと答えたので連れていく。
「よし到着だ、ここが深夜もやってる執筆カフェ・ペンシルスだ」
「執筆カフェというのは初めて聞きますねっ、どんなお店なんでしょうか」
ここはいわゆるコンセプトカフェで、店内は執筆活動に向いてそうな内装をしている店だ。街からは少し外れた場所にあり、撮影スタジオとして貸出なんかもしてたりするらしい。
日記から小説まで何でも書いて良いし、真剣執筆スペースとゆったり執筆スペースで階が分かれており、客のニーズにも応えている。動画編集とかイラスト作成なども出来るようだ。
その他にも日によって映画の事を語り合うカフェになったり、漫画を描くのが趣味の人が集う場所になったり、バラエティーに富んだ店らしい。
コンセプトカフェは以前に空羽と一緒に行って情報を仕入れており、夜に高校生でも入れる店もあるというのを学んだのだ。
「文京区にあるんだね~、来苑先輩の学校がある地区だよ~」
「来苑が通ってる文京学詠館とは少し離れてるけど、そこまで遠くないみたいだな」
この店は多くの執筆家やクリエイターを輩出してきた文京区にあり、プロ、アマ問わず執筆がはかどらない人や、動画編集やイラストが終わらない人に集中して作業してもらう環境を提供する店なのだ。
「すいません、4人でゆったり執筆スペースをお願いします」
「はい、こちらへどうぞ。当店はPCの貸し出しなどもしておりますので、用があったら声を掛けて下さい」
カフェは基本的には深夜でも高校生が入れる店は多く、ここも同じで問題なく入店できた。
4人でコーヒーや紅茶を頼み、今は灰川達以外に客のいない1階のゆったり執筆スペース、ある程度の会話もOKな休憩カフェのような雰囲気の席に着く。
「ここの2階は真剣に執筆する人達が入るスペースらしくってさ、プロ作家とかプロクリエイターとかも来るらしいぞ」
「なんだか満席って書いてたよね、そんなに人気なのかなー」
2階の真剣スペースは割と人気があるようで、深夜でも満席になるほど客が入るようだ。料金も安く、他の人も集中して執筆や作業をしてるため、強制的に集中するのに良いと口コミサイトに書かれてある。
「他にもコンセプトカフェとかはあるんだけどよ、深夜にやってて女子高生が入れる店ってなると限られるからな」
「執筆や作業する人に向けたカフェですか、なんだか凄い感じがしますね」
「なんだか2階の方から凄い鬼気迫る集中のオーラが漂ってくるね~、むふふ~」
ここはコーヒーや食事メニューなどは特に拘っておらず、普通のコーヒーや軽食が頼めるという感じだ。
ここの本質は真剣な作業活動であり、数々の文豪やクリエイターを出した地で集中できる環境を提供しようというコンセプトのカフェなのだ。
「今は色んな人がネットとかで活動してるし、プロのクリエイターの人達も活発に動いてるから、こういう場所とかも客が来るんだろうな」
「2階の席の方が広いようですね、家だと集中できない人も多いそうですから、こういう所で作業したい人も多いのかもですね」
家だとスマホやパソコンを触って別の事をしてしまったり、図書館なども肌に合わない人は普通に居る。
昔は締め切り前の作家や漫画家は編集者に拉致されて旅館に閉じ込められ、書き上げるまで監禁されるなんて事があったらしい。なんだか今でもあるんじゃないかと思ってしまうような話だ。
ここの2階の真剣席は周囲に集中する人が居たり、真剣に書かなきゃいけないみたいな雰囲気があるらしく、そういう雰囲気こそ集中できるという人に人気だそうだ。
「桜なんかこの店は良いかもな、Vだけど執筆活動してるしよ」
「うん~、でも最近は文章のネタ切れ気味だよ~、私のセンスもどうなのかな~って思う事も多くなっちゃったよ~」
「ネタは急がなくても大丈夫だろ、センスは経験で磨くとかかね、よく分からんけど」
最初からセンス満点の人なんて居ないし、そこは色んな経験をしたり、色んな考えとかに触れて磨くしかないんだろう。
「桜ちゃんって小説とか童話絵本とか出してるんだもんねー、スゴイよねっ」
「そうだよ~、でもまだまだ未熟で腕不足だって感じる事ばっかだね~」
「未熟なんて私も同じです、V活動で頑張りはしましたが、運が良かったからリスナーさんが来てくれるようになったんですから」
市乃も史菜もVtuber活動は頑張ったが、それは他のVtuberだって同じことだ。努力の方向性が正しかったとか、名を上げるために勉強して実践した内容が良かったとか、今の立ち位置に居る理由は色々あるだろう。
しかし運の要素だってあったというのは本人達が最も感じているらしく、努力だけの結果だとは言えないそうだ。
どのくらい頑張れば登録者が1万人になるかとか、配信の面白さを上げようと頑張るけど、そういったものは目に見える数字などで示される訳じゃないので不安だったとか、色んな事を感じて来た。
今だって不安要素は多いし、本当に面白い配信が出来てるか考えたりもする。視聴者数を見て自分は前に進めているかなども考えるそうだ。
「ここってよ、好きなこと書いて良い書籍っぽいオリジナルノートがあるんだってよ、ちょっと何か書いてみないか?」
「なにそれっ? ちょっと面白そうかもっ」
「桜はパソコンで書いた字を印刷できるから、良かったら借りて来るか?」
「うん~、なんだか面白そうだね~」
「私も今日の思い出に何かを書いておきたいです、何が良いでしょうか、ふふっ」
ここは1階のゆったり執筆スペースであり、本棚も設置されている。そこには普通の書籍と混ざって客が自由に文章を書ける書籍型のフリーブックがあるのだ。
何でも自由に書いて良い本が7冊ほど置いてあり、それらを持ち出して1ページずつ文章を皆で書き出す事にする。桜は1ページ分の文章をパソコンで打ち込む形式だ。
なんでも挑戦して試してみる、こういう姿勢が活動者には何処かしらあるのかもしれない。失敗を恐れる必要が無い場合は特にその気持ちは大きく出るのだろう。
「なに書こっかなー、動画とか配信の概要みたくなっちゃったら嫌かもっ」
「私は今日に見たアニメの感想文を書いてみます、誰かが読むのかと思うと緊張しちゃいますね」
「じゃあ私は即興の童話でも書いてみよっかな~、なんだか皆で書くって楽しいね~」
「俺は短編ホラーでも書くかな、ってか俺だとそれしか書けないかもだな」
誰かに読まれるかも知れない文章を書くのは皆にとって新鮮な体験であり、普段とは違った楽しさが感じられる行為だった。
そんな中で灰川が書いたのは、過去に聞いた『本』にまつわる話だ。
とある本を知ってたら情報を下さい by 125ページのS
以前に自分は、とある本の噂を聞きました。
見た感じの装丁は真っ赤で、表紙に一輪のコスモスの花の絵があり、本のタイトルは不明とのことです。
出版社は架空の存在しない会社の名前が書いてあるとかで、出所が何処なのかも不明という噂でした。
本の内容は古今東西の降霊術の方法が書かれていて、こっくりさん、百物語、スクエアの5人目、ひとりかくれんぼ、裏ひとりかくれんぼ、など様々な物が記載されているそうなのです。
この本は呪われているとか、読んだら幽霊が来るとかの噂があるんですが、何だか興味あるので情報があったらこの本にでも書き込んでくれたら嬉しいです(笑)
「灰川さんは何書いたのー?」
「おいおい、どんなこと書いたのかは秘密ってことにしただろが」
「私も書けました! 我ながら良い出来だと思いますっ」
「書けたよ~、あとでコピーしてもらってから貼ってもらうね~」
ここで書いた事は皆にも秘密であり、どうしても気になるんだったら後で来て読むという事になっている。
もちろん個人情報とか身バレするような内容は禁止であり、それぞれに書きたい事をテキトーに書いてみるという息抜き執筆だったのだ。
「こういう時間って何だか良いよねー、頭が落ち着くっていうかさっ」
「うん、お仕事とか配信の事とかで頭がいっぱいになってたもんね、私も良い息抜きになりました」
「でも高校生だと行ける所が少ないのは残念だね~、今度はもう少し考えてお出掛けしなきゃだね~」
高校生だと夜には入れなくなる遊興施設が多く、遊べる場所は非常に少ないのが現代だ。結果として3人が思っていたような夜遊びにはならず、かなり落ち着いた夜のお出掛けという感じになった。
「まあ、後は夜の心霊スポット巡りとかもあるんだけどな。俺がお祓いをした施設とかは話せば入れてくれたかもだし」
「灰川さんの知ってる施設とかってガチのスポットじゃん!」
「前に市乃ちゃんとご一緒に心霊スポットに行ったんですよね、ちょっと羨ましいなって思っちゃいました」
「私もそういう所って気になるかも~、灰川さんが居たら安心だしね~」
もちろん灰川は冗談で言ったのであり、こんな時間に心霊スポットに連れて行くような気は無い。
灰川がお祓いした施設とかは本当の心霊スポットであり、霊的には安全でも今の時間にコンタクトしたら迷惑千万だ。
少しばかり変わった体験をした後は帰宅する事になり、灰川が車に乗せて皆を家まで送って行く。
時刻は夜の25時、高校生の夜遊びとしては凄く遅い時間だ。派手で賑やかな所には行けなかったが、それはまたの機会だろう。
この時間に外出して普段は行かない場所に行くというのが楽しいのだ、賑やかさがどうとかは関係なく楽しめたから問題ない。
「明日は史菜とコラボ配信だよねー、打ち合わせは明日のお昼にしよっか」
「うん、クラフトゲーム配信だからトーク内容はしっかり決めておこうね」
「エリスちゃんとミナミちゃんでコラボ配信って楽しそうだね~、私は明日は出版社さんと打ち合わせだよ~」
車の中ではV活動の予定だとか、明日はどうしようとかの話になる。
いつも面白いコメントをしてくれる箱推しのスーパーチャットリスナーが居るだとか、桜はテレビ出演しないのかとか、色んな話が交わされていた。
「灰川さん、今夜はありがとうっ、すっごい楽しかったよ!」
「落ち着きのある場所を教えてくれて、ありがとうございました。今度もまた一緒にお出掛けして下さいねっ♪」
「みんなで騒いだり話せたりして楽しかった~、また連れてってね灰川さん~」
「おうよ!こっちも楽しかったぞ! 皆は同年代に比べてストレス強い時もあるだろうから、そういう時は遠慮なく声掛けてくれ」
灰川は最近になって自分たちを取り巻く環境が日に日に変わっていってる事を感じていた。
何と言うか今の配信やVtuberの世界は『ここから名を上げる!』という目標を持った場合の厳しさが、数か月前よりも厳しくなっている気がするのだ。
その感覚は気のせいではなく、未成年の労働法の改正が影響している。
今は未成年でも深夜まで働く事が出来て、その影響が主にネットの世界で出始めていた。
あちこちで中高生配信者や中身が中高生と思われるVtuberが出始めており、才能を見込まれた子は男女問わず企業所属になっている者も珍しくない。
毎日のように誰かがバズり、毎日のように誰かが炎上し、それらが大小関わらずあちこちで発生している状態だ。
若く体力があり、明るく元気で疲れ知らずで、それでいて才能がある子達がどんどん発掘されて表に出て来ている。
そういう子達が22時以降も本格的に配信に出て来て、そこから生まれる活動への自由さと開放感から、業界全体の雰囲気が変わり始めたのだ。
「俺もこれから皆がこの業界で益々の活躍が出来るように頑張るからよ、要望があったら言ってくれよな」
「どうしたの灰川さん? なんだかちょっと真面目っぽいねっ?」
「ありがとうございます、事務所は違いますが頼りにさせて頂いてますので」
「いっつも頼りにさせてもらってるよ~、ありがとう~」
今はネットの世界を自分の居場所にしようと頑張る若者たちが増えており、その中には小学生だって居るのが現代だ。
ネットで有名になって人気になり、ここで稼いで生きて行く。とにかくやってみる、やってみたい、自分なら出来ると信じて多数の若い力がネットに注がれる。
渡辺社長と花田社長はこうなる事を読んでおり、渡辺社長はシャイニングゲートの地力と所属者数の戦力の拡充に動いてアカデミーを作った。
花田社長は会社の動画編集の力を上げて儲けを出しつつ、三ツ橋エリスや北川ミナミを筆頭に配信界隈で話題性を狙っていくという方向で動いていた。
そこに灰川というイレギュラーが入った事により計画は少し変わり、各所への強い伝手を頼りつつ業界のトップの席を3社で占めて、ネット世界での力を更に高めるために今は動いてる。
しかしハッピーリレーとユニティブ興行はシャイニングゲートと並ぶほどの看板は無く、そこに並ぶよう今は舵を取っている段階だ。
「朋絵さんと砂遊の方向性とかも考えなきゃだし、動き方の方針とかは決まってきたとはいえ、まだまだだなぁ」
「私も手風クーチェさんの配信も見たけど面白かったよー、コラボとかしてみたいって思う!」
「砂遊さんも早くデビュー出来ると良いですねっ、エイミちゃんとリエルちゃんもお仕事が決まってるってお聞きしてますよ」
今のネット界隈は以前にも増して熱が上がって来ており、それと同時に視聴者の目も肥えて来た。
視聴者は少しでも面白い存在、少しでも可愛いやカッコイイと思える存在、良い箱を求めて動画サイトやSNSやネットを回っている。
配信者もVtuberも飽和状態、その中で生き残るのは簡単ではない。趣味も本気で活動する者もステージに立てば、同じ1人の配信者であることには変わりない。
今は子供から大人までネットで一攫千金を夢見て活動したり、本気で楽しいから全力を注いで活動する人も多くなった。
センスや才覚だけでは上には行けない、努力で行ける境地は限りがある、サポートだけでゴリ押せるほど甘くない。
運も実力も環境も大事だが、何が良い方向に作用し、何が悪い方向に働くか分からない世界だ。それぞれの努力や考え方があり、本当に何がどう動くか分からなくなってきている。
最近では私設のライバースクールや通信講座なども増えて来ており、ここから更に熱は増していく事が予想される環境になってきた。
「まあ気負い過ぎず行こうぜ、頑張ってれば良い事もあるっしょ」
「そうだね~、マイペースも大事だよ~」
そんな事をマイペースな桜に言われて励まされ、灰川はしっかりと皆を家に送り、ちょっと非日常な夜遊びの日は終わったのだった。
もし高校生が賑やかな夜遊びをしたいとなったなら、街に出るのとは別の方法を考えなければならないだろう。
同じ日の午後8時くらい、乃木塚 愛純の自宅。
「お母さーん、洗濯物はたたんだからねー!」
「ありがとう愛純、いつも助かってるわよ。立派に優しい子になってくれて嬉しいわ」
「いつも病院でいっぱい子供たちを治してるお母さんに立派さで勝てないけどねっ、でもお礼だったら受け付けてますよっ、Vtuberにもう一度なるのを許してくれるとかっ」
「優しい子だけど、こういう部分と煽り属性が玉に瑕ね」
乃木塚 愛純は元企業系Vであり、所属はライクスペースだった。しかし会社は裏社会に目を付けられるという形で消えており、それもあって今は親からVtuberになる許可は下りてない。
愛純は中学1年生であり、両親としては企業の所属して芸能活動みたいな事をするのは早いと感じていた。少なくとも今までそういった修練を積んでこなかった娘が通用する筈が無いと思っていたのだ。
しかし愛純は短期の活動にも関わらず5万人越えの視聴者登録を稼いでおり、これは同時にデビューした者達とも遜色ない登録数だ。しかも愛純は最年少でのデビューだった。
その事は両親も知っていたが、事務所があんな形で終わったことが大きな原因となり、愛純の再度のV活動は認めていない。
愛純の母は病院の岡崎小児科長から灰川という人がやっている事務所は安心だと聞かされたが、それでも許可しない方針に固まっているのだ。
「はぁ~、疲れました! こういう時はネットで何か良い情報でもないか調べてみますかね~」
そんな愛純は今もV活動をしたいと思っているが、許しが出ないので諦めるしかない状態だ。
それでも今もVtuberは好きであり、今の推しは同じ元ライクスペース所属者だった滝織キオンの転生V、手風クーチェである。
「やっぱ朋絵先輩の配信って面白い! 不安定な魅力があるって言うか、隠し切れない尖った性格とかが見てて飽きないんですよねっ」
朋絵は長時間配信が主力のVであり、面白さの波も強弱が大きい性質である。
性格も凄く良いとは言えないし、プライド高いし、炎上するし、ライクスペース時代に仲の良い所属者も正直に言うと朋絵は少なかった。
朋絵は凄く良い配信が出来ていた時期があり、そこで一気に視聴者が増えたのだ。しかしそこで調子に乗ってしまい、自分より数字を持っていない所属者をどこか見下している雰囲気が出ていた。
朋絵は伸びるための努力はしており、過酷な長時間配信を毎日のように行い、学業も疎かにして配信にのめり込んだ。その結果として疲れから判断が鈍り、炎上するような発言をして登録者が下がるような事になっていった。
手風クーチェになってからは長時間配信は前ほどしなくなったが、金曜日の夜や土曜日は長時間の配信をしている。
愛純は朋絵の努力と本気度を以前から感じていた、目付きが何処か母に似ていたのだ。小児医療に本気で打ち込む女医である母と同じ、何かに全身全霊で挑む目付きだ。
それもあって愛純は朋絵の事を慕っているし、周囲からどう思われていようと朋絵を嫌う事はなかった。
「はぁ、朋絵先輩も元気そうで良かった。私もまたVtuberやりたいですよ~! 灰川さんの事務所で良いですから~!」
そんな事を自宅の自室で言っても始まらないが、愛純のVtuberへの熱は冷めておらず、今も活動したいと思いながら悶々とする日々を送っていた。
一度でもあの熱を感じてしまうと戻れない、配信で沢山の人が可愛いと言ってくれる、SNSに自分の事を話してる人が居る。
学校で薙夢フワリの動画を開いていた生徒を見た時には、思わず『それ私です!』と言いたい欲に駆られたくらいだ。
Vフェスで感じたファンたちの熱気、他の企業Vや個人Vたちと一緒に一つのイベントを盛り上げる一体感、あの感覚も忘れられない。
配信を頑張って視聴者が増えて行く快感、良い配信が出来た時の爽快感、動画の視聴数が増えて行く嬉しさ。
朝に起きて視聴者登録が何故か減っていた時の眩暈がする程のショック、配信が上手く行かなかった時の酷い落ち込み、そういった正も負もある強い感情を抱いた事が忘れられない。
あの爽快感やスリルを感じられる世界の味を知って、止めてしまいたいと愛純は思えなかった。乃木塚 愛純の本質はそういう性質なのだろう。
まだ中学1年生だと親は言うが、愛純にとっては『もう中学1年生』だ。
世の中のアイドルと呼ばれる人たちは小学生や中学生の時点で修練を積んでいる、そんな中で私は何をしてるんだという気持ちが出て来る。
もちろん普通に勉強したり遊んだりして中学時代を過ごし、高校に上がって楽しく過ごして青春を過ごすという選択肢だってある。
しかし愛純は様々な人に自分の存在を発信できる事の楽しさや、視聴者を勝ち取る戦いの熱を知ってしまったのだ。
「あれ? 何かプチバズりしてますねっ、100年に1度の美少女小学生モデルが2人も現る? どれどれ」
手風クーチェの配信をパソコンで見ながらスマホでSNSを見ると、そこには衝撃的な可愛さを持った2人の女の子の写真と、ユニティブ興行という聞いた事の無い芸能事務所か何かの名前が載っている。
「こんな小さな子が頑張ってるのに~! すっごい悔しいですよ~!」
愛純は意味も無く焦りながら、今夜も現役でネット活動してる者達やバズってる人達への嫉妬が止まらない。自分もこの戦いの場に立ちたい、最近は特にそう思うようになってきた。
一度でも得た栄光を手放すのがこんなに辛いだなんて思ってなかった、ファンだとコメントしてくれた人達から忘れられていくのがこれほど悲しいと思わなかった。
薙夢フワリの過去のファンアートを見るのが辛い、納得できない終わり方でステージを去ったのが辛い、まだまだやれた筈なのに引退だなんて嫌だった!
「ぐすっ……Vtuberやりたいよぉ…!」
頑張って磨いた配信のトークスキルも、可愛くて思い入れのあるVモデルも、面接に受かって配信用に買ってもらった性能の良いパソコンも、今では不要の物になってしまった。
必要とされなくなった悲しさ、忘れられてしまう悲しさ、夢を諦めざるを得なかった悲しさ、これらは味わった者でなければ本当の苦しみは分からないと誰かが言っていた。
積み重ねて来たモノが全て無駄で不要なモノに変わる瞬間、愛純は開放感を感じる事は無かった。
あったのは絶望感と、どうにか虚勢を張って『シャイニングゲートに入れるよう口利きしてくださいよ~!』という空元気だけだった。
この悲しさから抜け出したい、愛純は強くそう思いながらネットの情報を今日も見る。どう足掻いたって悲しい気持ちや悔しい気持ちというのは消し難いものだ。




