23.旦那さまとの密会と報告
その日の夜。お茶会で決意した通り、エイヴリルはディランの部屋をこそこそ訪れる用意をしていた。
悪女らしくない地味な服に着替え、部屋の扉を開け、キョロキョロと廊下を見回す。誰もいない。
(問題ないですね!)
安全を確認してから、たたたっと階段を駆け上がる。
ディランの客間はエイヴリルに与えられている客間と同じ棟にあるものの、階が違うため、行き来すると目立ってしまう。だから当初は夫婦であることを隠すため、ディランと二人で会うのは難しいだろうと覚悟はしていた。
しかし、エミーリアの『エイヴリルの恋人は三人宣言』により状況はだいぶ変わった。あの時は申し訳なくて青くなったが、結果オーライだったのかもしれない。
(ディラン様も悪女である私の恋人ということになっていますので、誰かに見られても大丈夫です。が、今廊下には誰もいませんね!)
夜はすっかり深まっていて、まもなく日付が変わろうという時間帯。エイヴリルは無事にディランの部屋の扉を叩くことができた。
コンコンコンコン。
ノックの後、ディランが顔を覗かせる。
「誰だ――って、エイヴリル⁉︎」
「ディラン様、こんばんは。少しお話がありまして」
「とにかく、入って」
驚きの表情を浮かべたディランはスッとエイヴリルを部屋の中に引き込み、周囲を警戒するように扉の外の廊下を覗く。そして、誰もいないことを確認してから扉をゆっくりと閉めた。
ギッという扉の音が、夜の王宮に響く。
「――驚いた。急にどうしたんだ?」
「あの、今日のお茶会でのお話が気になりまして」
切り出せば、ディランはすぐにそうか、という顔をする。
「ああ、鉱山の再開発権を正攻法で手に入れることが難しそうな件か?」
「! ええと、それもそうなのですが」
確かにそのことも気にはなっていたのだが、わざわざこんな遅い時間に一人で来たのは、仕事の話をしたいからではなかった。かと言って、「三番目の愛人扱いをして申し訳ありません」と夫に対してデリカシーのない謝罪をしたいわけでもない。
(厳密に言うと、私はディラン様に謝りたいわけでも、せっかくディラン様がフォローしてくださった三番目の愛人の話を蒸し返したいわけでもないのです)
一方のディランは、エイヴリルが何か特別な用事があってやってきたと思っているようだ。
心底心配そうにこちらを見ているディランは、夫の顔ではなく特使の顔をしている。それはそうだ。今は大事な任務中なのだから。
けれど、エイヴリルにはちょうどいい言葉が見つからない。もちろん、自分はたくさんの言葉を知っている。だがそのどれも、しっくりこないのだ。ということで、困り果てたエイヴリルの口からは、本音がそのまま滑り出る。
「会いたくなって、来てしまいました」
「……⁉︎」
つい一秒前まで真剣に心配そうな顔をしていたディランの碧い瞳がわかりやすく動揺して見えた。どうやら、言葉選びを間違えてしまったらしい。
ディランの表情を見て、この言葉には特別な意味がありすぎるのだろうと推測する。うっかり勢いで口にしたことが、急に恥ずかしくなってしまった。
「あっ……⁉︎ 申し訳ありません。夜も遅いですし、お部屋に戻らせていただきます。ではごきげん」
エイヴリルが「ごきげんよう」と挨拶をして慌てて扉に手をかけようとしたところで、ディランは扉を押さえてそれを引き留める。
「待ってくれ」
図らずも後ろから抱きしめられるような形になってしまえば、静かな部屋に、自分の心臓の音が響く。
(ローレンス殿下の命を受けて、はりきってここを訪問しているのは私なのに……うっかりこんな言動をとってしまった私に、ディラン様は呆れているかもしれませんね)
こんなに軽率な言動を取るようでは、悪女失格である。
どうしようと迷った末に恐る恐る後ろを見上げると、ディランが苦笑しているのが見えた。けれど、それは呆れているというよりは困ったような優しい笑みだった。
さっきまでの緊張感も忘れて首を傾げると、ディランはエイヴリルの髪に触れ、耳にかける。
「以前の船旅でも似たようなことがあったな。あの時も、自分を抑えるのに大変だった」
「?」
「君は、本当に悪女のようだな」
「あく――?」
全然悪女の振る舞いをしていないうえに、悪女としては失敗してしまったと反省したばかりのエイヴリルには意味がわからない。
けれど、ディランの碧い瞳がふいに近づく。反射的に目を閉じると、優しく口付けられた。いつもより少し長いキスに、呼吸が苦しくなる。
「ディラン、様……?」
驚いているエイヴリルに、ディランはまたそっと唇を重ねる。
数秒の後。
「すまない」
エイヴリルが驚いていることを知っていたらしいディランが、謝罪の言葉を口にする。それにエイヴリルが応じる前に、続く言葉が紡がれる。
「でも、なかなか触れられない恋人がこんなにかわいいことを言ってくれたんだ。放せるはずがないだろう」
「!」
自分を恋人とするディランの言葉は、昼間のエミーリアの発言を踏まえてのものだろう。申し訳ないことをした自覚があるエイヴリルは、ただ赤くなるばかりで何も言えなかった。
(ディラン様が、こんなに甘いことをおっしゃるなんて……!)
とんでもなく恥ずかしいが、とんでもなく幸せな気もする。そして、自分を見下ろしてくる碧い瞳に、いつもと違う焦りのようなものが見える気がした。
背中を抱きしめている手が髪に伸び、愛おしむような仕草で梳かれているのがわかる。ふとなぜか、結婚式の日の夜に眠ってしまったときのことを思い出してしまう。
もし、自分が熱を出していなかったら、あの日、ディランはこうして自分を抱きしめてくれたのだろうか。
――その機会がなかったことが、ほんの少し、残念な気がした。
けれど、二人の甘い時間は長くは続かない。
ハッと、もう一つの用事を思い出したエイヴリルは、ディランの腕の中で顔を上げる。
(そうでした。今日はもう一つ、お仕事と関係のない大切な話があったのです)
実は、エイヴリルがこうしてディランの部屋を訪れたのは、ただ謝罪や弁解や寂しさを伝えるためだけではなかった。エミーリアの部屋で『家庭教師』として紹介された婦人の話をしたくて来たのである。
「実は、もう一つ大事なお話が」
「何だ?」
「今日、エミーリア殿下のご紹介でブランヴィル王国からクラウトン王国を訪問されているご婦人にお会いしました」
「!」
ディランもその人物のことは気になっていたのだろう。さっきまで甘い時間を過ごしていたとは思えないほどに、すぐに顔色が切り替わる。
(それはそうでしょう。だって、その方のお名前は)
ディランが期待――あるいは危惧していることに触れることになって、エイヴリルの言葉はためらいがちになる。
「ブランヴィル王国からのお客様の名前は――アナスタシア・タウンゼンド様でした」
「……⁉︎」
自分を抱きしめていたディランの腕が硬直し、目が驚きで見開かれる。
それは、ディランの母その人の名前だったからだ。




