40.
夜会のバルコニーでの会話の結果、ゴンドラン公は本当に王位継承権の返上を撤回してくれることになった。
さすがに、年齢なども鑑みて一時的な処遇にしたいということから、王太子の席は空席にするらしい。けれど、これで王位継承権第一位はゴンドラン公ということになる。
ランチェスター公爵家に降ってわいた王位継承権問題は一応は決着を迎えたことになるのだった。
(本当によかったです。根本的な問題はまだまだ残っていますが、王太子になるのと王位継承権を持つ者の一人に数えられるのとでは、雲泥の差がありますから)
そんなことを考えながら、エイヴリルは王宮内の客間に戻った。
アレクサンドラの居室近くにあるこの部屋は、エイヴリルに一時的に貸し出されているものだ。何度戻ってきても落ち着かないこの部屋の空気に、一人ため息をつく。
「ローレンス殿下とアレクサンドラ様の即位式、結婚式まであと三日ですね」
まもなく、新国王が即位して二人は玉座につくことになる。
そのため、王都は厳戒態勢の警備がしかれ、王宮への出入りも限られたものになっていた。新王妃陛下の話し相手であるエイヴリルも一週間ほど前からこの部屋に泊まり込んでいる。
ランチェスター公爵夫妻の邪魔はしないと宣言していたアレクサンドラだが、さすがの彼女でも王宮のしきたりには勝てなかったらしい。
エイヴリルは即位式の日まではこの部屋からアレクサンドラのところへ通い、式典が終わってやっと、公爵家のタウンハウスに戻ることが叶うのだった。
季節は冬の終わりかけで、日が少しずつ長くなりつつあるものの、外はすでに薄暗くなっている。この秋冬にずっと一緒だったサミュエルは、行儀見習いの期間を終えてブランドナー侯爵家へと戻ってしまった。
それとほぼ同時期に隔離されるような形でランチェスター公爵家を離れることになってしまったので、はっきりと寂しい。
(することもないですし、早く休んでしまいましょうか。そうすれば感覚的に早く三日後がくるかもしれませんし!)
そんなことを考えていたところで。
コンコンコンコン。扉を叩く音がした。
「……どなたでしょうか?」
部屋の位置から、ここにエイヴリルが泊まっていると知っているのは、公爵家から連れてきたグレイスとエイヴリルの雇い主であるアレクサンドラぐらいだ。ちなみに、グレイスはすでに自室に下がっている。何か急用でもできたのか、と扉を開けてみる。
「元気がないな。何かあったのか?」
「ディラン様!」
突然尋ねてきた夫に、エイヴリルは目を丸くする。
「今日から、私もここに泊まりなんだ。さっきまでローレンスのところに来ていたんだが、鍵を預かった。ここに行けばいると」
「まあ……来てくださってありがとうございます」
なるほど、ディランの方も式典に向けて王宮に缶詰になることになったらしい。さっきまでの萎んだ気持ちが晴れていく。見つめて微笑むと、ディランの表情も柔らかくなる。
「ディラン様、中へどうぞ」
決して広くはないが、ベッドと書き物机に加え、コンパクトな応接セットまである部屋だ。当たり前のようにディランを案内しようとすると、彼は困惑して踏み留まった。
「……さすがにそれはまずいかな」
「? あ、厳密には私のお部屋ではありませんものね。では、外でお話ししましょう。準備をしてまいります」
(式典のために王宮内で貸し出されている部屋に、私的な来客を招いてはいけないですものね。私としたことが気がつきませんでした)
外套を取るために部屋の中へ戻ろうとすると、ディランは苦笑する。
「ああ、それで頼む」
「……?」
何かおかしなことを言ったのだろうか。一般的なマナー以外に、自分の部屋にディランを招いてはいけない理由に辿り着かなかったエイヴリルは首を傾げつつ支度を整えたのだった。
すっかり日が落ちた王宮内だったが、至る所に明かりはあり、衛兵も立っている。
そんな中でディランがエイヴリルを案内したのは、静かな庭園だった。周囲を生垣に囲まれていて、密会にちょうど良さそうな場所でもある。
普段はここが王宮に出入りする人々の憩いの場になっていることは知っているが、今は最重要式典を前に王宮への人の出入りが限られているため、人気がない。
どこからともなく吹き込んだ風に刺激をうけ、うっかりくしゃみをしたエイヴリルを見て、ディランは妻の肩に自分の外套をかけた。
「寒いか? やはり戻ろうか」
「大丈夫です。私も自分の外套を着ていますし、これではディラン様がお風邪を引いてしまいますので、こちらはお返しします」
「これぐらいはさせてくれ」
そう言ってディランは一歩前に出た。
これ以上は聞く気がないという強い意志を感じるとともに、苦笑しつつ告げられる言葉には優しさが滲んでいる。流行病はすっかり収まっているため、薄着をしたぐらいでは体調を崩すことはないという自負があるのだろう。
幼い頃から冷遇されてきたエイヴリルは、誰かから特別に大切に扱われることに慣れていない。頭ではわかっていても、当たり前に与えられるくすぐったさに、とても不思議な気分になってしまう。ふわふわとした気持ちに包まれて、どうしようもなかった。
エイヴリルは迷った末、夫の好意に甘えることにする。
「……ありがとうございます。ではもしディラン様が風邪を引いたら、私に看病をさせてくださいね」
「幸せな申し出だが、それはどうかな」
「えっ⁉︎」
まさか断られるとは思っていなかったので、はっきりショックを受けた。驚愕に打ち震えながら、エイヴリルは問いかける。
「なぜでしょうか……? 私がお邪魔……?」
つい今までの優しさには全くそぐわない答えに困惑しかない。けれど、ディランは何でもないことのように笑う。
「俺がエイヴリルに風邪をうつしたら、せっかくタウンハウスに戻ってきても一緒に過ごせないだろう。例の恋愛小説で学んだこともまだ実践してもらっていないしな」
「それはそうですよね……って、ええっ⁉︎」
「『溺愛花嫁は眠れない』『愛されすぎて困ってます』、だったか」
ディランに相応しくないとんでもないタイトルが彼の口からさらさらと出てくるので、エイヴリルは自分の耳を疑った。
「⁉︎ 一度しか見ていないはずなのに、どうして覚えているのでしょうか!」
「エイヴリルには及ばないが、俺も記憶力は悪い方ではないんだ」
「せっかくの頭脳を、余計なことに使わないでください……!」
ぷるぷると震えながら返せば、ディランはくつくつと笑っている。そこまで笑わなくてもいいのではないか。
そもそも、エイヴリルにとっては今はそれどころではないのだ。今問題なのは『まだ実践してもらっていない』のほうである。
(ど、どどどどういう意味でしょうか)
少しはわかる気がするが、その答えを想像するだけで顔から火が出そうだ。涙目になったエイヴリルは夫と見つめ合う。エイヴリルの瞳を覗き込んだディランは、すぐに罪悪感を滲ませた。
「悪い。揶揄いすぎた、すまな――」
そこで、覚えのある声がした。
「あれ。エイヴリル嬢。これから君のところへ遊びに行こうと思っていたんだけどな」
ディランから視線を移すと、これまた覚えのある顔があった。なぜ彼がこんなところにいるのだろうか。はっきりと邪魔である。




