125話 灰川のトラウマ会社
色々な偶然が重なって灰川たちは高層オフィスビルが立ち並ぶ東京丸の内へ到着した、ジャパンドリンク株式会社の本社前である。
大企業の本社や経団連、政府系機関、外資系企業の日本拠点がズラリとある国内最高のビジネス街だ。働きたい街ランキング1位、平均年収1000万越え、エリートが集う街、ここで働く事を夢見る大学生なども多い。
だがガチガチのビジネス街というばかりでもなく、高級デパートや商業施設もあったりする場所でもあり、カフェやブランドショップ、ブライダル系の撮影スポットとしても人気がある街だ。
歴史ある企業が多く、IT系企業が多い渋谷とは雰囲気がかなり違う。全体的にピシっとした空気があり街の風景も綺麗ながらも厳かだ、まさにエリートの街という感じ。
「丸の内かぁ…俺ここの街って苦手なんだよなぁ」
ジャパンドリンク本社ビルに入る前に灰川が周囲を見ると、自分とは住む世界が違う人たちの雰囲気がビリビリと伝わってくる。
「灰川さん、ここで何かあったの?」
「実は大学の就職活動で、丸の内に本社がある会社に行きてぇって思ってたんだけどよ」
灰川は丸の内に本社がある企業の就職面接に来て、本社合格こそしなかったのだが傘下企業に入る事が出来た。
しかしそこでは研修という名目の奴隷労働が待っていて、1日16時間労働の最低賃金で残業代ナシ、そこは1年で退職した。
労働法の企業締め付けはここ数年で一気に向上したが、その前は雇用者は労働者に何やっても良いみたいな風潮があり、灰川はその被害を受けた人間である。
「しかもその会社ってジャパンドリンクなんだよ、バレないよう隠してたけどよ。だからここにも一回来た事あるんだよな…正直言ってこの会社に良い印象も思い出もねぇんだわ」
「灰川さんが前に言ってた会社って、ここの関連会社だったんだ。なんか感じ悪いねー」
「そうなんだよなぁ、今思い出しても気持ち悪くなって来るぞ…毎日怒鳴られてブッ叩かれながら、ひたすら荷物を運ばされてよ…」
灰川の脳裏に酷い記憶が蘇る、荷物を落として反省文を原稿用紙10枚書かされ朝礼で大声で読まされたこと、やたらと長い企業理念を覚えきれず駅前で企業理念を大声で一人で読まされ暗記させられたこと、ミスして何人もの社員に囲まれて「無能」「役立たず」と長時間怒鳴られたこと、色々と思い出してしまう。
働いてた場所はここではないが、それでも辛い日々の始まりの場所がここだと思うと嫌な気持ちになる。
「仕事だし社長の面目を潰す訳にもいかねぇから除霊はするけどよ…俺は先に帰るかもしれねぇから、打ち合わせは上手いことやってくれ…」
「なんか本当に体調が悪そうだね灰川さん」
「無理はしない方がイイっすよ」
ナツハと竜胆れもんも心配そうな声を掛けてくれる、ありがたい事だが灰川は過去のブラック労働が本当にトラウマになっており、感情は浮かばないままだ。
酷い目に遭わされた怒り、ゴミ扱いされた悲しさ、どんな扱いを受けても入社した自分の責任で済まされた悔しさ、マイナスの感情だけが大きくなる。
「灰川君が言ってた会社というのはジャパンドリンクだったのか、そういえば数年前に悪質な派遣業態が裏で問題視されてたな」
「例の会社はここだったのか、ジャパンドリンクを見る目が少し変わってしまうな」
花田社長も渡辺社長も驚いた様子だ、特に花田社長はメディア業界で働いてたから社会の情報にも詳しい。
灰川たちがそんなマイナスな過去の話をしてるのを、ジャパンドリンク企画本部長の矢野は少し離れた所から聞いてしまっていた。灰川たちは周囲に誰も居なかったから、聞かれてないと思ってたのである。
(そんなこと聞いて無いぞ!? あの灰川という奴が会社を恨んでるなんて、どうすれば良いんだ!?)
矢野にとってこれは大事な仕事だ、上司から会社の行く末を大きく左右すると聞かされており、絶対に失敗は許されないと社長と副社長から強く強く言われてる。
この仕事に際して矢野は社長と副社長から上級幹部しか知らない『四楓院』という家の存在を教えられた。創業当初から大金をジャパンドリンクに出資しており、銀行融資や宣伝広告、強力な販売ルートなどには大きく関わる名前であり、超大口株券所有者、それが四楓院家だと聞かされた。
多くの大企業や政治家の生命線を握る家、海外にも影響力を持つ家、彼らに嫌われたら会社はお終い。そんな四楓院家が『大先生』と仰ぐのが灰川という人だと教えられたのだ。今まで全く知らない話で最初は嘘じゃないかと思ったが、社長と副社長がその話を語ってる時に、顔が真っ青になってたから本当なんだと直感した。
ジャパンドリンクが先日にビジネスパーティーで四楓院家の不興を買ってしまった事も聞かされた。どうにかお咎めは回避できたが、その事があってから悪い影響が出てるのも聞かされてる。ジャパンドリンクはパーティー以降は株価が少しづつ下がっており、そろそろ投資家が見切りをつけて一気に株価が下がる危険性が出てきたのだ。
明らかに四楓院家の不興を買ったのが原因だと判明してる、取引してた大口の会社に営業部の社員が「ジャパンドリンクの人間を会社に入れたら何が起こるか分からない」と言われ、今まで普通に入ってた会社から門前払いを喰らったという話まで聞こえて来た。
何が何でも今回の仕事で四楓院からの信用を回復し、企業利益と株価を回復させなければならない。これは人生が懸かった仕事だ。
成功すれば昇進は確実だが失敗すれば左遷は確実どころか会社が危ない、会社での立ち位置的にも実績的にも矢野企画本部長が適任とされて任された仕事だ。焦りが強くなるが、ここで更に焦らされる言葉が灰川という奴から発せられた。
「つーか思い出したら腹の底から怒りが湧いて来たぞっ、この会社マジで潰れろよ…薄汚ぇ就職詐欺企業がよぉ…」
「は、灰川さん! あんまりそういうこと言っちゃダメだって! 仕事なんだから我慢しよっ?」
「本当なら見たくもない会社だっつーの、後で陣伍さんと英明さんに電話して、ジャパンドリンクは2度と灰川に関わるなって言ってもらおうかな…」
矢野は青ざめる、灰川という人はジャパンドリンクを本気で憎んでるし、関わりたくないと思ってる。それを四楓院家に灰川が言ったらジャパンドリンクはお終いだという事にも気が付いてなさそうだ。
大企業であろうと逆らえない相手が懇意にしてる人物を接待しなければならないが、相手は既に怒ってるどころか、会社に対して憎悪と怨嗟と恨み骨髄の感情を抱いてる。
ゼロからのスタートどころかマイナス100億からのスタートのような物だった。矢野は50歳にして久々の強い焦りの感情を持つが、ジャパンドリンク本社企画本部長という肩書き、そして社長達から信頼された矜持で自信を奮い立たせ、灰川&その他5名を接待する精神を固めたのだった。
「こちらが本社エントランスです、入場手続きをしてきますので少し待ってて下さい」
「うわー、広いし天井高いし綺麗ですねー」
「明るいし清潔だし、さすが大企業って感じがする」
「ホントっすね! 噴水とかあるっすよ!」
市乃たちは日本有数の大企業のエントランスの立派さに感銘を受けている、広いエントランスには立派なスーツに身を包んだビジネスマンたちが行きかい、私服姿の市乃たちは少し浮いてしまってる。灰川も安物スーツだから見栄えは悪い。
「…………」
「は、灰川君、大丈夫かね…? 表情が全く動いてないが…」
「怒りの感情が出ないように表情を殺してる…」
「灰川さんってブラック企業への憎しみが凄いもんね…」
灰川の内心としては今すぐここで大暴れでもしてやりたいくらい怒りの感情が湧いてるが、それはちゃんと抑えてる。口を開いたら余計なことを言ってしまいそうで、あまり喋りたくもない。
今まで過去の事は意識しないよう生活してたが、怒りの感情や恨みの感情は抑えに抑えてただけである。トラウマは克服できておらず、未だに強い憎しみが精神には宿ってるのだ。以前のように感情が爆発しないよう心掛けなければならない。
「どうでしょうか灰川さん、当社のエントランスは」
「すごいですね」
矢野が営業スマイルで話しかけて来るが灰川は無表情、何の感情も無く適当に無難な返事をしてるのが丸わかりな声だった。
灰川はこのエントランスをよく覚えてる、立派で大きくて凄い会社だと就職活動の時に感じたのだ。今となってはトラウマを象徴するような場所になってる。
「あ、えっと…入場手続きは終わりましたが少し用意があるので、そちらのカフェでお待ちくださいっ。もちろんお代はこちら持ちですので、お好きな物をご注文下さいっ」
そう言うと矢野はそそくさと影の方に行ってしまい、仕方なしに一行はエントランスにあるオシャレな社内カフェに入った。メニューは色々あるが自社製品を使った創作ドリンクが自慢のようだった。
「灰川さん何も頼まないの?」
「俺はいらねぇや…ジャパンドリンクの製品ってなるべく買わないようにしてるんだよ、昔のこと思い出すしよ…」
「重症だな…灰川さん、お祓いは今からでも断ろうか?」
「いや、お祓いしたらすぐに帰るっす…パソコンは後で返して下さいね」
「本当によほど酷い目に遭わされたんだな灰川さん、お察しするよ…」
あまりの灰川の沈みように一同の空気が重くなる、灰川だってこんな雰囲気を出したくて出してる訳では無いが、どうしても出てしまうのだ。
トラウマとは簡単には超えられない、超えたと思っても再発する確率は高く、これが原因となって自ら命を絶つ人すら居る程だ。灰川は顔色が悪くなり額に汗が浮かび、大卒後1年間に酷い扱いを数えきれないくらい受けたことが頭を回る。
ジャパンドリンクに関わってから何回土下座させられ頭を踏みつけられたか分からない、どれだけ「死ね!」「使えねぇヤツ」「ゴミ」と言われたか数え切れない、最悪な記憶がどんどんフラッシュバックして眩暈が酷くなって来た。
「ちょっ、灰川さん本当に大丈夫っ!? 顔が真っ青だよっ!」
「灰川さん、無理しない方が良いと思うな、体調が悪くなったから帰ったって伝えておくから」
「ありがとな市乃、空羽、こんなんでも大体の物は祓えるから大丈夫だ」
灰川はここには霊能力を頼られて来たのだ、一介の霊能者としての矜持はあるし、何もせず帰るという選択肢は取れない。それに霊能力の強さだけは凄いから、こんな状態であってもお祓いは出来る。
それに市乃たちの手前、逃げたくもない。トラウマの辛さは本人にしか分からず、人から見れば弱い奴としか見られない事が多い。周囲の人にそういう目で見られるのは耐えがたいものだ。
そんな灰川一行からは見えない影の位置から矢野は聞き耳を立てつつ、社長と副社長に電話する。この時間はどんな仕事を置いても矢野から電話があったら、そちらを優先すると言われていた。
「社長っ、副社長っ、灰川さんは○○で~~でして!」
『そ、それは本当か!? ああっ! 傘下の那須蔵倉業の過去の名簿に灰川誠二という名があるぞ!』
『社長、その会社は少し前に労働環境の劣悪さが取り沙汰されそうになった会社ですよ!』
ジャパンドリンク社長と副社長が調べると、灰川が勤めていた会社が判明した。その会社は労働環境が悪く新人イジメや職員イジメが横行し、常に人手が足りないと言ってた会社だった。
ジャパンドリンクもその会社の内情や環境は知っており、傘下企業だから特に何も咎める事も無く好きにさせてたが、前に内情が告発されそうになり揉み消した事があったのだ。それからはその会社の社長が年齢引退して環境が変わり、今は普通の会社になってる。
だが数年前にその会社から人が足りないと泣き付かれた本社の人事部が、流通を何としてでも保つため半ば騙すような形で新入社員を数名を送った事があった。元からジャパンドリンク本社で働かせるような人材じゃないから問題なしとされ、使い捨てにした被害者の一人が灰川だったのだ。
「どうすれば良いんですか社長っ! 灰川さんは当社の商品を見ただけで体調が悪くなるほど嫌悪してますよ!」
『と、とにかく何が何でも当社に好感を持ってもらうんだ! 四楓院家に知られたら銀行からは一切の取引をされなくなる!株価はストップ安になり我が社は間違いなく倒産する!』
『社長っ、ここは緊急で接待経験のある者を集めて対策会議をするべきです! 矢野企画本部長っ、どうにかして持たせてくれ!予算はどれだけ掛かっても良い!』
社内で幹部会議中だった社長と副社長が顔面蒼白になる、過去にやったツケが今になって100万倍の利子を付けて帰って来た。ここで何らかの挽回が出来なければ会社が終わる。
ジャパンドリンクが無くなれば大きな騒ぎになるだろうが、国単位で見れば大した事じゃない。今までだって大企業の倒産はあったが、別に今も平和な日々が続いてる。しかし社員や自分たちは違う、会社を無くす訳にはいかない。
悪い事をしたという気持ちもある、しかし反省は少ない。今だって灰川に対して悪い事をしたという気持ちより、なぜこんな目に遭わなければならないんだ!という気持ちの方が強い。
「あ、あれ? 灰川さんがたに近付いてく人が居ます、あれは……最近送られて来た警備員?」
『ど、どうしたっ、何かあったのかっ?』
『落とし物でもしたんでしょうか…?』
矢野の位置から見て灰川たちに近付いていく誰かが見える、それは最近に警備会社から送られて来た30代後半の警備員であった。
「おい誠治、どうしたんだ? こんな所で顔面真っ青にして」
「え…?えっ? タナカさん!? どうしてここに居るんすかっ??」
カフェの席にやって来て話し掛けてきたのはタナカだった、彼は元傭兵にして元闇霊能者、現在は国家超常対処局の実務部隊長で、戦場という地獄を見てきた男だ。
彼は現在、ジャパンドリンク株式会社に警備員として潜入任務にあたってた。




