257話 新形態事務所の1日
「じゃあこのままの調子でよろしくね朋絵さん、まずはリハビリ感覚で勘を取り戻すって感じで」
『はい、まだまだ私はこれからなんで! 一気に進んじゃいますからね! 後押しお願いします!』
昨日は男道 朋絵こと灰川事務所の新人Vtuber、手風 クーチェが仮デビューした。その事の報告ついでに仕事の話などを朋絵と電話で済ませておく。
宣伝なども大きな物はしておらず、SNSでアカウントを作ってデビュー告知はしたという感じだ。
灰川事務所はまだ芸能事務所としての名前を決めておらず、砂遊のVモデルも準備は整っておらず、佳那美とアリエルの仕事も確定までは行ってない。
しかし周囲の支えや2社の協力もあって大体は上手く事が運んでおり、焦るような状況ではない。
まだ事務作業などでも完全な連携は構築できてないし、準備が整ったら本格始動という形を取る計画である。もちろん早めに動けるようしていくつもりだ。
「…灰川さん……、入力作業っ……終わりました…」
「ありがとう藤枝さん、案件依頼とかの情報整理とかも今度に教えるからさ、出来たらそっちの作業もお願いしたいな」
「……うん……分かりましたぁ…」
今日は藤枝がバイトに来てるが、今の所はコミュニケーション能力向上の兆しは見えない。
しかし本人曰くこれでもマシな方らしく、クラスメイトですらまともに会話が出来ないそうなのだ。
そのため学校にも極力は通わないようにしてるらしく、進級できる単位と点数が取れればそれで良いという学校生活になってる。
だが流石に高校生を学校の時間中にバイトさせる訳にも行かず、学校時間外でのシフトを組んでる。そのためバイト時間は基本的には短く、灰川が残業する時などは少し多くなるという形だ。
「今日はこの辺にしておこうか、お疲れさま藤枝さん」
「……は、はぃ……お疲れさまです…っ、…灰川さんも……」
前髪で隠れてる目はきっと泳いでる、藤枝は自身でもコミュニケーション能力を上げたいと思ってるが道は長そうだ。
既に夜と言える時間になって残業は終わり、今日の灰川は事務所の仮眠室での宿泊だ。藤枝は既に退勤してる。
だがまだ完全には今日の業務は終了しておらず、レッスン終了後に佳那美を迎えに来る母と仕事について話さなければならない事がある。
アリエルのレッスンもそろそろ終わる頃合いで、佳那美の母も少ししたら来るはずだ。
「こんばんはー! 灰川さんっ!」
「ハイカワっ、レッスン終わったよ! 今日もガンバったよっ」
「お疲れな2人とも、お帰りなさいっと」
今日もレッスンを順調にこなして芸能技術を上げたらしく、佳那美もアリエルも充実した時間を過ごせたようだ。
2人はやればやるだけ伸びる、そんな才覚を持ってる子達だ。しかも努力も楽しめる性格だし、2人の性格の相性なんかも良いらしく上手く行ってる状態だ。
「レッスンは順調? ダンスとか演技とかやってんだよね?」
「うんっ、コーチの先生から、もう子役になれるって言われたよっ! えへへ~」
「ボクもダンスが凄いって褒められたっ! 今度はもっと色んな事をコーチングしてくれる事になったよっ」
灰川も2人のレッスンを受け持つコーチ達から話は聞いており、既にプロの世界で通用するレベルだと聞かされてる。
ドラマ出演や番組出演の打診があった話もしており、佳那美の母とはその事について詳しく話す予定だ。
「TVのお仕事も楽しそうだけど、やっぱりVtuberもやってみたかったなっ。カナミもやってたんだよねっ?」
「うんっ、私はルルエルちゃんっていう名前でVtuberやってたんだよ。すごく楽しかったっ!」
「なんだかボクの名前と似てるねっ、アリエルとルルエルっ。なんだか身近に感じちゃうな、くふふっ」
佳那美はVtuberとしては引退してる状態であり、今の所は活動再開の目処は立ってない。ここからは芸能関連での活動を主にしていく方針となったのだ。
アリエルはVtuberにも強い興味を示してるが、今の所はV活動の予定はない。しかし質を問わなければV活動は簡単に出来てしまうのが今のネット界隈だ。
「アリエルがVtuberやるなら名前は何だろうな? エク・ソシスとかどうだ?」
「それじゃExorcistじゃないか! そんな名前のVtuberなんて怪しいよ!」
「そうか? だったら栗須磨 スゥとか」
「ムリヤリ教会や霊能力に結び付けなくていいよ!? でもクリスマスプレゼントとサンタクロースは大好きさっ!」
「あははっ、灰川さんとアーちゃん面白~い!」
ホテルでの悪魔祓いの一件を経てアリエルと灰川の仲や理解度は深まっており、一緒に居る時のアリエルが笑顔の時間が増えていた。
佳那美にもアリエルは霊能力が有って、実家はオカルト仕事なんかを請け負ってる家系だという事も話したのだ。除霊などには剣を使う事も話し、佳那美は絶対に誰にも話さない事を約束した。
これについてはアリエルが佳那美には隠したくないという心があり、可能ならば他にも何名か話しておきたいと感じてる人達も居ると聞いた。だがタイミングは少し考えるべきだろう。
聖剣だとかアーヴァス家という資本家の事などは話しておらず、実家はそこそこ裕福とかという感じで話しておいた。流石に全てを話したって信じてもらえなさそうだという理由もある。
「こんばんは、明美原です」
「こちらへどうぞ、お茶をお出ししますんで」
「ボクがアールグレイを淹れるよっ、サクラから良いリーフをもらったんだ」
アリエルが紅茶を淹れてくれてる間に佳那美の母に仕事の説明をする。
「先に聞いてはいましたが……ドラマや動物番組に子供クイズ番組、キッズファッションショー、複数事務所合同のアイドルグループの勧誘、凄いですね」
「佳那美ちゃんとアリエルの努力のおかげで売り込みに成功しました、自由にやらせてあげたい気持ちもありますが、どの仕事を受けるにしても親御さんの許可が欲しい年齢ですので」
「これだけあると迷ってしまいますね…」
最近はOBTテレビスタッフがこちらに来た時に2人のレッスン風景などを撮影して持ち帰り、局スタッフの間で『この子達を使いたい!』という声が増えていた。
お笑い番組などの技量的に出演が難しい番組などもあるが、2人の容姿や笑顔を見たり声を聞いたりした製作陣は、佳那美とアリエルの起用に強く前向きの姿勢である。
子供程度で大袈裟だという感じもするが、この2人には明らかに才能がある。子供の頃から滅茶苦茶な金を稼ぐ子役やタレントだって居て、この2人がそうだと見た者達は確信してるのだ。
「アーちゃんのいれたお紅茶美味しいっ! お茶って苦くて好きじゃなかったけど、これなら美味しく飲めちゃうっ」
「カナミとボクのにはシュガーと蜂蜜とミルクをいっぱい入れてるよ、ボクの大好きな飲み方なんだっ」
この2人の活動をどのようにしていくか、それには佳那美の母の意思だって大きくなる。佳那美はまだ自身だけで全てを判断させるべき年齢では無いし、それが許される環境ではない。
アリエルにしたって灰川や周囲の大人が適度にアドバイスなどをしており、生活面でも活動面でも極端な事にならないよう見守ってる。
本来ならもっと段階や経験を踏んでステップアップして今のような仕事が来るものだが、灰川の伝手や2人の才覚がそれらのステップを飛ばしてしまった。
最初は商業施設などの小さなステージで歌やダンスを披露するとか、劇団に所属して端役としてステージに上がるとか、佳那美の母はそのように考えてたのだ。
それがいきなり全国ドラマやテレビの出演に、有名デザイナーによるキッズファッションショー、更には相当に力を入れたアイドル企画の年少メンバー勧誘、至れり尽くせり。
本来ならどれを取っても活動の最初に来るような仕事ではない、しかし売り込んだ先が良かった。全国テレビの上層部の力と業界拡散力は生半可なものではなかったようだ。
「灰川さんはどう思いますか?」
佳那美の母は灰川のコネを甘く見ていた部分が大きく、まさかテレビ局の上層部に直に売り込めるような人だとは思ってなかった。
灰川としてもそういう立場になったのは偶然の力が大きく、大っぴらに自慢したり喧伝したりするのが憚られるから大声では言えない。
それにこんなに成功するとは正直言って思ってなかった、小さい仕事でもなんでも取れれば良いかぐらいに考えてた。灰川も最初はテレビ局の力を甘く見てたのだ。
「俺としては最初から飛ばして大きな仕事を受けても大丈夫だと思います、コーチや花田社長からも2人にはその技量が備わってると聞きましたから」
「この出演打診を見ると、どれも大きな仕事ですものね」
どの仕事も1000人に一人が取れるかどうかという仕事であり、全国の事務所やクラブにこれらの出演を狙ってる子供や親が居る。
灰川が参考として聞いた話では、ドラマのメインキャストのオーディションには全国から3000名を超える人が集まり、その他の役でも倍率は凄いらしい。そんな所から声が掛かる、凄い事だ。
「お母さんっ、私、全部出てみたい! ドラマのお仕事ってすごく面白そうだもんっ!」
「そうもいかないって佳那美ちゃん、スケジュールが被るものもあるし、選ばなきゃいけないよ」
「ボクはダンスのお仕事とかも良いと思うなっ、あとCMのお仕事もオススメだって親戚の伯母さんから聞いたよっ」
すぐには決められない、それ程に迷ってしまうラインナップだ。どれを取っても大仕事と言える内容であり、選択次第では今後の方針にも影響があるかも知れない。
「なるべく早くお返事をします、今日の所は持ち帰って考えさせて頂けますか?」
「その方が良いと思います、佳那美ちゃんと一緒によく考えてあげて下さい」
「灰川さんっ、アーちゃんとも相談して決めるねっ! お仕事楽しみだな~、えへへっ」
こうして今日の仕事選択の相談なども終わり、明美原母娘は帰宅していった。
アリエルは灰川と相談して決めるような形になるが、その灰川は花田社長と相談したりしながら方向を考えて行こうと思ってる。
「さ~て、今日は仕事は完全終了だな、夕ご飯食べようぜ」
「ハイカワっ、フードデリバリーが来たから一緒に食べようよっ」
「おっ、良かったじゃん、でも俺の分は無いから王さんの店で何か買って来るかな」
灰川事務所がある雑居ビルの1階は王中華飯店という店で、持ち帰りメニューなんかも充実してる。
アリエルが食事の準備をしてる間に灰川はそそくさと夕飯を調達してきて、今晩の食事が始まったのだった。
「そういえばハイカワ、レッスンのコーチに言われたんだけどねっ、それとスクールの友達にも言われたんだけど」
「ん? アリエルちゃんのお箸の使い方が独特とかって言われたのか?」
「違うよ! お箸の使い方は練習中だよ! そうじゃなくて、ボクはもっとエンターテインメントを見たり体験した方が良いって言われたんだ」
アリエルは今まで修行的な生活だった事もあり、エンターテインメントなどには触れる機会が少なかった。
全く触れて来なかった訳ではないが、見た事があるのは大体は品が良くてハイソなエンタメであり、バラエティ豊かに娯楽に触れて来たとはお世辞にも言えない身の上だ。
映画、アニメ、ゲーム、流行楽曲、コメディ、漫画、ライト文芸、そういった大衆娯楽の実体験が非常に少ない。
「なるほどなぁ、これから活動していくのに、そういう経験が少ないのはヤバそうだよなぁ」
「うん、ボクもエンターテインメントを体験してみたいし、カナミやクラスメイトが言ってた色んな事を知りたいんだっ」
芸能という道を進もうとしてるのにエンタメの経験が低い、これは流石によろしくない事だろう。
もちろんアリエル以外にも真面目に芸能活動して、実はエンタメの経験が少ないなんて子供タレントや子役は居るだろう。しかしそれは何処かで悪い意味で躓きをもたらす事もありそうだ。
アリエルは日本に来るまで甘いお菓子もあまり食べさせてもらえないくらい禁欲的な生活で、その反動から日本のパフェにドハマりしてる。もうパフェを見るだけで笑顔になっちゃうレベルだ。
前に“魔法のメロディ少女・プリコーダーズ”のコスプレでステージに上がったりしたが、アニメの方は興味はあれどいまだに見てない。
漫画も存在は知ってるが読んだ事が無く、読み方すら知らない。映画は真面目な作品しか見たことが無い、ゲームはやった事が無い、Vtuber配信もまともには見てない。
日本に来て色んな事があって怒涛のように今の状況になっており、やはり娯楽に触れる時間は少なかった。
芸能仕事とオカルト仕事を両立させなければならない身の上だが、それらを成立させるには様々な知識や経験が大事になって来る。
「じゃあ今度に佳那美ちゃんとかも誘って秋葉原か池袋あたりに行ってみるか? 新宿とかも劇場とか寄席とかあってエンタメが充実してるし、迷い所だな」
「えっ? アキハバラ?イケブクロ? そこはエンターテイメントがいっぱいあるの?」
「エンタメってかサブカルチャー全般だな、漫画とかアニメとかマニア産業の店とかよ。新宿とかはエンターテイメントって感じなんだけどな」
東京には様々なサブカルチャーが集約された街や、多くのエンターテイメントが集まる街がある。そういった街の説明を軽くアリエルにすると。
「そんな街があるのっっ!? ウソだよっ! このシブヤだって初めて見た時はスゴイって思ったのにっ!?」
「まあ実際に行ってみなけりゃ分らんよな、漫画とか持ってれば読ませてあげられたんだがなぁ、アニメは事務所じゃサブスクも見れないしな」
「いつ行くのっ? 楽しみだなぁ、待ちきれないよっ。コミックもアニメも早く見てみたいなっ、くふふっ」
こうしてアリエルに日本のエンターテイメントを体験させる事になり、これからも一層に活動に励んで行こうという話になった。
やがて夕食も食べ終わって、事務所でアリエルと一緒にテレビ番組なんかを見たりしながら過ごす。
こんな風に日本のテレビやカルチャーを学びつつ、芸能の活動を本格的にやれるよう目指していくのだ。




