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ディランからの忠告があるため、完全に警戒を解くことはないのだが、会った瞬間に逃げ出す必要はない相手だと思うようにはなってきた。もちろん、彼が次期ブランドナー侯爵だという事情も込みの上でもあるのだが。
「エイヴリル嬢、夜会は楽しまれていますか?」
現実のフェルナンは、親しげに話しかけてくる。
エイヴリルはどう接するか迷ったものの、やはり周囲から誤解を受けては良くないと、警戒の意味を込めて社交用の笑みを浮かべた。
「ランチェスター公爵夫人、です。そして私は既婚者ですわ。娘ではございません」
はっきりと告げると、フェルナンは心底楽しそうに笑う。
「あはは。そんな顔をされても、全然怖くないな」
「フェルナン・ブランドナー様、ご機嫌麗しく存じます」
「フェルナンでいいのに。そんな堅苦しい挨拶もいらないよ」
またしても距離のない接し方である。いい人だと思ったのはやっぱり自分の気の迷いで間違いだったようだ。
「兄上……いい加減になさってくださいませ」
エイヴリルのエスコートを務めるサミュエルが、兄に向けて警戒感を全開にしたところで、フェルナンの後ろから一人の令嬢が現れた。
「フェルナン様、この方はどなたですの?」
鈴を転がすような声。それは、かわいらしい印象の令嬢だった。
まるで小動物のような愛らしい丸い目が魅力的な彼女は、結い上げた茶色い髪にフェルナンの瞳の色と同じ濃い紫色の髪飾りをつけている。
過剰に肌を見せない清楚な装いは、高貴な家の令嬢が正式な場で身につけるのにふさわしいものだ。身につけた宝飾品も一級品かつ下品ではない。
まるで絵に描いたような高貴な令嬢の姿に、一目で彼女がフェルナンの婚約者だとわかる。エイヴリルは淑女の礼をした。
「エイヴリル・ランチェスターと申します。どうぞお見知り置きくださいませ」
「……ランチェスター? って?」
こちらを値踏みするような居心地の悪い視線が向けられた。
その後すぐに家名に気がつき、ディランのことを思い浮かべたらしい彼女に、すかさずフェルナンがにっこりとよそ行きの笑みを浮かべる。
「この人はただの王宮勤めの女官だよ。あなたが気に留めるようなことはない」
「ふーん。随分仲が良さそうですわね」
「そんなことないよ。王宮で会う友人の一人。ね?」
「だって、フェルナン様、王宮で会う女官を紹介してくれたのは初めてじゃないですか? いつも私が会うような相手ではないと言って遠ざけるんだもの」
彼女は不機嫌そうに顔を顰める。どうやら、普段から婚約者の遊び人振りは把握しているものの、コントロールができず不満を感じている状態のようだ。
(王宮勤めの女官の皆様は、フェルナン様の婚約者様がお出ましになるお茶会や夜会には出ませんものね。紹介したことがないのは納得です)
そのせいで、どうやらエイヴリルが彼女の不満を一身に受けることになりそうだ。彼女の心情を思えば仕方がないことではあるが、少し理不尽な気もする。
遠い目をしていると、彼女はエイヴリルとフェルナンを交互に見た後、ぷいっと外方を向いた。
「ねえ、フェルナン様、あちらに伯爵夫人がいるわ。ご挨拶に行きましょうよ」
彼女は名乗ることなくこの場を去ることにしたようだ。社交での礼儀よりも自分の感情を優先してしまう令嬢に内心苦笑しつつ、気持ちは理解できるエイヴリルは膝を折った。
「では、これにて失礼いたします」
「ああ。……じゃあ、またね」
フェルナンはこちらに向けてひらひらと手を振ると、婚約者に引っ張られて行ってしまったのだった。
社交の場での挨拶というには不十分すぎる邂逅に、取り残されたエイヴリルは呆気に取られるばかりだ。
「今のは、キトリー・ボードレール様でしょうか?」
フェルナンの婚約者のことなどまるで知らないが、ブランドナー侯爵家の嫡男と婚約しても遜色ない家柄、かつ年頃の令嬢を脳内でピックアップし、今見た情報と照合させたエイヴリルは首を傾げた。
ボートレール家は侯爵家ではあるものの、元を辿ると異国の貴族に辿り着き、今でも関わりが深いという異色のルーツを持つ。そのため、社交界で地位はそこまで高くない。
。
けれど、今の当主は相当なやり手だという話は聞いたことがあった。
(子女を異国の王族に嫁がせて関係を築くことを目論んでいて、幼い頃から異国での英才教育に熱心だという話を聞いたことがあります)
一緒に呆気に取られていたサミュエルが頷く。
「そうです。兄上の婚約者は少し問題があるんですよね。エイヴリル様がランチェスター公爵夫人だと紹介せず、また失礼な振る舞いをするキトリー嬢のことは名前すら出さなかったのは、あまり関わらせたくない――そういう理由もあるのかと」
「なるほど。フェルナン様、最初は酷い方だと思いましたが、接してみると良い方ですね?」
「それは、エイヴリル様のお人柄のせいで兄が変わったというのも理由の一つだとは思いますが……そして、キトリー嬢も悪女という部類の方だと思います。ただ、僕の中での悪女の基準には達しないのですが」
かわいい顔で真剣に教えてくれるサミュエルに、エイヴリルはうんうんと頷く。
「サミュエル基準というと、一国を滅ぼせる傾国の悪女ですね。それはコリンナでもちょっと厳しいですね」
「エイヴリル様も本気になったらいい線は行くと思います」
「まあ」
緊張感のない二人の会話が続くのだった。




