186. 懺悔
今日もディオネは曇り空。真っ白な雪が降り積もり、外套を風に乗った六花が叩く。この曇天と寒気が心地よい。
雲の切れ目から射した陽光が眩しく、思わずアルスは瞳を細める。ソレイユで起こった厄滅など知る由もなく、今日も街中は安寧に包まれていた。
昼下がり、彼は行くあてもなく街を歩いていた。ふと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。気流の元をたどってみると、赤褐色の屋根を持つ建物が見えてきた。
幼少期、父と共によく訪れていたレストラン。足を止めて無意識のうちにドアを開いていた。
「いらっしゃいませ!」
店員に案内されるがままに席へと座り、窓の外を眺める。
奇遇にもあの日と同じ席だった。アテルと出会い、彼が共鳴者として歩み始めたあの日。かつてと違う点があるとすれば、向かい側の席に誰も座っていないということか。
「何を注文しようか……」
立てかけられたメニューを手に取り、色とりどりの料理に視線をめぐらせる。
齢にしておよそ三百のアルスは、もうお子様ランチを頼むような年齢ではない。しばし悩み抜いた末、カレーライスを注文。
何も変わらず、時だけが過ぎていく。
変わるのは人の在り方だけ。アルスは寂寞の中で停滞した時の流れを感じ取った。しかし、これから先の未来は劇的に変わっていくのだろう。世界から因果は消え、やがては魔物も完全に消滅するのだから。人の世はますます拡大し、大きな変化を迎える。
ただ一つ、変わっていない者があるとすれば。
未だに因果に囚われている者がいるとすれば。
それは、
「…………」
他ならぬアルス自身だ。
共鳴者として背負った混沌の力、災厄として背負った秩序の力、その二つを織り交ぜて手に入れた救済の力。異世界の存在である彼からは、まだ因果は消滅していない。
もしもアルスから因果が消えるとすれば、それはかつて滅んだ故郷の世界線が消えた時だ。
いま立つこの世界は、アルスの故郷ではない。あくまで彼の故郷に似た世界に、アルスというテクスチャを張り付けただけの代物。
失った家族や友の命も、レーシャとの愛も、取り戻せたわけではなかった。
「おまたせしました」
テーブルに料理が運ばれてくる。
おいしそうなカレーライスだ。しかしアルスは目の前の食事を口にする気にはなれなかった。注文はしてみたものの、とある事実を確かめたかっただけなのだ。
一息ついて彼は銀のスプーンで料理をすくい、口へと運ぶ。
「……おいしいな」
味はしなかった。
もう彼の身体は食事という概念を忘れ、味という概念すらも捨て去った。数々の過酷、艱難辛苦に耐え抜くにはそのように進化するしかなかったのだ。心を押し殺し、人間性を捨てて、人が当たり前に享受できる幸福を忘れなければならなかった。
もしも彼が人へ戻れるとしたら──
「……明日、墓参りに行こう」
明日の予定をなんとなく決めて、料理を食べ終えた。
~・~・~
翌日。マリーは仕事だと言うので、アルスは一人で墓参りへ行くことにした。
母が育てていたアキャリーとミエーネルを花束にして、父の騎士剣はマリーが継いでいるから持ってこれなかったけれど。
「久しぶり……お父さん、お母さん。元気にしてた? 僕はなんだかんだで元気だよ」
献花しつつ彼は墓前に語りかける。
少し墓標が汚れているので磨かなくては。
「マリーは最近、すごく忙しいみたいだ。騎士として立派にお父さんの後を継いで、霓天としての役目を果たしている。僕はまあ……うん。お母さんの優しさを継げたんじゃないかな?」
傍から見れば、今のアルスは何をしているのか分からない。
自分でも分かっていない。厄滅を超えて世界は救われた。もはや神など不要とも言える世界……リンヴァルス神も用済みだ。
最後に役目が一つだけ残っているものの、それはまだ先伸ばしにできる話。
「でも、僕もすごくがんばったんだ。鳴帝と呼ばれて、リンヴァルス神と呼ばれて……正直自分には荷が重かったよ。重すぎる運命を背負わされて、どうして僕がこんな役目を果たさなきゃいけないのかって……何度も吐きそうになった。でも、自分にしかできないことだっていうのも分かってたから……平気なフリをして取り繕ってきたよ。……ああ、辛いなあ。僕はただの「アルス」でよかったんだ。
こんな告解、息子じゃない僕にされても困るかもしれないけど」
自分が世界にとっての異物であることなど、とっくに自覚していた。
彼はこの世界における「アルス」の役割の簒奪者に過ぎないのだ。彼は「イージア」のままで役目を終えるのが正解だったのかもしれない。
「でも……本音を吐き出せる場所がここしかないから。誰も聞いていない、この場所で。僕は初めて自分を否定できる」
いつしかアルスという異質テクスチャは剥がされねばならない。世界から自分が消えることで、彼は最大の自己救済を迎える。
……本音を言えば、この世界に生きることが辛くなってきたのだ。滅ぼされた故郷を忘れて幸福を享受することが気持ち悪い。自分もまた滅ぶべきなのだという固定観念が横たわっていた。
「……あ、そうだ。ヤコウさんもお酒持ってきましたよ」
両親の墓の隣に立つ、ヤコウの墓。
彼は取り出した酒を墓へ垂れ流す。生前にヤコウが好きだった酒だ。
「みんな、あの世で仲良くしててね。僕もすぐに追いつくから」
彼の言葉は、眼前の墓だけに向けられたものではなかった。
彼の魂で眠る家族へ、友へ。己が手で殺したマリーへ、己を庇って死んだアリキソンへ、世界の人々へ向けた言葉だ。
「……ごめんね。もう少しだけ、役目を終えるまで待っていてくれ」




