215話 桜は刺激を求めてる?
駆逐艦なんてものに生まれて初めて入った後、灰川はアパートに帰ってきてパソコンを点けると小路が配信をしていた。
【コメルちゃんと】コラボだよ~【お喋り】
染谷川 小路 登録者数255万人
同時視聴者数 75000人
『小路ちゃんはテレビのnew Age stardomに出ないの? 私は出たい~!』
『ちょっと出てみたいけどね~、私は緊張しちゃいそうだから無理かな~』
今夜の染谷川小路は後輩のVtuberとコラボ配信をしてる、内容は新番組の話が多い。たぶん会社からの指示なのだろう。
だが小路やコラボ相手の千伍有コメルという子も新番組には期待してるようで、出てみたいとか面白そうとか話していた。
コメントも流れて『俺も出たい!』『早く放送してくれ!』とか、面白おかしく配信は進行してる。
小路とコメルは性格の相性も良い感じで、小路のホンワカした雰囲気とコメルの元気な感じが見事に調和してる。
『コメルちゃんはテレビに出れたら何したいの~? 私は好きな紅茶の紹介がしたいな~』
『小路ちゃん紅茶好きだもんねっ、私は小路ちゃんの淹れた紅茶にお酒をどっぱり入れて飲む企画とかやりたい!』
コメント:どっちもVtuberに向いてない企画だ!
コメント:小路の紅茶は俺も飲みたい
コメント:酒かよwww
コメント:配信でやれwww
コメント:テレビにみんな出て欲しい!
千伍有コメルは視聴者登録43万人の成人女性Vtuberだがデビューは小路より後、シャイニングゲートでは中堅の下位といった登録人数だ。
しかし43万という数字は一般的に見れば大きいし、会社からも実力を認められてデビューしてる。あまり尖った所もないが実直な面白さがあり、ファン達からも人気があるキャラ性である。
『また小路ちゃんとコラボしたいー! 可愛いしまったりした雰囲気が最高だよー! 小路先輩大好きなんですけどー!』
『むふふ~、私もコメルちゃん大好きだよ~。今度は紅茶とお酒の飲み比べ対決しようね~、もちろん私がお紅茶だよ~』
『紅茶と酒の飲み対決!? 私と勝負したら小路ちゃんのお腹が破裂するよ!?』
コメント:酒で紅茶に飲み勝つ自信あるのかwww
コメント:子供が小路ちゃんのぬいぐるみ離さないwww
コメント:コメルに酒飲ませたら無限に消えるもんな
コメント:小路カワイイ!超カワイイ!!
コメント:コメルっての面白いじゃん
新番組の事や互いの事を紹介しつつ配信は進んでいき、その日の小路の配信は終わったのだった。
千伍有コメルはこの日、小路との初めてのコラボによって視聴者数を3000ほど伸ばしたようだ。やはり上位者とのコラボは視聴者数が増える要因になるらしい。
翌日、この日は灰川は特に仕事が無く、事務所でぼーっとしていた。一応は自営業だから仕事のある無しで暇度が大幅に変わる身で、今日は2社からの仕事も外部からの電話も全く来ない日になってる。
「仮眠室で寝るかなぁ…でも眠くないしなぁ~」
灰川事務所には宿泊もできるよう仮眠室があり、夜遅くまで渋谷で飲んだりしたら事務所に泊まれる。
しかし今は午前であり流石に眠くない、どうするかなと考えてるとインターホンが鳴って不意の来客があった。
「灰川さん~、こんにちわだよ~」
「桜? 学校はどうしたんだ?」
「私の学校は今日はお休みなんだ~、用事でシャイニングゲートに来たけど済んじゃったから、灰川さん居るかな~って思って来てみたよ~」
わざわざ桜は事務所まで顔を出してくれたのだ、シャイニングゲートから灰川事務所にはタクシーで来たようで、灰川が居ないか忙しかったら帰るつもりだったらしい。
電話などをせずにサプライズでの来客だ、ちょうど暇だったから嬉しい気持ちになる。タイミングのいい子だなと感心した。
一旦タクシーに待っててもらってるようなので灰川が追加利用はナシと伝えに行き、桜を事務所に入れてソファーに案内する。
「そういや桜ってどこの学校に通ってるんだ? 市乃とかは知ってるけど桜ってその辺って聞いた事ないな」
「私は学校も家も恵比寿だよ~、特別支援学校だね~」
桜は目が見えないので通常とは違う学校に通っており、学校では友達と楽しく過ごしてるようだ。成績は中くらいらしいが、現代文は学年で1番らしい。
自宅も恵比寿のマンションで、家族と一緒に暮らしてるそうだ。
「灰川さん、前は物件探し一緒に行ってくれてありがと~、ちょっと怖かったけど楽しかったよ~」
「おう、なんか小路のマンションもペット可になるかも知れないんだろ? そしたらマフ子と一緒になれるかもな」
「うん、そ~なったら灰川さん、マフ子に私の所に来たいか聞いて欲しいな~」
「にゃー子に聞いてもらうさ、まあペットにするってなると大変な事もあるから、よく考えるんだぞ」
桜はマフ子が大好きだ、何か心が通じるというか、心が繋がってるような感覚がするのだろう。
だが東京に連れて来るとなると環境が大幅に変わるから、それがマフ子にとってどのように影響するかは分からない。桜だって猫と一緒に暮らせるのか、きちんと考える必要がある。
「灰川さんって今日はヒマなの~?」
「予定も特に入ってないんだよな、ハピレの仕事もテレビ局の仕事も特に無いし、シャイゲからはあんまり仕事来ないし」
「そうなんだね~、でも忙しすぎるのも良くないから、ちょうど良いと思うな~」
昨日は駆逐艦なんぞに訪問して気が疲れたから実は助かる、最近は少し雑多な仕事も多く事務所の電話は留守電状態がデフォルトだ。
「ヒマなんだよね~? じゃあ私から灰川さんに依頼があるんだけど、受けてくれる~? 料金もお支払いするよ~」
「え? もちろん良いけどよ、桜だったら別に料金はいらないぞ? まあ事にもよるだろうけどさ」
何やら桜から依頼なんて話が出たが、普段から良くしてもらってる桜から金を取るのも気が引ける。
Vtuberとして多額に稼いでる身なのは分かるが、灰川にとってこれは稼ぎとかそういう問題ではない。コンサルタントなんて名ばかりなのに、一定以上の仲の人から金をもらうのは気が引けるのだ。
「それで依頼って何なん? 家に悪霊でも出た? 学校でヤバい呪いが流行ってるとか? それとも捨てたはずの人形が帰って来たとかか?」
「コンサルタントの看板が泣いちゃうね~、オバケとかは出ないよ~」
それなら何の依頼なのかと思ったが、桜の頼みというのは単純ながらも少し難しいものだった。
「お頼みしたいのはね~、刺激のある体験をしたいって事なんだ~」
「刺激? ドキドキするようなとか、ワクワクするようなとか、普段と違う体験ってこと?」
「そうなるね~、灰川さんだったら、私みたいな人でもドキドキできる何かを知ってるかな~って思ったんだ~」
桜はシャイニングゲートのナンバー3のVtuberであり、視聴者からは独特な世界観を持ったキャラ性や、普通とは少し違う感性の性格が受けてる子だ。
執筆活動も熱心に行っており、配信のために執筆した童話や小説なども書籍になってる。桜の書いた物語は優しさがあって人気で、以前には青少年文学賞で優秀な成績を取った事もあるそうだ。
そんな桜は配信や執筆のために心に刺激を求めてる、しかし日常生活での刺激なんて物は少ない。
配信者、特に大勢の視聴者を有する者は面白い話とか変わったトークを用意しなければならない。普通の話を面白く話す技能も桜にはあるが、それだって限度という物がある。
桜は何かしらの経験や体験を積んで、話や感性のレベルを上げたいと思ってる、その手伝いをして欲しいとの事だった。
「ドキドキ出来る何かかぁ、桜は何かしたい事とかあるの?」
「スマホとかで調べたけど~、私が楽しめそうなものは無かったかな~」
桜はコンサートや朗読劇などは楽しめるが、面白さの質が視覚に依存するタイプの娯楽は楽しめない。
映画などは音の迫力やストーリーの面白さで楽しむ事が出来るが、無声映画なんてものだったら楽しめないのである。もっとも現代で無声映画を上映してる場所を探す方が難しいだろうが。
「視覚障碍者スポーツとかどうだ? どっかしらでやってるんじゃないか?」
目が見えない人でもスポーツは出来る、音源走という短距離走はゴール地点に置いた音源に向かって走る競技だし、球技や水泳なども視覚障碍者パラスポーツはあるのだ。
しかし実施場所が少なく、それらの競技に触れる機会は少ないのが難点だ。都会ならまだしも田舎だとパラスポーツの参加は今も難しい地域があったりして、格差の改善が望まれる所だ。
「盲学校でやってるよ~、この前はブラインドサッカーの授業でパラリンピックの選手の人が教えに来てくれたよ~」
「マジ!? 世界選手って事だぞそれ!」
ブラインドサッカーは視覚情報を閉じた状態で行われるサッカーで、5VS5のチームスポーツだ。音の鳴るボールや周囲の掛け声の聴覚情報を使ってプレーする。
選手は「ボイ」、スペイン語で『行くぞ』という意味の掛け声をしてその場に居るアピールをするなど、様々なルールがある。
観戦しても見応えがあるスポーツであり、健常者も競技用アイマスクをして参加できるパラスポーツだ。出場選手の全員が全盲ではなく、目が見える人が重要なポジションに就く事もある競技だ。
近年では少しづつ人気が上がってきており、競技人口もジワジワ上がってるそうだ。盲学校でも体育で行われ、ブラインドサッカー以外にもパラリンピック出場者が講師として来たりする事があるらしい。
少し前には伝説的なサッカー漫画、キ〇プテン翼の作者の先生が公共放送局の企画で、ブラインドサッカーのアニメを作ったなんて事もあったのだ。
「桜はブラインドサッカーは上手いのか? なんか桜がスポーツしてる所って見てみたいかもだぞ!」
「えっとね~、私は学校の先生と友達から、春川はスポーツは向いてないって言われたよ~、むふふ~」
「なんで自慢気なのか分からんけど、桜はあんまりスポーツ向きじゃないって事か、やっぱ向き不向きはあるからなぁ」
桜は足も遅くてスポーツにおける反応速度も速いとは言えないそうだ。身体にハンディキャップがあるからといって、誰しもがパラスポーツに向いてるなんて事はない。
「じゃあスポーツは無しだな、他には何かあっかな」
「そこを何か灰川さんの閃きで思い付いて欲しいな~」
灰川としては実はちょっとだけ桜の水着姿を見てみたいな~、なんて思っちゃったりする。
桜は胸が大きいし肌も綺麗で、そんな目で見ちゃいけないのは分かってるが、少しだけそういう事も思ってしまう。
そんな少し邪な念を振り払って、考えを桜が求める刺激的な事に向けるが、やはり簡単には考えつかない。
桜に今までどんな事が楽しかったと聞くと、料理の練習だったり、趣味の紅茶、音楽鑑賞、ゲーム、お喋り、そういった予測済みの内容が出て来る。これらは前にも聞いていた。
「う~ん……視覚障碍者でも楽しめる刺激的な事かぁ」
「難しいよね~…残念だけど諦めた方が良いのかな~…」
「おっ、言ったな? 諦めるなんて早いぜ、こうなったら今日は絶対に桜を楽しませてやっからな! 意地になったぞ!」
「むふふ~、すっごく嬉しいな~。灰川さん優しいから好きなんだ~」
「照れるじゃねぇか、任せとけっての」
そう言ったは良い物のどうするべきか、灰川はパソコンを触りながらアレコレ調べていく。
視覚障碍者が楽しめる美術館、触って鑑賞を楽しめる彫刻作品や絵画を立体作品に掘り起こして触れる、盲人美術館は桜は行った事があるらしい。
全盲の人が体験する事は一通りは盲学校か家族で体験済みのようだ。
コンサートはアレコレあるが、桜にはありきたりな感じがする。朗読会は近場でやってない、そもそも桜は刺激を求めてるのだから普段から経験する類の事は求めてないだろう。
かといって過剰に刺激的な事や、全く予測も着かない事は疲れて配信に差し支える。そうなると桜が求めてる刺激の度合いが見えてきた。
「また神保町の金橋古書店にでも行ってみるか? ほら、桜が探してた音楽を探しに行った店の」
「あ~、あのお店だね~、また面白いものが見つかるかもしれないね~」
「ちょっと遠いけど、桜が空き時間あるなら行けそうだな」
「私もちょっと遠くに散歩に行きたい気持ちだったから、ちょうど良いよ~。灰川さん、連れてってくれる~?」
「おうよ、俺も暇だし行くかぁ。なんか掘り出し物でもあったら転売して儲けようぜ!」
「そんな事はしないよ~、じゃあ行こうね~。むふふ~」
以前に行った神保町の古本屋に行ってみようという事になった。桜にとっては適度な刺激になるだろうし、全く知らない場所でもないから気持ち的には楽だろう。
そのまま準備して渋谷から電車に乗って神保町へ向かった。
「着いたな、昼ご飯には少し早いから先に古本屋に行くか」
「うん~、時間があったら古本屋さん以外にも行きたいな~」
古書店に行くのは半ば口実みたいなもので、少し遠出をして普段とは違った刺激を感じようという遠足みたいなものだ。
落ち着いた風情のある神保町の街を桜を歩行介助しながら歩く、腕に伝わる桜の温かで柔らかな感触が心地いい。
桜は白杖をしっかり持って足元を確認し、灰川は桜のペースに合わせてゆっくり歩く。なんだか時間もゆっくり流れてる気がして、桜と一緒に居ると感じられるこのゆったり感が灰川は好きだ。
「お、あったぞ金橋古書店、もしかしたら桜が探してた曲の白い慈愛もあったりするかもな」
「むふふ~、そうなったら売ってもらいたいな~。染谷川小路でお金は稼いでるから、ちょっとやそっとの値段だったら買っちゃうよ~」
「言ったな桜、お金持ちで羨ましい限りだぜ、俺も配信で稼ぎてぇな~」
「灰川さんはあくまで配信でお金を稼ぎたいって思ってるんだもんね~、お仕事でももっとお金を取った方が良いよ~」
桜は収入目的でVtuberをやってる訳じゃなく、楽しいから、やってみたかったからシャイニングゲートに入った。
だが収入だってかなりあるし、生活にはまず困らない金額が毎月に入ってくる。もちろん今の地位に行き着くには苦労があったが、Vtuberの世界で地位を確立できた今は以前ほど苦労はしてないようだ。
それに何と言っても桜は運が良い、15才という年齢で今の地位に居るのは、実力や努力も大きいが運も大きかったのだ。何気に計算高い所もあるから、元から配信者とかに向いてたのだろう。
「こんにちはー、やってますか?」
「いらっしゃいませ、ん? 君たちは以前に来た子達かね?」
「はい~、白い慈愛の時はお世話になりました~」
店主は以前と変わらない様子で、今日は店の奥の会計の所で本を読んで過ごしてたらしく、客は今は居ないようだ。
「今日も何かお探しかね? 力になれるかは分からんがね」
「いえ、今日は何となく来てみたくなったんでってだけです、俺も桜も良い店だなって思ってますんで」
「む…そうなのかね、店を褒めてもらえて嬉しいな。ゆっくり見て行くと良い」
「ありがとうございます~、灰川さん、お勧めのレコードとかあるかな~?」
「レコードは流石に分からんな~」
大きな店ではないが本の数が多く見応えがある店だ、そんな金橋古書店に入って足元に注意しながら桜と色々と見て行く。
「おおっ、点字の本のコーナーがあるぞっ、この店って凄いなぁ!」
「わぁっ、凄い品揃えだね~」
なんと金橋古書店に点字で書かれた本が棚の5列ほどにコーナーが出来ており、まさかの出来事に2人で驚く。桜は点字本の棚を触って確認すると、その多さに驚いた。
「その点字本は少し前に古本市に纏めて売りに出た物でね、安かったから仕入れたのさね」
「そうなんですか、こりゃ掘り出しもんの出会いだなぁ、ちょっとじっくり見て行こうや」
「うん~、こんなに点字本がある~! 点字ディスプレイと違った感じがあるから、本の方が私は好きなんだ~」
現在はインターネットの文章や電子書籍を点字ディスプレイという情報端末で、全盲の人でも書籍が読める機能があったりする。
桜も持ってるし普通に使えるのだが、やっぱり本と機械の違いはあって、桜は本の方が今は好きな派閥だそうだ。友達には点字ディスプレイの方が便利という子も多いらしい。
「お嬢ちゃん、そこにはサピエ図書館には無い点字同人誌なんかもあるぞ、良さそうなのあったら買ってってくれると有難いね」
「点字同人書籍っ、すごい~、絶対なにか買うよ店主さん~」
なんと個人で出してるストーリー同人誌や同人詩集、個人作成の視覚障碍者が触って理解できる触地図や図鑑、かなりのバラエティーに富んだ品揃えがある。
サピエ図書館とは視覚障碍者の人たち向けの書籍ネットサービスであり、点字図書や朗読音声の提供をしてる媒体だ。年会費がそこそこ掛かるから、視覚障碍者の人でも登録してない人も居る。
「わっ、わぁっ、すごい~、全部欲しいくらいだよ~」
「全部は持ってくのキツイなぁ、配達にしてもらうか」
「マイナー動物点字図鑑に車の触図鑑、ファンタジー地図に立体絵画集~、全部が視覚障碍者が楽しめるようになってるよ~、作った人も私と同じような人なのかな~」
桜は凄くはしゃいでる、普段だったら絶対にお目に掛れない品が揃ってるのだ。
ネットやパソコンの読み上げ機能では得られない情報だったり、普通は手に入らない点字書籍、触覚で形を理解して楽しめる市販されてない図鑑のマイナー版、個人で作った点字小説など様々だ。
目が見えない生活をして、目が見えない人たちの世界を知ってるのに、まだまだ知らない世界があったのだ。やはり盲人文化は今も奥が深く、視覚障碍者本人ですら個人では追い切れない歴史があるのだ。
桜が求めてた新たな刺激が満たされていく、少し離れた町で新たな文化と娯楽への出会いに、自分の知らない人たちが作った物に触れて心まで笑顔になるかのようだった。
「あ~、私達以外のお客さんが来るね~、なんだか会った事がある人かも~」
「え? 店内には俺達と店主さんしか居ないぞ、入り口のベルも鳴ってないし」
「うん、だから今から来るんだよ~、3,2,1、ほ~ら」
桜がカウントした瞬間、店のドアが開いてチリンチリンっと音が鳴る。
「うおっ、本当に来たよっ。予知能力?」
「むふふ~、違うよ~。私は耳が良いんだよ~」
「あっ、そうかっ、目が見えないっての忘れてたっ。悪ぃ、桜っ」
「灰川さんって変わってるね~、歩行介助までしてもらってるのに、忘れちゃうなんて~」
「いや、なんだろうな。桜と居ると介助してるとかの意識が消えちゃうんだよな、一緒に居るのが当たり前って感じになってきたのか……ちょっと気を付ける」
「一緒に居るのが当たり前って思ってくれて~、すっごく嬉しいよ~…とっても、とっても嬉しいな~。むふふ~」
ハンディキャップを持った人と一緒に居ると、ついハンディの事を忘れてしまう事がある。合理的配慮や互いの立ち位置、一緒に居る時に気を付けるべき事などが身に付いて、それがナチュラルになってしまう事がある。
灰川のこれは桜を『目が見えない人』ではなく『春川 桜』という一人の人として認識してる事によるもので、やはり以前より仲が深まってる証拠だ。
ハンディを持った人と確かな絆が育まれてるという事ではあるが、同時に不意の事故に繋がったりする事もあるから気を付けなければいけない。
「……うう~…灰川さんのそういうとこもっ…大好きだよぉ~……」
桜が灰川の腕を掴んで介助を受けつつ何かを言うが、耳が普通の灰川には聞こえない。
「にしてもやっぱり耳が良いんだなぁ、本当に客が来るなんてな」
「昔から、盲人は目は見えないけど視界は360度、って言われる事があるんだよ~。私もそうみたいだね~」
周囲の情報を音で処理する視覚障碍者は視覚情報は得られないが、音の情報は鋭く感知する。だから後方や離れた位置の音を聞いて、何が起こってるかなどを判断できる場合があるのだ。
灰川と桜は店内の点字書籍や点字同人誌を物色しながら過ごすが、会計の所から話声が聞こえてくる。
「金橋さん、アレは本当に無いんですか?」
「ある筈なんだが見つからなくてね、私も年だから物覚えがね」
「裏音楽マニアの金橋さんが何言ってるんですか、でも見つからないんじゃなぁ……諦めきれない本なんですよぉ」
「まぁ今度には見つかってるかもしれんよ、昭和平成裏物件図鑑がね」
ここの店主は裏音楽という危険オカルト音楽のマニアだが、商売は普通にやってる人物だ。灰川は店主が裏音楽マニアなのは知ってるが、そっち関係で深く関わらなければ大丈夫だと感じてる。
灰川には裏音楽の影響は簡単に消せるし、そっちの情報は簡単には手に入らないものだし、2人が裏音楽に関しては素人だと知ってるから店主も灰川や桜に興味はない。
だが灰川と桜は客として来た人物の声に心当たりがあった、特に桜は耳が良いので人の声を聞き間違える事は無い。
「うおっ、ワケアリー不動産の店長さん?」
「えっ? 前にウチに来たお客様?」
「わ~~、偶然だ~、不動産屋さんって、ここの常連さんだったんだね~」
古書店に来てたのは桜と一緒に行った不動産屋の店長であり、灰川と桜は気になって会計の方に来てみたのだ。
不動産屋の店長は何やら訳アリそうな本を探してるようで、古書店の店主もどこかにあるのは確かだが見つからないとの事らしい。
面識ある人達との突然の再開だ、ここからどうしたものかと灰川は考えた。




