31.
腕の中の恋愛小説をぎゅっと抱きしめる。
目を泳がせるエイヴリルの隣、兄と女官の姿をじっと見つめていたサミュエルが、呆れたように子供らしからぬため息を吐いた。
「兄上、王宮はお仕事の場所と伺っております。あまりにも奔放すぎるとまたお父様に叱られますよ」
「ははは。父上にはバレない女を選んでいるから大丈夫だよ」
「お兄様は本当に……」
サミュエルの諦めたような視線。どうやら、これはいつものことらしい。サミュエルが兄のことを「プレイボーイ」と紹介していたのも納得である。
(フェルナン様、ディラン様への私怨から私に変わった付き纏いをなさったのかと思いましたが、女性と親密な距離で接するのは日常のことのようです……!)
アレクサンドラとの約束もあるし、早くこの場を失礼しよう、とエイヴリルは礼をした。
「ではこれにて失礼いたします」
「君がアレクサンドラ嬢――いや、次期王妃陛下の話し相手として登城しているのは一時的なもの? それとも正式に選ばれたのかな」
歩き出そうと思ったのに、止められてしまった。フェルナンの話し方はものすごく軽いのに、その声音には真剣さが滲んでいる。エイヴリルはわざと首を傾げた。
「わかりません。それは次期王妃陛下に伺ってみませんと」
「そっか。アレクサンドラ嬢って、見た目は華やかだけど、中身はすごく堅物なんだよね。自分が認めた人間しか側に置かないし、そもそも滅多に人を認めないというか」
苦笑しつつ告げてくる姿は、こちらを値踏みしているようだ。
駆けだしたものの、誰も追いかけてこないことを不思議に思ったらしいブルーが戻ってきて、エイヴリルの足元にじゃれついている。
それに目を留めたフェルナンはさらりとした笑みを浮かべたまましゃがみ込み、ブルーを抱き上げようと手を伸ばした。けれど、ブルーはその手を一瞥すると、不機嫌そうに「ぷい」とそっぽを向いた。フェルナンは苦笑する。
「あれ。嫌われているみたいだな」
「お兄様は動物に嫌われますよね」
「ははは。サミュエル、言うようになったな」
ブルーに振られたフェルナンは苦笑しつつ立ち上がる。それから、エイヴリルに向かって微笑んだ。
「あのアレクサンドラ嬢が本気で君を話し相手に選んだのなら、さらに興味が湧いてくるな。だって、君は悪女なのにディラン・ランチェスターを虜にし、堅物アレクサンドラ・リンドバーグに認められた女性ということになるだろう?」
「次期王妃陛下にはよくしていただいています。ですが、認められたことにはならないかと。こんなふうに、本を貸し借りするただの友人かもしれませんわ」
込み入った話をする親密な友人だと伝えようと、抱えていた恋愛小説を見せる。すると、フェルナンは涼しげだった表情をぎょっとしたものに変えた。
「これ、アレクサンドラ様が君に……?」
「ええ。秘蔵の御本をお借りしましたの」
澄まして伝えると、フェルナンはますます目を丸くした。
「いや、これ初心者向けの……」
「はい?」
「ううん、何でもない」
何かを言いかけたフェルナンに問い返してみたものの、彼ははぐらかすように意味深な笑みを浮かべている。にこやかで敵意は感じないが、なぜ笑っているのかは何も教えてくれない。
音楽祭のときにも思ったが、フェルナンの距離の詰めかたはエイヴリルがこれまでの人生で経験してこなかった類のものだ。やはり、ディランが気にしていた通り、警戒するに値する人物なのだろう。
(これ以上関わらない方がよさそうですね)
「フェルナン・ブランドナー様。これで失礼いたします。サミュエル、行きましょう!」
「はい。エイヴリル様がお兄様と関わると碌なことにならなそうですから」
「ええ……!」
「あれ、もう行っちゃうのかな」
エイヴリルはフェルナンが呼び止めるのも聞かず、そのままほぼ小走りでフェルナンの前から逃げ出したのだった。
思わぬ障害を乗り越えたエイヴリルは、やっとのことでアレクサンドラとの約束をした中庭へと辿り着いた。
「アレクサンドラ様、もう到着されていたのですね! 遅くなりまして申し訳ありませ……」
そこまで口にしたところで、エイヴリルは首を傾げた。今日はアレクサンドラと二人でお茶をするはずだったのだが、ほかに見知らぬ令嬢がいるのだ。
ガゼボに設置された席について待っていたアレクサンドラは、困ったようにため息を吐く。
「エイヴリル様、来てくださってありがとう。ごめんなさいね、この方から急に押しかけられてしまったの」
アレクサンドラの視線の先には、初めて会う令嬢がいた。華やかな外見をした彼女は、なぜかエイヴリルの方を好戦的に見つめてくる。
このような非公式かつごく内輪のお茶会では、当日急にメンバーが変わることは珍しくない。アレクサンドラの不満そうな言い方に違和感を持ったものの、エイヴリルは令嬢に挨拶をした。
「エイヴリル・ランチェスターですわ。アレクサンドラ様の話し相手を務めております。どうぞお見知りおきくださいませ」
一方、押しかけたという令嬢はアレクサンドラから明らかに「邪魔だ」と言われてしまったにもかかわらず、挫けることはなかった。
「初めまして、ランチェスター公爵夫人」
自己紹介をしてくる。そうして、予定外のお茶会が始まったのだった。




