38.
最初に名乗ってみたものの、彼は名前を教えてくれなかった。
となると、夜会慣れしていないか、事情があり、あまり名乗りたくないかのどちらかだろう。しかし、この紳士の振る舞いから察するに、前者の線はまずない。
(人を外見で判断するのはよくありませんが、ご年齢もあり、積極的に社交をしないといけない貴族の方ではなさそうです。ただ、身分を明かさずに会話を楽しみたいだけなのかもしれませんね)
それならば、彼が自分の身元につながる情報を会話に出さないことも頷ける。納得したエイヴリルは警戒を解いた。慣れた悪女になるべく、にっこりと笑う。
「ふふふ。かわいいしもべでしょう」
すかさず、サミュエルがはきはきと続ける。
「僕はエイヴリル様のしもべです。今日も詩の暗唱をさせられました。退屈です」
この会話は、もし悪女として振る舞わないといけなくなった場合に備えて練習してきたものだ。
練習の際、サミュエルは「退屈、と言い切っていいのでしょうか?」と困惑していたが、エイヴリルは自信を持って「大丈夫です。私の義妹は隣国の王妹殿下を夢中にさせるほどの悪女でしたが、詩の暗唱は大嫌いでしたから!」と答えるばかりだった。
ちなみに、少し離れた場所ではクリスが見守ってくれている。今日はサミュエルがエスコート役を務めてくれているのだが、不測の事態に備えてディランは自分の側近をエイヴリルにつけていた。
さっきのフェルナンとの挨拶のときも、会話が世間話で終わらずにエスカレートしていれば、間に入ってくれていたことだろう。練習通りの連携を披露して見せた二人に、紳士はさらに笑った。
「ははは。これはいい。噂通りの悪女だ」
「お褒めの言葉、ありがとう存じます」
期待通りの振る舞いができたようだ。満足感でいっぱいなったエイヴリルだったが、同じように目を細めた紳士の表情とともに話題が切り替わる。
「君は、王宮に出仕してアレクサンドラ・リンドバーグ嬢の話し相手を務めているね? 次期王妃陛下をどう見ているのかな」
「次期王妃陛下への印象……」
(まさか、こんなことを聞かれるとは思いませんでした)
エイヴリルがアレクサンドラの話し相手になっていることはすでによく知られた話だ。だからその部分については何も問題がないのだが、アレクサンドラへの個人的な印象を聞かれるのは想定外である。
しかも、この紳士の口振りでは「お優しい」「国母となるのにふさわしいお方」という類のよくある褒め言葉は求めていない気がする。エイヴリルは困惑するばかりだ。
(この方が誰なのかわからない以上、次期王妃陛下のプライベートを明かしてはいけません。けれど、表面的ではないお答え……)
数秒考えた後に、エイヴリルは口をひらく。
「アレクサンドラ様とは、実は幼い頃にお世話になった家庭教師の先生が同じ方でして」
「ほう」
目を丸くする紳士に、エイヴリルは続ける。
「その頃から現在までご縁があることをありがたく思うほどに、慈悲深いお方です。先日も、とあるお茶会で予定にない方の参加があったのですが、アレクサンドラ様なりの方法で作法をお伝えしていらっしゃいました。堅物だと言われているのが信じられないほど、お優しく周囲のことをお考えになるお方です。お噂通り、ブランヴィル王国きっての聡明な方であらせられます」
「……そうですか」
紳士はにっこりと微笑んだ。威厳を感じられる雰囲気。笑うと目元と口元に皺が刻まれて、ますます貫禄が出た。そうして話題を続ける。
「私には、嫁いだ娘が生んだ孫娘がいるんですよ。名前をマルティナと言ってね」
「マルティナ」
社交モードで澄ましていたエイヴリルは、思わず復唱した。
その瞬間に、不自然に露出が多いドレスを身につけ、赤い口紅を引き、太めのアイラインが目尻からはみ出している令嬢の姿が思い浮かんだ。
アレクサンドラとの茶会に割り込んできて、それなのにびくびくと怯えていた、あの彼女と同じ名前ではないか。
(いえ、まさかそんなはずはありません)
気を取り直して顔を上げると、紳士はさらに話を続ける。
「先日、アレクサンドラ嬢のお茶会に招かれたらしいんだ。悪女と噂のランチェスター公爵夫人も一緒だったと」
「あっ……あっ⁉︎」
エイヴリルは撃沈した。
招いた招いていないの違いはあるが、これはもう間違いなくあのマルティナの話だ。となると、この紳士はランチェスター公爵家に不埒な手段で近づきたい家の者なのだろうか。
すっかり油断して会話を楽しんでいたのだが、そんな場合でなかったようである。けれど、それらを踏まえた上で、エイヴリルはどうしてもこの紳士に伝えたい。
「いろいろと申し上げたいことはあるのですが、マルティナ様は……その、悪女に向いていないのではと……」
「……あはははは!」
紳士は急に笑い出す。
「はははっ。あはははは。そうか、そうだね。向いていない。私もそう思っていたんだよ」
ただの爆笑では足りなかったようで、紳士はバルコニーの手すりに突っ伏して笑い始めてしまった。全身を震わせている。
あまりにもツボにハマってしまったようで、なかなか笑いは止まらず、そのうえ目には涙を浮かべているようだ。声をかけられたときから朗らかな人だと思ってはいたが、夜会でここまでの大爆笑を見られるとは驚きだった。
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