293話 スタジオ入りで色々あったりする
翌日になり、灰川はハッピーリレーの車に由奈と貴子を乗せて、代官山の近くにある録音スタジオに向かっていた。
「灰川さん、今日は漫画のサブスクリプションのサイトのCMの音声収録なんですよね? 台本は届かなかったんですか?」
「届きませんでした、何度も運営会社と制作会社に確認したそうなんですが、台本が出来てないって言われるばかりだったって話ですよ」
「ふふんっ!心配無用よっ! ぶっつけ本番でも成功させちゃうのが1流ってもんよっ、わははっ!」
今日の由奈の案件は漫画サブスクサイト『コミックストレスゼロ』、略してストゼロのネットとローカルテレビCMの収録である。経営母体は中堅の央敬出版という会社だ。
ターゲット層は10代から20代の青少年のサイトであり、購読できる漫画もそこら辺に向けた作品が多い。
プロやアマチュア作家によるオリジナル漫画も豊富で、現在はそちらに力を入れているらしい。掲載作品数は3万タイトルと少ない感じがするが、他では読めない作品も多く、最近は少しずつ頭角を現してきたサイトだ。
「台本が直前までないっていうのも業界だと時にはあるって花田社長も言ってたんで、臨機応変にって事なんでしょうね」
「そうですか、どんなCMになるか楽しみですね。うふふっ」
「誠治もママもビックリするようなCMになるわ! がんばっちゃうわよ!」
灰川は花田社長にこういう時もあるとは聞いたが、同時に『こういう現場は約束を守らない事も多い』と聞かされたから注意が必要だ。
仕事が終わってからギャラを値切って来る、NGを出したから半額にしろ、弱小事務所だと思ってイビって来る、そういう事が1mmでもあれば電話してくれと花田社長から言われた。
花田社長は栄道制作という番組制作会社に居た時は、酷い時には一部でガス抜き起用なんて呼ばれる行為があったらしい。
ベテラン出演者が若手や新人をイジメてストレス発散するために新人起用という行為らしく、発言力の無い弱小事務所の新人を使って生贄にするという感じだったそうだ。
今はSNSの発達などで少なくなってるそうだが、やはり今でも逆らえない者を虐げる文化は根強く残っているようだ。
「ローカルとはいえテレビCMを頼まれるなんて凄い事だぞ、しかも事務所の力じゃなくて、破幡木ツバサさんに是非お願いしますって来たんだからな」
「私の才能を見抜くなんて見所があるわよね! ストレスゼロのサイトの漫画はしっかりチェックして来たわ! 期待に120%応えてやるんだからっ!わははっ!」
由奈は相当に意気込んでおり気合は充分だ、サイトにも登録して時間を縫って漫画を読んでおり準備も整えてある。
今日の由奈はラフなシャツに白のブラウスシャツ、下はロングスカートという落ち着いた服装だ。声仕事の邪魔にならない格好であり、目立ち過ぎないけど可愛さも感じられるコーデだろう。
だが相変わらずツインテールヘアと存在感が目立ち、声も大きいから落ち着いた雰囲気は一定以上には上がらない、それが由奈である。
車内では3人で笑って話しているが、灰川としては先方に結構な苛立ちを感じている。理由はもちろん台本の遅延だ。
「スタジオはここだな、アガミビルの地下1階と地下2階がスタジオらしいぞ」
「雑居ビルの地下ですか、録音スタジオには良さそうな場所ですね」
「古そうなビルねっ、でもキレイな感じで良いお仕事が出来そうだわっ!」
灰川は『また地下かよ…』と思わないでもないが、録音とかには地下だと都合が良いのかも知れないなとか漠然と思う。
由奈と貴子を連れて中に入り、地下のスタジオに下りて入場確認を済ませて中に入った。収録はB1階のAスタジオで、既にディレクターなどのスタッフは現地入りしてるらしい。
出演者は破幡木ツバサの他にも1人いて、その人物とも同時収録のようだった。その人はまだ来てないとの事だ。
アーティストロビーと書かれた休憩打ち合わせ室に入ると、ディレクターや他2名のスタッフが話し合いをしていた。
「お疲れ様です、ハッピーリレーのマネージャー代行の灰川です。今日は破幡木ツバサの収録をよろしくお願いします」
「こんにちはっ、破幡木ツバサですっ! お仕事の声をかけてもらって、ありがとうございますっ!」
「ツバサの母です、娘の付き添いですので気にせずお仕事をして頂ければと思います」
灰川は舐められないよう毅然とした態度で挨拶し、ツバサも元気にしっかり挨拶し、貴子も無難に挨拶をした。
「こんにちは、ディレクターの浅上です。破幡木ツバサさん、今日はよろしくね。マネージャーさんとお母様もよろしくお願いします」
そこから名刺を交換したり他の収録スタッフにも挨拶をしていくが、ツバサの挨拶はスタッフ全員から好評だった。
「こんにちわっ、破幡木ツバサです! アシスタントの清水さんっ、よろしくお願いしますっ!」
「よろしくお願いします、なんだかツバサちゃんってVモデルにそっくりですね、ふふっ」
「破幡木ツバサです! サウンドミキサーの…とり…こきり…さん、かしらっ?」
「その漢字で鵜謹桐って読むんだよね。難しくて読めないでしょ? ははっ」
「ウキンドウさんねっ!うんっ、覚えました! よろしくお願いしますっ!」
言葉遣いも及第点で、元気が良くてスタッフからの初対面の印象は悪くない感じだ。
ディレクターとも挨拶をしたが、今の所は気難しくて評判が悪いという印象は無かった。
Dの浅上は40代後半くらいの男性で、サウンドミキサーの鵜謹桐は30代後半か40くらいの男性、アシスタントの清水は20代の女性である。
「浅上ディレクター、台本が今も頂けてないのですが、大丈夫なんでしょうか?」
「その件はスイマスン、CM脚本が今日の午後にも上がってなくて、どうにかついさっき決まって上がったんですよ」
どうやら最後の最後までCMの造りに関しては揉めたらしく、ギリギリまで決まらなかったそうだ。
収録の延期なども考えたそうなのだが、そうなればCM自体が延期になってしまうし、その分の損失も発生する。
ハッピーリレーやツバサにだって迷惑が掛かるし、関係者たちの長年の経験から『延期は信用も金も溶ける』というのも知ってるため、それだけは避けたかったとの事だ。
花田社長も延期だけはしてくれるなとボヤいてたそうで、予定の延期というものは金銭の他にも大きな影響があるようなのだ。
例えば破幡木ツバサの収録が延期されて、次に向こうの都合が付く日がnew Age stardomの収録日だったとしたら、どちらかを蹴らなければならなくなる。
仮にCM収録を選んだ場合はnew Age stardom側は、最初に番組収録を別の日に回せるかという事を検討しなければならず、ナツハやれもんのような多忙な人が居るから無理となるだろう。
そしたら番組脚本の練り直しをしなければならず、脚本家や関係スタッフに多大な迷惑が掛かる。
new Age stardomを取った場合は、出版社側から『破幡木ツバサは先に予定していた仕事をすっぽかした』なんて、悪意の尾ひれが付いた話が何処かに飛びかねない。
そうなれば今後に影響が出るし、下手をすれば炎上なんて事だって考えられる。
そういった事が起らなかったとしても、延期になればハッピーリレーから今回の仕事元である央敬出版を見る目は悪くなる。それだって好ましい事じゃない。
そして央敬出版からすれば現在のハッピーリレーはOBTテレビに合同冠番組を持つ芸能会社であり、その影響力は軽視できない。
つまり何が何でも脚本と台本は間に合わせなければならず、延期などもっての他だったのだ。
「破幡木さん、これが今日の台本です。とにかく元気に明るく喋って、CMを見た人が登録したくなるような声でお願いって、央敬出版さんから要望です」
「わかったわっ! あっ、じゃなくて分かりましたっ! あっちで読んでいますっ!」
「すいません浅上D、少しよろしいでしょうか?」
ツバサはアシスタントの清水から台本を受け取り、貴子が座っている壁際の椅子の隣に座って確認を始める。
灰川はDに台本の遅れが生じた理由を聞くことにした、流石に本番直前まで台本が届かなかったとなると警戒もする。
ツバサに台本を渡さず晒し者にでもしようとしたのか、ライバル企業の評判落としの差し金か、新人に嫌がらせして楽しむような精神の奴なのか。
灰川はこれまで業界人には嫌な奴が多いと聞かされても来たし、実際に嫌な奴にも会った。これほどの遅延をしたのだから信用なんてゼロだ、とにかく疑いの目を向けて臆さず話す。
ツバサがどんなNGを出そうが本人に向かって文句は言わせないし、少しでも変な態度をしたのならハッピーリレーに報告すると決めた。
アーティストロビーから出てツバサからは見えない場所でDと話す事にする。
「まずは台本が遅れて大変に申し訳ありませんでした、今回のCMに関しては様々に揉めまして」
「そうですか、じゃあ当方の破幡木ツバサがどのような仕事をしても強く出たりしませんか? 他意があって遅れたという訳ではありませんか?」
「強くなんて言いません、会社からも央敬出版からも絶対に失礼が無いように接しろと言われてますし、破幡木さんに何らかの意図があって遅れた訳でもありませんから」
仕事元の央敬出版は四楓院系列の下部傘下の会社であり、資本の上下関係があるから央敬出版は逆らえない。だが央敬出版は灰川がどのような人物なのかは知らない。
金名刺名簿が渡されるほど大きな会社じゃないし、社長も四楓院家の者に会った事はない。だが央敬出版に融資している銀行や上部の出版社から、今回の仕事に関しての注意点は央敬出版に行っている。
しかし浅上が所属している映像制作会社は四楓院系列ではなく~~……みたいな事が重なって少し面倒な関係性だが、とにかく『失礼の無いよう』とは厳命されている。
「台本遅延が原因で破幡木ツバサが上手く出来ず、そのせいで名前に傷が付いたりした場合はどのように対応して頂けますか?」
「え、あ~…まぁ、それはぁ~…」
「本番直前に台本を渡すってどういうことですかっ? どんだけ失礼で無茶な事か分かってますかっっ? ハッピーリレーが小さな事務所だからって舐めてますよねっ!?」
「いや、えっと」
実は灰川はかなり頭に来ており、この仕事のせいでツバサの名前が下がったらどうしてくれるんだ!?という感情が表に出る。
ぶっつけ本番で酷い棒読みとかになってしまっても、CMを見た視聴者にはそんな事情は分からない。ただ破幡木ツバサは酷い棒読みだとか、ツバサは酷い仕事をして依頼者に迷惑をかけたなんて悪評が広まりかねないのだ。
灰川は少し前に浅上Dの評判を聞いており、仕事で出演者に『エンタメ仕事ナメてんのか!?』と怒ったりしたと聞いた。
仕事を舐めてんのはどっちだ!と言いたくなる、本来なら最低でも1週間前には台本は届くはずだった。どのように抑揚をつけるかとか、どのようなトーンで説明を喋るかとか、そういった事が複数パターンに渡ってちゃんと書かれた台本だ。
それがぶっつけ本番の当日の現地で渡される始末であり、Vtuberや配信者が芸能界で大きな認知が無いからって、どんだけ舐めたマネしても言いなりになると思ってんのか!?と遥か目上の年齢の人が相手でも聞きたくなる。
「本当に申し訳ありません…責められて当たり前だと強く思います。ですが央敬出版で色々あったみたいでして…」
「色々あったからって遅すぎでしょう! これで上手く行かずにツバサのメンタルにダメージが行って、配信に影響出たらどうしてくれるんですか!」
仕事が遅れるというのは様々な影響が出るという事であり、それは金銭に関わる問題だけではない。
軽く見られている、練習が足りずに上手く行かなくて凹む、そういった事から精神的に追い込まれる事がある。それはメンタルが大事な活動者にはダイレクトに心に来る可能性もある。
ツバサは今は伸びている時期であり、余計なダメージで経歴に傷を付けさせたくない。
灰川はツバサの前では何でもないような雰囲気を出していたが、今は感情を押さえる事で精一杯だった。
「もしツバサさんが失敗したなら…依頼料はお支払いして、CMは差し替えという形にします。央敬出版にもそれで通しますので」
「そうするしかないでしょうね…もしCMを出してツバサが炎上した場合は、台本がスタジオ入りの時に渡されたと拡散します」
契約には違約金などの記載はなく、こちらからも向こうからも請求は出来ない。しかし契約書には台本は最低でも1週間前に送付すると書かれている。
まさかこんな事になるとは思ってなかったし、こういう場合の対処の仕方を花田社長に教わっていなければ危なかったかもしれない。
契約を軽んじられて『まぁ良いですよ』で済ませれば、その話が業界に広がり『この会社との契約は破ってもOK』と広まってしまうかも知れないのだ。
既にツバサは契約を破られている身だが、それでも契約破棄はせずにやり切ると言ったのだ。ならばサポートするしかない。
世の中にも、納金が遅れているけど契約は続いている、なんて例は幾らでもある。こういう事は決して珍しい事ではないだろう。
だが、契約は破られた時には毅然と対応しなければならず、対応した側も後味は決して良くない物だ。こういった事もサポートの大事な仕事である。
「灰川さん、何があったか知らないけど、そんな怒っちゃダメだと思いますって」
「あの…取り込み中に失礼します。通路から灰川さんが見えたもので」
「え…? ケンプスさんとシャルゥさん?」
「あ、君たちはB2階で収録してた子達? 灰川マネージャーの知り合いの子達なんですか?」
なんと偶然にも同じスタジオでシャイニングゲートのVtuber、ケンプス・サイクローと赤木箱シャルゥが何かの仕事があって同じスタジオで収録していたらしい。
シャイニングゲートは自社仕事は社内にあるスタジオで収録するのだが、他社仕事だと外部スタジオを利用する事も普通にある。
他社仕事でも楽曲提供やボイスの提出などだったら外部スタジオを使う事はないが、今回は違ったようだ。
「シャイニングゲートって、自由鷹ナツハさんが居る事務所ですよね?」
「そうです、私はケンプス・サイクローという名前で活動しています。よろしくお願いします」
「私は赤木箱シャルゥでーす! ツバサちゃん居るんですか!? 挨拶にお邪魔しても良いですかっ!?」
「私は構わないけど、ハピレさんは外部NGとかはありませんか?」
「あ、はい、大丈夫です」
ケンプスとシャルゥはDに普通に名乗ったが、これは大丈夫なんだろうかと灰川的には思う。だが外部仕事もあるのだから、業界人に対しては自己判断で少しは名乗って良いという規則がシャイゲにはある。
2人は収録は終わっているらしく、軽い気持ちでAスタジオのアーティストロビーに入る。
灰川もこれ以上の波風は悪い事しかないと感じているので、Dを責めた事を後から謝って事を収めようと思う。
とりあえず、これ以降にもしも央敬出版から仕事が来たら、花田社長によく考えるよう伝えておこうと考える。
舐めてないとか、そういった言葉は口先では何とでも言える。信用できない所とは良い仕事が出来ない、こういった会社と取引を続けるのはハピレにとって危ないと言おうとか思ってたのだが……。
「この台本、全然ダメね! コミックストレスゼロの漫画の良さを何も分かってないわ!」
「そうね~、無難どころかCM明けたら2秒で忘れちゃいそうな台本だと思うわ」
「「!!?」」
なんと、ツバサと貴子が台本のダメ出しをしてる所に丁度良く入室してしまったのだ。灰川、浅上D、ケンプス、シャルゥは驚きの表情になる。しかもツバサは。
「浅上ディレクターさんっ! この台本、まるでダメだと思いますっ! ちっともストレスゼロっぽくないよーに見えます!」
「ちょ、ツバサ!? おまっ、浅上ディレクターに何言って…!!」
破幡木ツバサは物怖じせずにこういう事を言う子であり、提案とか提言とか包み隠さず言える性格なのだ。
まさかのスタジオで台本受け取りからの、その場で台本にケチを付ける業界経験の浅いヒヨッ子、状況が普通ではない。
だが浅上は会社からツバサに強く出るなと言われているので、ツバサを言い含めれば取り返しは付くと思ったが。
「よっし、じゃあ台本は変えちまうか。ウチの矢倉沢が無理に書かされた忖度と配慮だらけのつまんねー台本だしな」
「話が分かる人なのね! こんな台本じゃストゼロサイトの良さは全く伝わらないわ! わははっ!」
「「!!?」」
灰川とケンプスとシャルゥは驚き、瞬きを忘れてしまってる。まさかそんな簡単に台本が覆されるとか思っていなかった。
浅上ディレクターは業界内で気難しくて評判が良くない人物だが、理由の多くが台本や脚本の無断変更である。そのため脚本に命を懸けている脚本家からは相当に嫌われている。
出演者に対しても厳しく当たる事もあるが、それは良い物を作りたいから感情的になってしまう事があるということだった。
勝手に脚本や台本を変えてしまうが上手く行く事の方が多いようで、なかなかに一筋縄ではいかない監督だと良い評判と悪評が同時に存在する人物である。
嫌っている人が多いが、同時に味方も多いという人物であり、業界内にはそういう演者や監督も多いようだ。
コミックストレスゼロのサイトは青少年向けの漫画が多く、個性的な作品や、ちょっと男性向けが強めの作品もあるサイトだったりする。




