167話 桜とショッピング
夕方の渋谷の街は人通りが多く、危険の無いようゆっくり進む。そんな中で灰川が何となしに興味のある話を振ってみた。
「そういやさ、桜って何か怖い話とか持ってたりする?」
「え? あるよ~」
「マジ? 聞きたいけど話してくれる?」
「良いよ~、じゃあ折角だから私の学校の友達が体験した、訳アリ物件に関係する話をするね~」
ついさっき訳アリ物件巡りをしてたからホットな話題だ。灰川も気になっており、桜の介助を気を付けつつ話に耳を傾けた。
これは桜が盲学校の中学部に通ってた時に友達のAちゃんから聞いた話で、桜も怖いと感じた話だ。
Aちゃんは全盲ではないが先天性の病気が原因の重度の弱視で、日常生活を健常者と同じようには送れない視力だ。弱視とは眼鏡などで矯正が効かない視力異常です。
教科書なども文字を拡大した盲学校用の教科書を使ってるし、白杖も使って学校で歩行練習や点字の読み方など日常生活や自立活動授業も真面目に受けてる。
盲学校の友達の家
Aちゃんは生まれつきに目が不自由で、特別支援学校の幼稚園部に上がった時に、両親がAちゃんが生活で困らないようバリアフリーが良い一軒家に引っ越した。
その家は目が不自由な人でも暮らせるように改築してあり、幼稚園児だったAちゃんも普通に安心して暮らしてたのだが、少し変な所があった。
それは家の中で、たまに『お母さんが2人になる』という事があったと語り、母親の声が家の中の複数の場所から聞こえたり呼ばれたりして、Aちゃんは混乱する事があったそうだ。
キッチンから母の声が聞こえたと思ったら廊下方向から呼ばれたり、2階から母の声がしたと思ったらトイレから母のくしゃみの声が聞こえたり、幼いAちゃんは不思議に思った。
だが何故か『絶対に家族に言ってはいけない』という感覚があったそうで、気になるけど誰にも言えず過ごしてたらしい。
ある日にまた母の声が2か所から同時に聞こえた。片方は押し入れの中からで、もう片方は廊下の奥方向、だがこの時はAちゃんは普段と違うと感じた。
どっちも本物じゃない!
今まで聞いた声は本物の母と区別がつかなかったし、今回も声だけを聞いたらどっちも本物のお母さんとしか思えない声だ。
どっちに行っても悪い事が起る…目が不自由だからこそ優れた感覚があり、その感覚がAちゃんに告げている。
怖くて動けず泣きそうになり、どうして良いか分からず逃げる事すら出来ずに居た時だった。突然に人ぐらいの大きさの何かが部屋に入って来て暴れるような音がしたという。
「ヴぁーー! ヴァーーっ!」
「ぎやぁぁーー!!」
動物のような匂いがしたと思ったら何かが暴れ回り、母の声を出していた何かは消えたらしい。
その動物のような何かが助けてくれたんだと感じてAちゃんはお礼を言おうとしたが、その匂いの主はリビングの炬燵で休んでくと、いつの間にか居なくなってたそうだ。
後から両親に聞いたそうだが、この土地は以前に墓地があったらしく、前の住人は家を建てて1年もせずに売りに出したという経緯がある家だった。
きっと前に住んでた人も同じような目に遭ったのかと思うと、Aちゃんは今でも少し怖くなる事があるらしい。
「この話を聞いた時は怖いな~って思ったよ~、でも動物みたいな匂いがしたのって何なんだろ~?」
「おお!良い怪談だなっ! でも動物みたいな匂いがしたら悪霊が消えて、コタツで休んだとなると、あの怪異のカンガルーが思い浮かぶなぁ」
「何か知ってる怪奇現象なの~?」
「お、到着したぞ、既に紅茶の香りがしてるな」
そんなこんなで目的の店に到着し、話は中断となってしまった。
怪異にはたまに人間を守ったり助けたりする存在もあり、座敷童なんかもその一例と考える人も居る。猫叉のにゃー子だってそういう見方は出来るだろう。
他にも一定の条件を満たした上で炬燵がある場所に現れて悪霊を倒してくれる怪異・コタツカンガルーや、怪現象によって不幸になってしまった者を助ける現代版打ち出の小槌、怪異・幸せハンマーなどがあったりする。
「紅茶ってこんなに種類があるのか!? ペットボトルのしか飲んだことねぇや」
「むふふ~、深淵なる紅茶の世界にようこそ~」
その店は渋谷繁華街の小型の商業ビルの1階にあり、そこそこの広さの店内には様々な紅茶の茶葉が売られてる。店の中は紅茶の香りでいっぱいだ。
茶葉の種類や産地、等級によって味が違うらしく値段も様々。聞いた事もない名前の茶葉もいっぱいあり、灰川としては未知の世界だ。
Vtuberや配信者にだって趣味や好きな物くらいあり、桜は紅茶が好きなようだ。自分で淹れたり美味しい飲み方を考えたりするのが楽しいらしい。
「俺だとよく分かんねぇから店員さんに聞くか? それにしても色んなのあるなぁ」
「うん、そうしたいな~」
茶葉だけでなくティーカップやソーサー、茶葉の湿気防止用の保存容器などのグッズも多く、今まで興味が無かった世界に灰川も少し興味がそそられる。
灰川が近くに居た店員に声を掛け、桜が何かよく分からない茶葉か何かの話をする。
「スリランカのルフナと、ブレンドのイングリッシュブレックファーストはありますか~?」
「はい、当店独自のブレンドとスタンダードブレンドがありますが、どうなさいますか? 試飲も出来ますよ」
「試飲ができるんですか~? お願いしたいです~」
どうやら店内で試飲して買う茶葉を決める事も出来るらしく、客用の試飲席に案内されて少し待つ。
今は視覚障碍者向けのキッチングッズなどもあり、料理や紅茶をする事も出来るようになったそうだ。もちろん安全面を考慮して訓練は必要だが、そこは健常者も変わらない。
「色々と考えられてんだなぁ、知らなかったとはいえ驚くぞ」
「でもあったら良いな~って思う物が、売り切れで入荷が未定ってこともあったりするよ~、針式の腕時計とかね~」
視覚障碍を持つ人たちの物の考え方や捉え方は一般人とは違いがあり、例えば目の見えない人でも腕時計をしてる事がある。
その腕時計は音声読み上げの無い時計針式の物で、どうやって時間を知るのかというと『カバーを開けて針を触って時間を知る』という方法だと桜は言う。時計を触って時間を知るという概念が無かった灰川としては、これは衝撃的な気持ちを味あわされた。
桜は視覚の代わりに他の感覚が鋭敏であり、聴覚や味覚や触覚が鋭いようだ。時には茶葉に触っただけで何の茶葉か分かる事さえあるらしい。
「お、桜と同じ名前のサクラティーなんてのもあるんだな、どんな味なんだ?」
「サクラティーは桜の香りが付いたフレーバーティーだよ~、味は紅茶だけどね~」
フレーバーティーも最近は色んな物があり、桜も色々と試してるらしい。灰川としては前にジャパンドリンクで飲んだ、パインフラワーティーを思い出してしまう。
「お待たせしました、試飲の紅茶です」
「ありがとうございます~」
「あ、俺の分まで、ありがとうございます」
試飲の紅茶が出され店員は接客に戻り、2人で味わって飲んでみる。
「うん、美味い。正に紅茶って感じだな」
「美味しいな~、ブレンドがすごく良いよ~」
灰川は小学生みたいな感想だが桜は味が分かるので感心してる。灰川としても美味しいというのは本当であり、ペットボトルの紅茶とは流石に味の違いがあると感じていた。
「全部買っちゃおうかな~、どうしよ~」
「荷物は持つけどよ、保存とかは大丈夫か? 香りとか飛ぶことあるんじゃないか?」
「その前に飲んじゃうから大丈夫だよ~、配信の前とかにいっぱい淹れて、配信中に全部飲んじゃったりするからね~」
Vtuberは声を出して視聴者を楽しませるという以上は喉を使う、桜も例外ではないから配信中は喉を痛めないよう、親の勧めで紅茶を飲むようにしたらハマったらしい。
そんな桜は割と紅茶の消費量は多いらしく、風味が飛ぶほど保存してる事は無いそうだ。
結局は試飲した茶葉を全種類購入し、また来ようと話をしながら満足して店を出たのだった。
「紅茶の世界も奥が深そうだな、俺も少し興味出たぞ」
「むふふ~、興味あったら私が教えてあげるよ~」
そんな事を言うが桜が灰川に教えるのは時間的に難しくなるだろう、これからは更に忙しくなる予定なのだ。学校と企業Vtuberの2足の草鞋は簡単にはいかない。
会話をしながら桜は内心で少し落胆してる。その理由は今日一日を通して灰川に何か特別な感情を抱かせる事が出来なかった、手応えを感じなかったからだ。
小説朗読の音声や学校の友達から聞いて、意中の人にどういう風にアピールすれば良いのか、そういう知識はあるにはあるが実際には難しい内容が多い。
体を少し押し当ててアピールしてみるとかは、一緒に居る時は手を繋いでる事が多い桜と灰川ではあまり意味がない。
実際には灰川としては稀に当たる桜の柔らかな感触にドキリとする事もあるが、それは生理的な反応であって邪な思いからではないのだ。
友達から聞いた話だと相手が使ったコップなどを使って間接的に唇があってしまう、間接キスの事なんかも聞いたけど介助してる灰川にそれをするのは難しい。
もちろんそれらの事は健常者だろうが抵抗感が強い人も居るし、実際にやろうとすると状況的にも心理的にもハードルがあったりするものだ。頭で考えるのと実行に移すのでは壁がある。
こういう目が見える人との違いを感じた時、桜は心の中に何かがチクリと刺さるような気分になる。今が正にそうで、灰川の関心を惹こうと思ったが、頭の中で考えてた事と違って手応えが無かったのは少し重い気持ちになった。
「やっぱ桜と一緒に居ると楽しいし落ち着くなっ、もっと頼ってもらえるように俺も色々と勉強しなくちゃな!」
「……!」
この言葉は桜の胸中に刺さってたチクリとした何かを抜き去った。
自分と居ると楽しくて落ち着く、視覚障碍者介助だけでなく色んな事を頼って良いんだぞと、そんな気持ちが本心からであるのが握った腕の感触からも伝わってきたのだ。
目にハンディキャップがあるとか、そういう事ではなく自分という人間を好んで一緒に居たいと思ってもらえる。その嬉しさやありがたさに桜は改めて気付かされた。
「あっ…!」
「おっと危ねぇ、大丈夫か?」
そんな気持ちに気を取られ、少し足元が疎かになった桜が足を滑らせてしまうが、灰川はちゃんと気を桜に向けており支えてくれた。
その時にも耳を澄ますと音や匂いなどの情報から、今歩いてる場所が何処なのか、どの道を辿って来たのかが分かった。
灰川は点字ブロックがカーブして目の見えない人が方向感覚を失う恐れのある場所を避けたり、目の見えない人でも信号の表示が分かる音響式信号が設置されてる道を選んで歩いてたのだ。
その事に気が付いた時、桜の胸の内の何処かがドキンとした。
介助というのは性格や思いやりの度合いにより差が出る物で、灰川のそれは完璧ではないのは分かってるが、前よりも格段に介助に向ける心や知識が上がっていたのだ。桜としてはとても嬉しい気持ちになる。
今の灰川は桜のためと考えて過剰に段差などを避けた動きをしたりするが、目の見えない人にとっては段差なども時には重要な位置情報になったりする。灰川はもう少し勉強し、個人の性格や動きに合わせた介助が出来るようにならなければいけない。
「あ…ありがとう~、は、灰川さん~」
「おうよ、疲れたりしたら言ってくれよな、休める場所もリサーチ済みだ」
「……うん~、ありがと~」
その後はタクシーを捕まえられる場所まで行って桜を乗せて、その日は解散となる。
だが桜は以前にもまして灰川の事が心に刻まれてしまい、その日はドキドキしっぱなしだった。
握った腕から伝わる気遣い、一緒に居ると楽しいと言ってくれたこと、転びそうになって支えられた時に感じた香り、それらを思い出して口角がどうしても上がってしまう。
自分を好きにさせるつもりが相手の事をもっと好きになってしまうという逆転現象になってしまったが、桜はそれでも満足の行く一日だったと思えるのだった。
一人暮らしが出来そうな物件は一応は目星がつき、実家のマンションももしかしたらペットが可になるかも知れないと聞いた。
マフ子と一緒になれる日が近いかもと思うと、更に楽しみな気持ちが膨らむのだった。
「はぁ~、やっぱ修行が足らんのかなぁ…」
灰川は自宅の馬路矢場アパートで一人でボヤく。今日を振り返って桜が転倒しそうになった時、もう少し早く反応するべきだったと感じたからだ。
下手に支えればセクハラになりかねないし、灰川にそんな気持ちがある訳でもない。ましてや桜がそういう方面で非難するとも考えてない。
しかし周囲の目はそうとは限らないから厄介で、現代は介助の事だって気を使う部分は多いのである。それもあって『どこを支えれば良い?』という思いから、一瞬だけ行動が遅れてしまったのだ。
他には灰川としても桜の手は温かくて、掴まれてると心地いいとか思う時もある。転倒しそうになって支えた時は、シュークリームのような甘やかな香りを感じたりもした。
こういう感情は良くないと思いつつも、気にすればするほど意味がないから保留にしておこうと決めた。
「まぁ良いか、とりあえず無事に終わったんだし、今日はもう寝る!」
こうして今日も終わり、また明日がやって来る。
ここからはシャイニングゲートの芸能界進出や、ハッピーリレーの立て直しが本格化していく筈だ。
しかし灰川が1から10まで関わる訳じゃないし、アレコレとやりながら関わっていく事になる。
ここからどのような動きになって行くかは分からないが、きっと苦労しながら色々と学んで進んで行くのだろう。




