198話 美の職人
「まずはラウンジへどうぞ、ご説明と御用聞き、スタッフからのヘアアドバイスとスタイル相談などから入らせて頂きますので」
「よろしくお願いします! 今日は大事な日なんで、皆を世界で一番可愛くしてあげるつもりでやってくれると助かります!」
「大変失礼ですが、無論そのつもりでございます。軽くですが事情はプライバシーなどに関わらない程度で聞いておりますので、ご予定とご要望にお合いした提案をさせて頂きます」
なんかもう、既にここに来て良かったと思えるレベルの接客だ。まだ何も始まってないのに『ここなら大丈夫だ!』と思える雰囲気がある。
まるで高級デパートのベテラン御用聞きの接遇、1流レストランの最高位ソムリエのような専門知識、そんな感じを彷彿させる。どっちもまともに会った事ないけど。
店先から奥へと案内され、その間も歩き心地の良いウッドフローリング床、綺麗なフラワーアレンジメント、空間に適した見栄えの良い絵画などがあり、普通の美容院とは何もかもが違うように見える光景ばかりだ。
そのまま広く明るい接客ラウンジに通され、非常に座り心地の良いチェアーに座らされる。テーブルの上には高そうな紅茶やクッキーが用意されており、それが当たり前のような光景である事が少し怖くすらなってくる。
「申し遅れました、私はチーフスタイリストの小笠原です。ご用命があれば私と他スタッフ、誰にでも気兼ねなく言い付けて下さい」
「ありがとうございます小笠原さん」
チーフ自ら接客してくれてたようで、それが普通なのか四楓院家の客人に対する特別待遇なのかは分からない。兎にも角にも今まで受けて来た接客とはランクが違う。
「ただいまスタッフを揃えて参りますので、10分程お休みしてリラックスなさって下さい。本日の紅茶はマリアージュ&フィヨン社のインド産ダージリンでございます」
「マジですか…貴重な物をありがとうございますっ」
「とんでもございません。お気に召さないようでしたら、すぐにお取替えしますので。それでは失礼致します」
灰川は以前に染谷川 小路こと春川 桜と紅茶専門店に行った事があり、桜から紅茶知識を少しばかり教えられたのだ。
さっき言われた紅茶は桜がずっと欲しがってる紅茶なのだが、全く手に入らず『悔しいな~』と言ってた紅茶だ。そんな品が当たり前に出て来る美容室、今すぐどこかの国王様が来たって恥ずかしくない店だと感じる。
もしここに桜が居たなら喜んで笑い声が漏れてたかもしれない。
「な、なんか凄いお店だねっ、こんな美容室は初めてかもっ」
「市乃ちゃんだけじゃないよっ、私もだし、由奈ちゃんは?」
「私も初めてよ史菜先輩! すごく大きなお店ねっ!」
「空羽先輩っ…、なんだかセレブ過ぎて恐縮しちゃうっすっ」
「来苑ちゃんもこういうお店って初めてなんだね、私もちょっと腰が引けちゃう思いかな」
5人とも店の凄さに驚いたり圧倒されたりの反応で、灰川としても『本当に美容院か?』と思えるような接客と店内だ。
このラウンジだって、まるで高級ホテルか豪華客船のラウンジみたいな雰囲気なのに、どこか美容院っぽさもある完璧な内装だ。高級ホテルも豪華客船も入った事ないけど。
だが圧倒されてばかりも居られない、ここには髪を整えてもらいに来たのだ。その後にはテレビの初収録がある大事な日である。
「まずはしっかり髪を整えてもらおうぜ、代金は他所持ちだし時間もあるから、勧められたサービスは遠慮なく受けてくれよな」
「ここなら良い感じにしてくれそうだよね、灰川さんありがとー」
「はい、身だしなみが整えば緊張は少しでも和らぐかもしれませんしねっ」
「そうねっ! 床屋さんに行った後ってスッキリするわ!」
ハッピーリレー組では史菜の緊張が高い感じがするが、それ自体は仕方ない事だ。誰だってテレビに初めて出るなんてなったら緊張するに決まってるし、高校1年生だったら尚更だ。
史菜は灰川を慕ってるが、ここで灰川がどんなフォローを入れて励ましても無駄だろう。根が真面目で強めの反省癖のある史菜では、むしろ緊張感を上げる結果になりかねない。
「空羽先輩っ…自分ショートカットだから髪の毛整えてもあんまり変わんないっす…」
「そんなことないよ来苑ちゃん、元が可愛いんだから自信持った方が良いと思うな」
「史菜ちゃんや由奈ちゃんくらいの長さなんて贅沢言わないっすけど…空羽先輩か市乃ちゃんくらい髪の毛伸ばしとけば良かった…」
シャイニングゲート組は来苑が結構な重い緊張と不安に晒されてる。来苑はボーイッシュで明るく社交的だが、どこか内向的な部分もある子なのだ。
普段はあまり表に出ない内向的で繊細な部分が今は緊張感から強くなっており、本番や重大局面において弱い所があるという特性が強くなってる状態だった。
「来苑、そんなに緊張するなって、ショートカット凄い似合ってるしよ」
「え……? そ…そうっすかね…? あ、ありがとうっす…はいかわさん…」
来苑は内向的で繊細な部分はあるが、褒め言葉などを素直に受け取れるシンプルさのある性格だ。そこを見越して灰川は軽く声を掛けて元気づける。
「ふふっ、お顔が真っ赤だよ来苑ちゃん…? 灰川さんに似合うって言ってもらえて良かったねっ…♪」
「ぅぅ…ショートカットにしてて良かったっす…っ」
空羽と来苑が何か言ってるようだったが灰川には聞こえない大きさの声だった。
皆は会話などをして少し緊張は解れたようで、素人でも美味しさが分かる紅茶やクッキーを頂きつつ、スタッフが揃うのを待つ事にする。
この店は四楓院家の伝手で来た場所であり、市乃と空羽は灰川が四楓院家と繋がってる事は知ってる。
しかし市乃は絶対にその事は他言しないし、権力構造からは切り離されてるから、自分と四楓院家の権力とは無関係だと思ってる。親戚仲が悪いとかは一切ない。
空羽は四楓院が凄い家だとは知ってるし、パーティーの時に会った際に力の一端は見たが、灰川の伝手としてパっと浮かぶほど灰川にオーラがないから、さっきまで浮かばなかった。
しかし今は何となく四楓院家の関係なんだろうなとは思ってる。もちろん皆の手前でそれを言うような真似はしない。
そもそも市乃も空羽も灰川の個人的な知り合いとかは一切知らないので、そこら辺は確信的な判断は付かない。全員が互いに全てを知り合う仲ではないのだ。
「お待たせ致しました、皆様に施術をさせて頂く美容スタッフを集めました。ご紹介させて頂きます」
チーフスタイリストの小笠原が10人を超えるスタッフを集め、順次に紹介された。
全員が美容師、理容師の資格を有し、全体カット調髪専門美容師、美容カット専門美容師、トリートメントやヘッドスパ専門美容師などが紹介される。
他所多様な剃刀を使いこなすシェービング専門理容師スタッフも、フェイスシェービング専門、ボディシェービング専門に分かれ、美容師資格では出来ない理容面での専門家が揃ってる。
他にもどんな髪形でも美しさを3倍にするヘアメイクアーティスト、女性の爪を鏡みたく綺麗にするネイリスト、マッサージや各種リラックスセラピーで体の血行を良くして美しさの元となる健康を促進させるエステティシャン。
他にもよく分からない美容関係の何かを紹介され、それらの人達は世界大会の最優秀に輝いた人などの実績と信頼がある人達ばかりだ。
「本日は皆様方がテレビ局に入っても下に見られる事がないよう、スタッフ総出で当たらせて頂きます。お時間までには余裕を持って施術は終了いたしますので」
「ありがとうございます! みんな良かったなっ、これなら絶対安心だぞ! もう凄い場所だって俺でも分かる!」
「そうねっ! なんだか凄いっていうのが私にも分かって来たわ!」
素人でも豪華メンバーと分かる布陣、専門美容に特化したプロ中のプロ達、そんな人たちが揃い踏みしてるのだ。
なんかカッコイイ!俺よりカッコイイ!とか灰川は思ってしまう。経験と実績に裏打ちされた熟練者、才能と熱意を併せ持つ若き美の天才、そんな人たちがズラリだ。
「まずは皆さま、個室での美容カウンセリングから始めさせて頂きます。カットに際しても皆様にリラックスして頂けるよう、最適なお部屋を選ばせて頂いております」
「じゃあみんな、良い感じにしてもらってくれよな!」
「うん、灰川さん期待して待っててねー」
「はい、また後でお会いしましょう灰川さんっ」
「誠治! もっと可愛くなった私を見せて驚かせてあげるわ!」
「こんなに本格的なんだ…レミアム・オーセン…。少し侮ってたかも…」
「なんかスゴイ事になっちゃったっすねっ…自分じゃ場違いって感じっす…!」
そこからは個室でのカットやケアになるようで、5人とも別室へ連れて行かれたのだった。
市乃は埃一つない廊下を歩いて最上階の3階にある個室に連れて行かれたが、そこには美容院にあるような椅子はなく、晴れやかな日差しが差し込むカウンセリングルームだった。
高級そうなソファーやテーブルがあるルームで髪質を見たり、普段のヘアケアの事について聞かれたり、どのように調髪するかをアドバイスを交えて決めてからカッティングルームに案内された。
カットチェアーも座り心地が良くて高級感があり、部屋自体も軽やかな音楽が流れて高価なウッド素材の壁に反響して、空間自体に特別感がある。
「ではカットで少し整えつつ、トリートメントやヘッドスパ、エステティックコースに移らせて頂きます」
「お願いします、なんか緊張しちゃいますねー」
「ご安心ください、全て滞りなく進めさせて頂きますので。もし失敗した場合はお台場の周りを泳いで一周してまいりますよ、ふふふっ」
「あははっ、だったら金メダル取れちゃいますよー、美容師メダリストってカッコイイかもっ!」
そんな冗談を交えつつ準備が進み、ヘアーエプロンを掛けて体に髪の毛などが落ちないようにする。
ちなみに市乃たちは調髪に移る前に服を着替えており、美容ケアやエステを受けやすい専用服に着替えてる。しかも着てた服は施術中にクリーニングしてもらえるという至れり尽くせりっぷりである。
準備は終わり施術に移る、ここからはしっかりと髪を調整してもらうのだが。
「では失礼致します」
「はーい、……!!」
美容師が髪に触れた瞬間、市乃は驚いた。気持ち良いのだ、神経など通ってない筈の髪の毛なのに、触られ心地が普通の美容院とまるで違う。
自分の髪の毛がシルクかカシミアウールにでもなったのか!?というような、ただ触られただけなのに明らかな技量の違いが感じられる。
「お客様の髪は少し栗色がかってますから、この色を引き立てつつ、ツヤを立ててヘアダメージを完全に消させて頂きますね」
「ふわぁ……お、お願いしますー…」
市乃の髪の毛は少し栗色混じりであり、可愛らしい印象を与える髪色だがツヤが立ちにくい髪質だった。ダメージも一見すると無いように見えるが、1流の目は誤魔化せない。
市販の洗髪剤で洗い、トリートメントなどもして入浴後はすぐにドライヤーで乾かすのだが、レミアム・オーセンのカット美容師、牧原順子からすればまるでなってないケアなのである。
今のセミロング髪形も市乃に似合ってるし、この髪形を崩さないという形で話はまとまってる。しかし手直しできる部分が牧原からすれば非常に多い。
セミロング、女性には普通で一般的な髪形であるが、それ故に奥が深い。世の中の女性のどれほどの数が『最も自分に適したセミロングヘアー』なのか。
最適な長さか?最適なツヤか?最適なボリュームか?見るべき点は多く、シンプルで普遍的だからこそ奥が深いヘアスタイルだ。
牧原は美容師世界コンテストをシンプルなセミロングヘアで最優秀に輝いた女性であり、レミアム・オーセンの中では『最も黄金律に近いセミロング職人』と呼ばれてる。カット以外の手技も素晴らしい技量だ。
「全体を整えつつ、枝毛カットや跳ね毛カットもしていきますね。その後に要員交代でトリートメントやヘッドスパなどに移らせて頂きますので」
「は…はい…、お願いしまーす…」
1日に2回砥がれる切れ味抜群の美容鋏が軽やかに動く、まるで体の一部だ。
それらの技量や手技の素晴らしさに尊敬と驚きの念を感じつつ、市乃は『スッゴイ!』と心の中で思うのだった。
竜胆れもんこと来見野来苑は中庭にあるカッティングルームならぬ、カッティングテラスに案内されて施術を受けてる。
直射日光は無く、明るくて過ごしやすい気温で、こんな場所で髪を調整されるなんて初めてで驚いた。すごい特別感がある空間だ。
「お客様はショートカットが非常にお似合いですね、髪質もショートに非常に適してますよ」
「黒山さんこそスッゴくショートが似合ってるっす! 自分もそんな風になりたいっす!」
「お褒め頂きありがとうございます、趣味でバスケットをやってるもので、ショートが一番かなと思ってます」
来苑のヘアカットは既に終わっており、黒山はカット後に来たヘッドスパスタッフだ。
来苑は女の子としては短いショートカットヘアだから、少し弄った程度で何も変わらないと自分では思ってたのだが、それは間違いだった。
髪だけを見れば男子にすら見えかねないショートヘアは、髪が痛みにくい事やセットが楽というメリットがある。しかし毛髪のはみ出しや左右差などが非常に出やすいというデメリットも多い。
はみ出しや左右差は少し見ただけでは分からないのだが、それは『美しさを損なってる』という印象を人の無意識に与え、ジワジワと他者からの容姿の評価が下がる事があるという危険性を持つ。
しかもロング系統の髪形より顔全体が見えやすいため、直接的なルックスが見えてしまうという、ある意味では良くも悪くも『最も顔の評価がされやすい髪形』と言えるだろう。
「お客様は顔立ちが整ってショートが凄くお似合いですが、今のままではお客様の魅力が引き出しきれておりません」
「えっ! ど、どうすれば良いんですか!? キレイで可愛くなってみたいっす!」
取りようによっては失礼とも言える言葉だが、来苑は驚きつつどうすれば良いのか聞く。
「お客様は緊張や不安といったマイナスの感情が疲れを増幅させるタイプの性格ですね」
「!! 当たってますよ…っ」
来苑には心当たりがあった。不安や緊張を感じてる時は配信もイマイチな出来になる時が多く、疲れてると感じる時はマイナスの感情がある時なのだ。
「レミアム・オーセンのヘッドスパは頭皮や頭の血行や健康促進だけでなく、ストレスを和らげる効果も妥協しておりません。これから施術していきますので」
「お願いします! 今日は失敗できない日っす! ストレス消して下さい~!」
「お任せください、椅子を倒しますのでご注意下さいね」
ここで施術するのはクレンジングヘッドスパという部類のもので、頭皮を更に綺麗にしつつスパ特有の気持ち良さやストレス解消などにも妥協しない、特別な施術である。
椅子を倒して頭がシャンプーユニットに添えられ、目の上にはアロマの香りがするホットタオルが乗せられ目の疲れを癒す。
「では始めていきますね、最初はシャンプーからです」
「ふぁぁ……きもちいい…っ!」
お湯が頭に掛けられる時点で既に気持ち良い、特別なノズルが使われてるんだろうか?お湯の温度も最適で、これだけでも天国気分である。
順調にシャンプーが終わってヘッドスパに移る。黒山の雰囲気が来苑には感じ取れない程度で変わり、そこから。
「力加減はよろしいでしょうか?」
「さ……さいこうです……」
手順としては散髪した毛髪を落とす軽いシャンプーをしてから、個人に適した調合をしたクレンジングローションで皮脂成分を浮かし、特性調合の薬用シャンプーで血行を促進、養毛成分のあるコンディショナーで毛髪の強さを上げるというものだ。
その中でヘッドスパジェルなども使ってヘッドマッサージで皮脂などを落としつつ、頭皮を優しくしっかり揉み解し、撫でるように血流を促進、指の中央で緩やかに擦って頭皮に温かさを与える。
気持ち良い、こんな感覚は味わった事がない、頭が融けるかのようだ。ストレスが洗い流される、不安と緊張が飛んでいく。癒しが気力を湧かせ、気力が悪い緊張も不安も跳ね除ける。
「ヘッドスパが終わり次第にエステとトリートメントに移りますので」
「は……はぃ……~」
こうして来苑は身を整えつつ緊張や不安を卓越した手技によって消されていった。
ハッピーリレー所属Vtuber北川ミナミ、白百合 史菜はカットの後にヘッドスパを受け、そこで軽く髪を乾かしてから椅子の正面の鏡を見て驚いていた。これって本当に私ですか!?
史菜が案内された部屋は2階の落ち着いた白い内装が基調のカッティングルームで、目に優しいがちゃんと明るい部屋だった。
この部屋に入った時点で清潔で落ち着く色合いながらも、どこか気を引き締める明るさの色調が史菜の心を緊張から解放し、普段のような調子に戻ってる。
「お客様、ただ今から流れるようなサラサラ感が更に上がるよう、トリートメントに移らせて頂きます。綺麗なロングなので、とても調髪しやすかったと上田が言っておりましたよ」
「あ、ありがとうございます…!」
トリートメント専門の美容師が来て話を交えつつ次に移る。その際に美容師が万が一にも枝毛やクセの付いた髪が残ってないか素早く確認し、カットは最適切と判断した。
まだ髪の毛を少し切っただけだ、それなのにさっきまでと違う!史菜のヘアスタイルはロングヘア、非常に魅力的な髪形で、枝毛やクセ毛を切るだけで髪のツヤはまるで別物みたいになるという特性がある髪型だ。
しかし長い髪は手入れも大変だし、魅力の高さ故に粗が目立ちやすい髪形と言えよう。風が少し吹いただけでボサボサになってしまうなんて話もあるのだ。
「今日のトリートメントは、お客様の今の髪質に合わせてオージュワ式ハンドメイド調合をした5ステップトリートメントをさせて頂きます」
「え、えっと…それはどういう物なんでしょうか…?」
「個人の髪質に最適な調合をしたシャンプーやコンディショナーを使った後に、同じく最適調合をした5種類のトリートメントを更に混ぜて使う施術です」
ここでは決まったシャンプーやコンディショナーなどは存在せず、客の髪質を見て、その都度に今の客個人に合った洗髪剤を調合して使用する。
この店のトリートメントとは自己再生能力が無い毛髪を内部から完璧に補修し、その人に合ったサラサラでツヤのある髪の毛に完璧に仕立てるというものだ。
ここで使われるトリートメントは上級美容師向けで、調合は個人によって変わるから見極めが難しく、しかもトリートメント施術をする美容師の腕前でも効果が変わってしまう。
だがレミアム・オーセンに勤める専属プロトリートメント美容師である野中は、見極めも調合も腕前も最高レベルだ。1000種類を超える成分を最適に組み合わせて発揮される効果は、女性の髪の美しさを最大にまで引き出す。
野中のトリートメントの技術と知識は横に並び立つ者はそうそう居らず、ライバルは海外にしか居ないとまで目されてる程だ。
「痛くはないでしょうか?」
「はい、すごく気持ち良いですっ」
5ステップトリートメントは成分を選んで髪に栄養を与え、ツヤ出しのコーティングをしたり、サラサラ感を大幅アップさせたり、ダメージ補修やダメージ防止をする優れた専門的トリートメント技術だ。
髪全体に付けた後は美容用スチーマーなどで熱と蒸気を使って髪の奥まで水分補給をさせ、栄養成分の補給や浸透が潤滑になるようにする。
時間も少しかかるし値段も張るが、美容を求める人なら是非とも受けたいと思うトリートメントだろう。
史菜はこんな凄い気持ち良くて、絶対に効果があると確信できるトリートメントなど初めてだった。少し髪を切っただけであれ程の変化だったのに、施術が終わったらどうなってるのか。
空羽と由奈は調髪が終わった後にエステルームで全身エステとシェービング施術、ネイルとハンドのケアを受けていた。
「…………」
「…すぴ~……」
言う事なしの気持ち良さ、口が開いてるのか閉じてるのか分からないくらい気持ち良い。
由奈などはあまりの気持ち良さで眠ってしまっており、空羽も施術ベッドの中に沈むんじゃないのかと思えるくらい気持ち良さを感じてる。
顔面美容と表情筋の疲労回復を目的としたフェイシャルエステ、体の血流改善や美容促進のボディエステ、全身の筋肉や関節を解して美容を高めるリラクゼーションエステ、全てが気持ち良い。
ネイルケアやハンドケアも同時に行われており、そちらも綺麗になりつつ、やっぱり気持ち良いのだ。
空羽は普段から気を付けてランニングしたりしてるが、配信業は長く座って集中力や気力を使う生業だ。腰に負担も掛かるし肩もガチガチになったりする。
由奈も空羽も若くて元気とはいえ疲れはあるし、やっぱり体の深い場所に疲れが溜まってたのだと実感する結果になっていた。
空羽は先日に灰川とロケハンに行った時に、自分でも気付いてなかった疲れを自覚した。今は更に体の奥から疲れを取り除かれ、1mmの疲れすら残さないと言わんばかりの極上の施術を受けてる。
鍼灸あん摩マッサージ指圧師の国家資格を持つエステティシャン、素晴らしい技術で爪と手をケアしてくれるネイリスト、理容師資格を持つ熟練者によるフェイスと背中や肩、腕や足などのシェービング。
彼らが動く度に由奈と空羽のどこかが綺麗になって癒される、アロマの香りが素晴らしく安らぐ、ゆったりした室内音楽が耳からも安らぎをくれる。
そこから空羽の記憶も途切れてしまった、疲れを体から抜かれる気持ち良さに抗えずに眠ってしまったからだ。
皆が施術を受けに行った後、灰川はラウンジで待っていようとすると、チーフスタイリストの小笠原に声を掛けられた。
「灰川先生、何かございましたら接客スタッフの溝口にお申し付けください。ラウンジに待機させておきますので」
「何から何まで本当ありがとうございます、助かりました」
「いえ、お礼には及びません。では私は皆様の施術がありますので失礼致します」
灰川は自分もカットしてもらえるかな~なんて少しばかり思いもしたが、髪も伸びてないし男性担当スタッフも居ないようなので大人しく待ってるほかない。やっぱり欲はこくものじゃないな~とか思う。
暇を潰そうと備え付けのテレビを点けても今は通販番組しかやっておらず、サブスクチャンネルとかは見たい物を探すのが面倒だ。
スマホを長く触るのも気が引けるし、市乃たちの施術は結構な時間が掛かる。
「すいません、ちょっと良いでしょうか」
「はい、どうされましたか?」
灰川は椅子から立ってラウンジの入り口に居る若い接客スタッフ、溝口に話し掛けた。
「あの、もしあったらで良いんですが、怖い話とか持ってませんか?」
「えっ? 怖い話ですか?」
まさかの質問に溝口は少し混乱するが、灰川としては理美容業界の人にじっくり怪談を聞けるかもしれないチャンスなのだ。




