235話 夢への道を開くため
「ケンプちゃん、どったのいきなり?」
「シャルゥ、灰川さんがテレビ局の上層部の人に挨拶に行くから、一緒に行く?って声掛けてくれたの、一緒に行くわよ」
「ケンプちゃんが言うんだったら行くよ~、でもちょっと緊張するかも」
ケンプス・サイクローこと鈴井 優子は黒髪のロングヘアで、赤木箱シャルゥこと紅弓 華符花はちょっと野暮ったい感じのセミロングの子だ。
2人は幼い頃から仲が良く、優子が高2で華符花が高1と学年は1つ違うが、先輩後輩のような感じではなく凄く仲が良い。高校も同じ所に通っており、シャイニングゲートにも同じ日にアカデミーに入って、同じ日にデビューしてる。
「シャルゥさん、今からOBTテレビ専務取締役代表執行役員の三河田 憲治さんっていう、OBTテレビで3番目に偉い人に挨拶に行くから、礼儀とかしっかりお願いね」
「分かりました、カルチャー系の番組に強い人ですか。じゃあケンプちゃん音楽番組に出してもらえるか頼んでみよーよ。私もお金になる仕事か芸術祭の出展権とかもらえたら良いなぁ」
「シャルゥさんはお金が欲しくてVやってるの?」
「そーですよ、私は芸術方面に興味があるんですけど、そっち方面って凄いお金が掛かるんで、わっはっはっ!」
「笑い事じゃないわよシャルゥ、はぁ……」
赤木箱シャルゥはイラストが上手いVtuberだが、芸術方面全体に興味があるらしく、そっち方面の活動も目指してる。しかしそれらは金が掛かるらしく大きな稼ぎも将来的に見込めない場合が多いそうだ。
そしてVtuberも好きであり、Vとアートの融合を目指して活動してるそうだが、その事は視聴者にあまり強くアナウンスしてないそうだ。
灰川の見立てでは赤木箱シャルゥの月収は100万円行かないくらいだろうか、そのくらいの収益が維持できれば芸術方面で身を立てる事も出来そうだが、現状がいつまでも維持できるかは分からない。
各種収益は事務所の取り分もあるし、シャイニングゲートはメンバーシップ、投げ銭やグッズ収益は演者の取り分は低い。企業案件などもシャルゥは少ないし、ナツハ達のように自身が稼げる導線は引けてない状態だ。
シャイニングゲートの利益における演者の取り分が比較的多い仕事は、配信や動画での広告表示や企業案件、後は個別スポンサーが付いてる場合は投げ銭収益なども取り分の割合が増えるという感じなのだ。
つまり、やり方を考えなければ演者自身はそこまで稼げないという事であり、そこで上手く立ち回れるかも重要になって来る。儲けようと思ったら、収入の導線を引かなければならないのだ。
メンバーシップはボイスなどもありはするが、コメントで使えるスタンプやデスクトップイラストの配布が多く、後は過去の配信のアーカイブを視聴できるという感じで、実は本人はそこまで関わらないからメンシ収益は9割くらいは会社が持って行く。
これはメンバーシップ加入者をVtuberがあまり特別視しないようという装置でもあり、会社の重要な運営資金にもなる。動画や配信での収益は直接にVtuberの配信気力を上げるから演者への収益も高く設定されてる。
「芸術方面かぁ…そうなるとキツイよなぁ」
「そうなんですよ! だから良いお金になる仕事があればな~って感じですね!」
赤木箱シャルゥは手っ取り早く視聴者を掴めて収益に繋がる方法は何かと考えた時、色々と調べて自分でも考えた結果、エロティシズムが稼げるという結論に至った。
しかしシャイニングゲートでは当然ながら直接的なエロは禁止で、シャルゥ自身もやりたくない。しかし『心の何処かをくすぐるタイプ』という感じなら行けると思って実行したのだ。その方針も本人の性質に向いてたらしい。
配信で胸の柔らかさを何かに例えたり、お風呂の話題を積極的に出して視聴者の想像力を掻き立てたり、ケンプスとコラボした時に軽く百合営業したりなどしてる。
その方策はある意味では成功で視聴者は高校1年にして80万人になってるが、視聴者は常に今以上を望むもの、一貫してライン越えはしないエロでは爆発力も低く大きな壁を越えられない状況だ。
エロは手っ取り早く求心力を上げられるが、同時に飽きられるのも早い。だがシャルゥの何処か心に刺さって抜けないタイプの、明るいエロティシズムのトークは多くの人の心を掴み続けてる。
「桔梗さん、コバコ、CM案件はほとんど確定だけど、2人はまだデビューもしてないから、これから精進します的な姿勢を崩さないようにね」
「はい、もちろんです。まだ何も始まってませんから」
「おう、何だか緊張してきたな」
「シャルゥさんとケンプスさんも、頼みたい事とかあったら分かりやすく、しっかり頼んで。そうじゃないと伝わらない事があるから」
「はい、失礼の無いよう気を付けます」
「私も専務さんなんて絶対に怒らせたくないし、すっごい気を付けますよ」
こうして5人で上層部の役員室がある28階に行く事になり、エレベーターに乗って灰川が渡されてる入構証をエレベーターの認証装置にかざす。こうやってカードのICチップを読み込まないと上層部が居る階にはエレベーターは止まらないのだ。
本来なら富川Pも一緒に来た方が都合が良いのだろうが、あちらは収録の方で仕事があるらしく、こちらには来れない。
プロデューサーは資金集めはしても番組制作にはあまり関わらない人が多いらしいのだが、富川は現場仕事もこなすし、番組の編集などにもしっかり意見を言うタイプなのだそうだ。
「すいません、専務取締役代表執行役員の三河田さんにお会いさせて頂くアポを入れさせてもらってた灰川です」
「はい、少々お待ちください。すぐ確認を取りますので」
前も見た受付の人がアポ確認をして通される。受付から奥に進むと専務取締役代表室と書かれた部屋があった、上層役員は個室の仕事場が与えられるらしく、専務である三河田も個室だ。
通常の役員は壁で区切られた程度の半個室の執務室ようだが、専務となると扱いは別格だ。完全個室となり秘書なども着けられ、専用応接室などもあると富川Pから聞いてる。流石は名だたる大企業だ。
そこでノックしてらドアが開けられ中に入ると、5坪ほどのそこそこ広く執務に丁度良いくらいの広さやレイアウトの専務室が目に入る。
大きな窓があって28階という事もあり眺めが良い、室内のテレビなども大きな物が用意されてる。流石はテレビ局だ。
「こんにちは灰川先生、今日はお忙しい中でわざわざ足を運んで頂きありがとうございます」
「いえ、とんでもありません。こちらこそお時間を取って頂きありがとうございます三河田専務」
専務室に入れられ、そのまま部屋の中のドアから応接室に入れられる。そこでソファーに座り、秘書っぽい女性が灰川たちにお茶を淹れてくれた。
そのまま桔梗とコバコ、シャルゥとケンプスの紹介もしていった。三河田の後ろに控えてる秘書がしっかりとメモを取る、名前や4人の特徴などを書き込んでるのだろう。
「朝方の時間にすいません三河田専務、今日は収録などで皆が忙しいものでして」
「お気になさらないで下さい灰川先生、そんな事を私が気にしてたら総会長や会長に何を言い渡されるか分かった物ではありませんよ」
総会長と言うのは四楓院陣伍、会長と言うのは四楓院英明である。もし灰川に何かあったら首が飛ぶ、そんな事は絶対に御免だろう。
しかし三河田はこの前の祓いを通して仲が少しは深まっており、恐れ多いみたいな態度では接してない。むしろしっかりとしたビジネスパートナーとして見てくれてる節がある。
それでも忖度はしてるし実質的に逆らえない関係性ではあるが、意見を言ったりしても灰川という人物は怒らないという認識もある。
OBTテレビの幹部上位3名は、仕事に関しては四楓院が相手であっても『その事業計画は失敗する可能性があります』とか『その目的があるなら、この計画はどうでしょうか?』といったような意見はしっかりする人達なのだ。
三河田を始めとした幹部たちは褒められた部分ばかりではない人間だが、仕事に関しては真面目な部分が多くを占める人物である。忖度などだって利益のためにするのであって、ただ尻尾を振るだけの者達ではない。
「飛鳥馬桔梗さんと雲竜コバコさんですね、正規デビューおめでとうございます」
「ありがとうございます、デビューを機に益々の精進をしていきますので、どうかサポートの方よろしくお願いいたします」
「OBTテレビさんがスポンサーに付いてくれて心強い限りです! こっからも頑張って行きます!」
桔梗とコバコは挨拶も出来てたし、スポンサードの礼もしっかり言った。これなら十分に及第点だろうと灰川は思う。
「いえいえ、スポンサー契約は幹部会で決めた事ですし、お二方にスポンサー契約を持ちかけた広告代理店企業のルーツKIYさんの方が企業規模は大きいですから、我々は小さな力でしかありませんよ」
「OBTテレビさんが小さな力だって言うなら他の企業さんは形無しですよ、はははっ」
そんな社交辞令の謙遜話とかしつつ、雑談っぽくも仕事の話をして雰囲気を少し和らげる。
シャイニングゲートとハッピーリレー主導の新番組new Age stardomには大きな期待を寄せてるとか。
紫入構証があれば局内では安全だし、既に業界には2社の所属者に紫入構証が配られた噂が流れてるとか。
OBTテレビに限らずテレビ業界はネットの躍進に危機感を大きく持ってるとか、そういったような話を灰川と三河田がして、他の者は頷いたりしながら少しばかり喋っていく。
「飛鳥馬さん、雲竜さん、もし良ければOBTテレビの夕方子供番組で流れる玩具のCMの仕事を受けてみませんか? 話は来てましたよね」
これは予定調和のやり取りだ、シャイニングゲートにも話は通ってるしアニメのスポンサーである玩具会社にも話は通ってる。
こういった話は必ず本人に何処かで時間を取って直で伝えるのが望ましいという慣習があるらしく、それがこの場なのだ。
本人に伝えて了解を取る事で齟齬の発生が少しでも防げるし、その後のやり取りもしやすくなるという理由もありそうだ。
もちろんテレビ局幹部が直に頼むとかはまず無いだろうし、スポンサー企業から声が掛かる場合が多いのかも知れないが、今は例外である。多忙でどうしても本人に伝えられない場合もあるようで、ケースバイケースという事だろう。
三河田は夕方にやってる子供番組のプロデューサーの直系上司であり、そのスポンサーである玩具会社をテレビの力で救った事があるのだ。それ故にCM起用の芸能人などは非常に強く口出しできる立場だと富川から聞いてる。
「是非お受けしたいです、お仕事のご紹介ありがとうございます」
「私も絶対に受けたいですよ! OBTテレビさんの夕方番組の“不思議キッズ”は小さい頃にすっごい見てたんですって! 10年前に出演してたラスター岩城さん大好きでしたから!」
「岩城はバラエティキャスターになっちゃいましたからね、あちこち飛び回って仕事してますよ」
もちろん2人は乗り気で仕事を受ける、CM出演料などの話もあるのだが、そちらはシャイニングゲートと話し合ってもらう事にする。
金銭の話は灰川では上手く交渉できない可能性が高く、相場なども詳しく知らないので関わるような真似はしない。
ジャパンドリンクのCM出演料なども灰川は分からないのだが、自由鷹ナツハとかは高いんだろうなとかは思ってる。
そしてこの話を聞いて内心で驚愕してるのがシャルゥとケンプスだった、灰川が関わると大きな仕事の話がトントン拍子に決まってく。しかもまだデビューすらしてない新人がだ。
ファンにはどうやって言い訳して先人たちに先んじる理由を説明づけるのかとか、そういう疑問も湧いてくるがそれどころじゃない。CM出演料とかも大きな収入になるだろうが、シャルゥとケンプスにはそれらの話は来ていない。
「三河田専務、桔梗とコバコへのCM仕事の紹介ありがとうございます。ところで、こちらの赤木箱さんとケンプスさんですが」
「「!!」」
灰川はしっかりと三河田にCM仕事の礼を言ってから、もう2人の方に話を移す。突然にそれが訪れたからシャルゥとケンプスは驚いた。
「赤木箱さんとケンプスさんは灰川先生が選出された所属者さんなんですか? 確か選出されたのは飛鳥馬さんと雲竜さんの2人だと聞いたのですが」
シャルゥとケンプスは灰川が選出した訳じゃない、そもそもここに来る予定すら無かったのだ。
2人には目標があり、ケンプスはピアニストとして『東京OBTコンサートホール』での演奏をしてみたいという夢がある。
「あ、改めてよろしくお願いしますっ、シャイニングゲート所属のケンプス・サイクローですっ」
ケンプスは幼い頃からVtuberになって少し経つまでピアノを習ってた事があったのだが、ピアノの先生は元ピアニスト志望の自分の母親だったのだ。今はVtuber活動が忙しくてピアノから少し離れ気味だが、演奏がとても好きなので腕が落ちないよう自己レッスンは欠かさない。
昔に母が何気なく発した『OBTホールで演奏してみたかった』という言葉でOBTテレビ所有の音楽ホールに興味を持ち、いつか自分が母に変わってその夢を果たしたいと思うようになった。
その夢を母も応援してくれているが、果てしなく遠い目標だ。プロピアニストが1000人居たとして、OBTホールのステージに行けるのは1人という割合であり、トッププロしかステージには立てない。
「赤木箱シャルゥです、灰川さんにはお仕事でお世話になっています」
シャルゥはVtuberとして活動しつつ芸術大学を高校1年にして本気で目指してる。可愛い女の子キャラや格好良い男性キャラを描くのが上手いが、芸術面に元から興味があり、そういう方面の技術を上げたいと思ってるのだ。
エロとかにも興味がある性格だが、それは金銭目的以上に芸術の興味という面も大きく、エロを取り入れたアーティシズム絵画やイラストやデザインの技術をVtuberをやりつつ目指したいという気持ちがある。
そしてシャルゥの目標は『高校生の内に世界でも有名な芸術祭の“東京国際文化芸術祭”での入選』を目指してる、そこに向けた活動資金や売名のためにも頑張ってるのだ。
東京国際文化芸術祭は一般枠、協賛企業推薦枠、プロ枠というような区分があり、一般枠は出展者が多過ぎて募集作品数が限定される。
協賛企業は大企業が数社で大きな資金を出すという形で、その推薦枠に何の芸術受賞歴がない一般人が入る事は難しい。ここでその枠に受かれば出展が叶う道筋が出て来るのだ。
つまり2人は芸術方面の目標を持った幼馴染Vtuberコンビであり、V活動も好きだが芸術活動も好き、そしてVと芸術の両立を目指す者同士なのである。しかし好きな事を仕事にするのは並々ならぬ努力と才能が必要だ。
「シャルゥさんとケンプスさんは凄いVtuberでしてね、努力もしてるし配信も面白いし、注目株ですのでご紹介したいと思いまして」
「そうでしたか、それはそれは」
灰川は正直に言うと2人の事をあまり知らない、ピアノが準プロ級でイラストが上手いくらいの認識であり、2人の目標の事は知らないのだ。
それもその筈で芸術方面の目標の事は渡辺社長や幹部や職員の一部は知ってるが、視聴者などには多くは言ってないし、灰川が知れる余地がない。
なので灰川は誰でも当てはまりそうな事を言って説明した風な雰囲気を出し、後は2人に丸投げする。それ以外に道が無かった。
「お二人はどのような活動をなさってるのですか? やはりゲームとかの配信でしょうかね、Vtuberさんはそういった配信内容が人気なようですし」
「は、はいっ、ゲーム配信もよくやってますっ」
「ケンプスちゃんとコラボ配信をよくやってます、あははっ」
2人にとっては自分たちの目標に近付くための、またとないチャンスである。その事を自覚した途端に普段は感じない緊張が走る。
世界有数の音楽ホールで演奏したい、世界有数の芸術祭で入選したい、その目標への入り口が目の前に居る三河田専務だ。局内3位の権力者の口添えがあれば、そこに届く算段は大きい。
実力で目指せば良いという人も居るだろうが、実際には世界レベルという目標を持つのならば実力だけで伸し上がるのは難しい。世界というステージに立つには様々な要素が大事になる。
実際に埋もれていった天才なんかたくさん居るのだ。戦争勃発によって活躍の機会を奪われたスポーツ選手、国の予算打ち切りによってノーベル賞を逃がした研究者、卑劣な蹴落としで大作映画の主演の座を奪われた役者。
そんな埋もれていった才能ある者達が大小様々に世の中には居る。実力だけで伸し上がれるほど世の中は甘くないし、様々な手回しだって実力の内なのだ。
「なるほど、灰川先生が目を掛けてる演者さんなんですね、番組収録の方、頑張ってください」
「は、はいっ、ありがとうございますっ」
「視聴率で良い数字が出せるように頑張ります!」
テレビ局上層部の人間はバカではない、灰川とシャルゥ、ケンプスがそこまで仲が良い関係では無いのは簡単に見抜いた。
ここに無関係の2人を連れて来た灰川の意図が掴めない、ここまでの話し合いでも、この2人を連れて来た意味の糸口は見えなかった。
何らかの怪しい関係でもあるのか?と三河田は最初は疑ったが、灰川という人はそういう人物に見えない、以前に和藤社長の息子を助けた時に、そういう影がある人物じゃないと分かったのだ。
「三河田専務、ケンプスさんはピアノが準プロ級の腕前なんですよ。なんでもテレビ局の方に話したい事があるみたいなので、聞いてあげてもらえませんか?」
「頼みたい事があるということですか? 何でしょうか、お聞きしますよ」
「は、はいっ! えっとっ、その前にシャルゥは芸術方面の才能があるんですがっ、シャルゥの話も聞いてあげて頂けると助かりますっ」
灰川が助け舟を出すと、緊張してる状態ながら頼みたい事を言っていく。ケンプスはOBTテレビ所有の東京OBTコンサートホールでの演奏という目標を伝え、シャルゥは東京国際文化芸術祭に出展して入選を果たしたいという目標を語った。
「なるほど、ではVtuber業はそのための足掛かりという事ですか?」
「いえっ、Vも憧れの一つで、ピアノ演奏をVtuberとしてやれたら、音楽性に何かを足せるんじゃないかと強く思ってやっていますっ」
「私はVtuberっていう新しい表現で、芸術的な何かを作り出せるんじゃないかと考えてます。まだしっかりとした良いアイデアは浮かんでないんですけどね」
三河田の顔つきはさっきまでと少し違う感じになってる、その顔はテレビマンとしての顔だった。
カルチャー系番組に絶対とすら言える強い発言権を持つ三河田は、芸術方面にも造詣が割と深い。実はケンプスがピアノをやってることや、シャルゥが芸術方面の何かに取り組んでる事は分かってた。
ケンプスの小指は筋肉が発達しており、小指球と呼ばれる手の平の小指側の部分が膨れてる。シャルゥは目の動きが芸術家のソレだ、応接室内の絵画に目が行きがちだった。
そういう部分もしっかり見る人物であり、そういう勘が働くからこそ上層部に上がれたのだ。
「OBTホールは非常に格式が高いホールなんです、世界レベルの楽団やバレエダンサーがステージに上がり、日本中のプロ、アマ問わない音楽家があの場所を目指しています」
「はい、最高峰の音楽ホールだと聞いています、ステージで米粒を落とした音すらホール内に響くような素晴らしい造りの場所だと」
OBTホールはステージから観客席に至るまで音響を考えつくされて作られたコンサートホールであり、そこで奏でられた音楽は素晴らしい響きとなってホール中を駆け巡る。
そこに立つ事が許されるのは一握りの者だけであり、準プロ級の腕前の者では到底届かない場所なのだ。ステージに上がる人間は厳選され、プロ中のプロみたいな超一流の奏者しか上がれない。
「ケンプスさんの演奏を直に聞いた事がないので如何とも言い難いですが、バラキレフのイスラメイとリストの鬼火は演奏できますか?」
「っ…! れ…練習中です…」
イスラメイと鬼火、どちらも世界で最も難しいと名高いピアノ曲である。それが弾ける事が条件だというのかとケンプスは驚く。
その曲はプロピアニストですら弾けない人は珍しくない、プロであっても技量勝負じゃなく曲の表現力が優れてる等で評価を受けてる人も居るから、弾けなくても下手という訳では無いのだ。
「では運指の訓練を積みつつテンポが速い曲や、音の動きが多い曲を充分に表現できるようトレーニングして下さい。指や腕のマッサージもやると良いでしょう」
「は、はいっ」
いかに灰川の頼みと言えど、仮に四楓院の頼みだったとしても簡単にステージに上がらせる訳にはいかない、そういう場所だ。
「シャルゥさん、東京国際文化芸術祭に出展したいと仰られましたが、企業枠を取りたいという事ですか?」
「はい、一般公募だと抽選に受かる自信がないので、正直に言ってしまいますと協賛企業推薦枠で出場したいって考えてます」
「一般公募だと芸大優先枠とかもあるから、高校生の作品は簡単には入れませんしね」
一般枠は応募が多過ぎて公募数が限定される、実績がある人が優先抽選されたりもするし、そこに潜り込めるかは運次第な面もあったりする。審査員だって作品を見れる数は無限じゃないのだ。
「もしお二人が本気だったなら、秋に開かれるテレビ局主催の総合芸術イベントの出場枠を用意しますが」
「「!!」」
三河田の説明だと大きな芸術関係のイベントらしく、そこで良い評価を受けられれば東京国際文化芸術祭への協賛企業から声が掛かる可能性は高いらしい。
OBTホールに立つのも東京国際文化芸術祭に企業枠で出るのも一存では決めかねるし、流石に今のOBTテレビとシャイニングゲートの関係性から言って、企業枠に入れたら裏取引があったと察せられるだろう。
東京国際文化芸術祭はやはりというか凄く格式のある芸術祭で、企業枠やプロ枠で出場する人などは最優秀評価を得られれば、それだけで芸術方面で生きていける算段が得られるそうだ。
芸術方面で身を立てるというのは非常に難しく、画家や音楽家からダンサーに至るまで、芸術一本で生活してる人は少ない。家が金持ちとかだと話は別だが、芸術一本で生活できてる人はそれだけで凄い事なのだ。
「お、お願いします! テレビ局主催の総合芸術イベントって、オータムアート芸術コンテストですよねっ!? 音楽部門で絶対に上位に行けるよう頑張ります!」
「やったぁ!ケンプちゃんやったよ! 製作中の作品があるから、それなら私も間に合うよ! ぜ~~ったい勝とうね!」
2人は今まで大きな目標を持ちながらも、そこに至るまでの道が見えないでいた。
ケンプスはOBTホールに行こうと思っても、現状で具体的にどのようにすれば良いのか分からなかった。楽団に入ろうにもV活動もあるから時間も無かったし、今の腕ではプロ楽団には入れないしVtuberとしてやりたい事もある。
シャルゥは東京国際文化芸術祭に出展したかったが、そこまでの道筋が見えなかった。ネットで調べても確実に出展できる方法など載って無かったし、どうして良いかが分からない。
実行委員会に電話して聞こうともしたのだが、今は肝心の芸術祭が開催されてないので電話も繋がらなかった。仮に繋がってたとしても一般応募か協賛企業の枠を取って下さいという、漠然とした事を言われただろう。
どちらの目標も高校生としては挑戦するには早いものであり、今日はその目標に近付くための算段が付いたのだ。大きな夢というのは一気に叶うものではない、段階を踏んで叶えるものなのだ。
オータムアート芸術コンテストも大きなイベントではあるし、優秀な成果を残せば東京国際文化芸術祭への出展やOBTホールでの演奏の足掛かりになる。
「ケンプスさん、オータムアート芸術コンテストの音楽部門で優秀な成績を出したら、OBT国際音楽会に出れる可能性もあります。確率は未知数ですが」
「OBT国音!? それってっ」
「はい、OBTホールでの演奏が叶うという事です」
OBT国際音楽会はOBTテレビが主催する大型音楽会であり、会場はOBTホールなのである。つまりケンプスの夢も叶う可能性があるという事だ。
OBTホール自体は一般に貸し出したりもしてるのだが、貸りて演奏できれば良いって物じゃない。奏者としてステージに上がりたい、それが母のかつての夢であり自分の夢だ。
「灰川先生、もし聞きたい事があればお電話ください。私が分からない事であれば秘書が受け付けますので」
「ありがとうございます三河田専務、もし何か困った事があったら相談して下さい。あんまりな事だったらアレですけど、私も同じようにお力になりますので」
「あんまりな事って…はい、皆さん収録の方頑張ってください。応援して期待してますので」
その後は桔梗とコバコ、シャルゥとケンプスが深く礼を言って三河田との会合は終わりとなった。
「ありがとうございます灰川さんっ、もしかしたら夢が叶うかもしれません!」
「灰川さんスゴイんですねぇ~、先生って呼ばれてましたしねぇ~」
シャルゥとケンプスが興奮気味に灰川に礼を言う。今まで道のりが見えなかった夢に道が開けたのだ、まだ何も始まってないとはいえ夢に向かうための算段が付いたのは大きい。
「でもさ、シャルゥ先輩とケンプス先輩ってVは夢の足掛かりって感じなんすか? だとしたらスゲェ事っすよ!シャイゲが通過点ってことだし!」
「そんな事ないよコバコちゃん、さっきも言ったように私とシャルゥはVtuberで芸術表現をしたいからVやってるの、最初は確かに少し興味本位だったけどさ」
「そうですよーコバコさん、私は絵だけじゃなくて近代アートとかも好きだから、Vtuberによる概念アートとか~~……」
なんだかよく分からない芸術関係の話が続いてるが、2人はVtuberアーティストとでも呼べる新たな芸術家の道を模索してるようだ。それを確立するまでは長い道になるだろう。
「とにかくです! 私とシャルゥの夢へ近づく事が出来ました! この状態なら収録のリハと本番も凄い気力で臨めます!」
贅沢言うなら自分の力だけでって思う所もあるだろうが、それは余りにも贅沢というものだ。新たな分野を開拓どころか自分たちで作り出そうというのだから、足踏みなどはしていられない。
使えるものは何でも使う、そのくらいの気力がなければ新たな道は切り開けないのだろう。それに芸術界だって実力だけで勝負が出来る場所とは思えない、やはり肩書とか賞歴とかが重要になる場面は多そうに感じる。
無名の画家の傑作は0円でも、巨匠の駄作は何千万という事が普通にある世界だ。実力が備わってても売れる売れないは別の話であり、彼女たちはその入り口の前に立つ権利を得たのだ。
芸術家とVtuberという媒体の融合、これは決して簡単な事ではないだろう。しかしVtuberというコンテンツが長く続き、大きな何かを動かせる存在になれるようになるヒントはこういう所にあるのかもしれない。
それを試そうとしてる2人は、やはりナツハとかとは違った形の才覚やチャレンジ精神があるという事なのだろう。
「さてと、皆はこの後はリハだよな。俺は別の要件があるから抜ける事も多いけど、みんな頑張ってな。桔梗さんとコバコはスタッフさん個人個人の名前を覚えるようにな」
「おう! 灰川さん、私も桔梗さんもガッツあるからイケるって!」
「CMも決まった事ですし、今日はいつもの3倍増しでヤル気あります。不幸話の披露も上手く行きそうです」
ここからは灰川事務所所属の佳那美とアリエルを連れて動く事になる、今日はまだまだ忙しくなるだろう。
そんな事を灰川が思ってる横でシャルゥとケンプスは、灰川が全国に名だたるOBTテレビのナンバー3の人から先生と呼ばれ、少し相談した程度で大きな便宜を図ってもらえた事に驚いてる。
まさか本当にそんな強い伝手があるとは思ってなかったし、まだ底が知れない人物だと感じてる。
ここからどうなるかは分からないが4人の気分は上々だ、きっと収録も上手く行く事だろう。
また長い話になってしまいました…5000文字くらいが丁度良いのは分かってるんですが、どうしても収められません。
今回の話は少しややこしいですが、要するにシャルゥとケンプスはVとは別に持ってる夢に一歩近づけたという感じです。




