29.婚約者は不在②(ディラン視点)
クリスの言葉で、ディランは足早に船室を出る。ふかふかの絨毯が敷かれた階段を下りていくと、船員が管理する柵の前までたどり着いた。普段は行き来できない一等と二等の区域を隔てる場所である。
「何かご用でしょうか。この先にはあなた様が楽しめるようなものは何もないかと存じますが」
「子猫が迷い込んだんだ。探したいので通してほしい」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
「こっ……子猫ですか」
隣を見なくても、クリスが笑いを堪えているのがわかる。
「……なんだ」
「いいえ。新婚旅行中のご夫婦として素晴らしい比喩かと」
うるさい、と告げるのと同時に、柵が開いて中に案内される。木の床に変わった階段を降りるとすぐに、賑やかな歌声が聞こえてきた。
ちょうどそこは食堂で、広いスペースになっている。カジュアルな雰囲気と、オルガンの音に満たされたそこは上階のパーティーとは別世界だった。
「本当にここにいるのだろうか」
「この食堂は十分な広さはありますが、上のメインダイニングほどではありません。もし子猫な奥様がいらっしゃればすぐに見つかるだろう」
「そうだな。……って、待て」
あるものを見つけたディランは、動き出そうとしたクリスの肩をがしりと掴んだ。視線の先には縦ロールぎみなプラチナブロンドを揺らし、楽しげに踊る女性の姿があったからだ。
それは、ランチェスター公爵家にいたときと何も変わらないテレーザの姿だった。
ディランの視線を追ったクリスは呆れたようにため息をつく。
「彼女、変装もしていませんね……」
「ああ……。テレーザがここにいるということは、エイヴリルはここにいないのだろう。では一体どこへ行ってしまったのか」
テレーザを捕まえるのはこの船に乗った目的だったはずだが、エイヴリルが行方不明になってしまった今はそちらの方が心配である。つまり、とっととテレーザを捕獲して次に移るべきだろう。
ディランとクリスは数人の同行者に出口を塞ぐように合図を送ってから、テレーザに近寄って声をかけた。
「テレーザ・パンネッラ。こちらに来てもらおう」
「!? あなたは……えっ、どうしてここにいるの!?」
「ランチェスター公爵家の当主として迎えに来た。警察も待機している」
「私、何もしていないわ」
「悪いが、逃げた後で証拠は全部揃えたんだ。走って逃げた上に、言い逃れまでされたら大変だからな」
ディランはそう告げると、テレーザの手首に手錠をはめた。
「なんっ……どうしてこんなものを持ってるのよ!?」
「縄だと器用に抜け出す令嬢がいるからな」
「はぁ?」
「お前のことではないがな」
「あっ……当たり前でしょう?」
公爵家にいたころからは想像がつかない様子で悪態をつくテレーザに、ディランはため息をついた。
「それでお前はいつからここにいる? 妻を見なかったか」
「妻って、あの無垢なお嬢様? いなくなっちゃったの? でも知らないわ」
「……なるほど、質問を変える。お前はこの船が出航するまでどこにいた?」
「どこって、船室よ」
「乗船名簿を見たが名前がなかった。偽名を使ったのか? どの部屋だ」
「…………」
途端にテレーザは黙ってしまった。喋りたくないことがあるのだろう。けれど、ディランはエイヴリルには優しいが、他の女性に対してはあまりそうではない。相手が犯罪者なら尚更である。
ということでディランは連れてきた、従者に扮した数人の警官たちにテレーザを引き渡す。
「……連れて行け。吐かせろ」
「!? ちょっと痛いわ! 離して!」
「黙れ」
「君たち、私の連れに何をしているのかな」
暴れ出したテレーザにうんざりしていると、颯爽と見覚えのある金髪のくるくる頭の男が現れた。仮面舞踏会の日、エイヴリルとチェスに興じ、勝負に負けたため顔を見せていた『コリンナの元カレ』である。
――なるほど、あの仮面舞踏会にいた面々は大体がトマスの“商い”の客だったらしい。つまり、皆がこの麻薬取引に関わっているのだろう。
もともと、テレーザを見つけられなかったときのために保険として次の港で下船客をくまなく調べる予定ではいた。けれど、探して捕らえる必要があるのはテレーザだけではないらしい。
しかし、ランチェスター公爵の権限が及ばないこの船内では捕らえるのはテレーザが精一杯である。
そう理解したディランは、目の前のくるくる頭の男を無視し、通信士を通じてローレンスに連絡を取ることにしたのだった。




