184. かくして神話は幕を閉じ
舞い降りた彼女を見た刹那、私は懐かしい心地に酔った。
同時に恐ろしくもあったのだ。
──彼女はすべてを終わらせるのだと。
『アテル? なにゆえお前が此処に降りた? お前はただ盤面を見守っているがよい。何もできぬ無能、心なき機構よ』
ルミナはそう誹る。
だが知るまい。彼女に心があることを。
もう盤上世界にルールなどないに等しい。
だから、
『…………もう壊すのはやめて欲しい。ルミナ、君がこの世界を壊すのならば……きっと私は、君を壊す決意をしてしまう』
『は……? 何を言うか? お前が意見をするな、語るな。この盤上世界は我が身とお前の箱庭。我らが意志が因果そのものであり、均衡を崩すことは許されない。分かっているだろう?』
『是。私か君、どちらかが壊れればそれでおしまい。混沌と秩序、どちらかの因果が崩れれば世界は存立できなくなる。主である我らの終わり……それは即ち、世界が盤面ではなくなることを意味する』
二つの主は数千年にわたり、この世界の因果を司っていた。
人や神々が属する混沌の因果、魔物や災厄が属する秩序の因果。互いに相克の運命を背負い、これまでも……これからも争い続けるのだと思われた。
しかし、私が思うに……アテルは終わらせる気ではないだろうか。
彼女には心がある。もしも私が彼女と同じ立場であれば、きっと耐えられない。どうして争い続ける生命を見続けなければならないのか。
私とアテルは似通った魂の性質を持っている。幼少から過ごしていた灰の砂漠で彼女の片鱗に触れ、同じ心の形を持っていることは分かっていた。
『その通りだ。お前の駒は、我が身の駒に敗北を喫した。為すすべなく闇に呑まれ消えていく。ああ、多少のルール違反はあったが……まあ、見逃してくれ? もはやお前もノアも我が身を封印することも、罰を与えることもできぬのだからな』
『──否定する。私は……君に死んでもらおうと思うんだ』
ああ、やはり。
『何を、言っている……? 我が身が死すれば世界は消える。当然の摂理であろう? 機構に狂いでも生じたか?』
『君だけを犠牲にはしない。私も一緒だ。我、創世主アテルトキアは──ここに創世主の終焉を宣言する。創世と壊世は表裏一体、私が権限を放棄すれば君の権限も失われる。壊世主でなくなれば、君が死んでも世界は崩壊しないから』
隣に立つノアが目を見開いた。
きっと予想もしていなかったのだろう。なぜなら、アテルの言の葉が意味することは……
『正気か!? アテル、そんなことをすれば……分かっているのか!?』
『分かっているとも。盤上世界はただの世界に生まれ変わる。混沌と秩序という概念が消え、すべての争いが終わるだろう』
『違う! 争いは激化するぞ!? 我らの意志、因果によって盤面は常に継続するように守られてきた! 災厄も神々の発生も、すべてが世界継続のための歯車だ! 因果が消滅すれば、人類はあと三千年と持たずに滅ぶに決まっている!
我が身はただ……無為な争いが疎いだけだッ!』
『君が今、こうして世界を滅ぼそうとしているのだから関係ないさ』
その時、初めてルミナの魂に苦悶が浮かんだ。
たとえ二つの主によって世界の滅びを逃れていても、最終的にはルミナが今回のように世界を蹂躙する。結局、生命が築き上げた営みは無駄なものだった。
『わ……分かった。我が身も大人しく引き下がろうではないか。我とて世界の主、多少の慈悲は持ち合わせているさ! なんなら大人しく封印を受けてやっても良いぞ?』
なんと浅ましい言か。
壊世主ですらもこのように人間らしい心を表出する。いや、私たち生命が主の心を模倣しているのかもしれないな。
だがアテルは彼を許すだろうか。私には答えが分かり切っていた。
『駄目だよ、ルミナ。もう終わりなんだ。神々は、主は──この世界にもう必要ない。神代が終わり、新しい世界が幕を開ける。私たちは子どもたちの門出を祝福し、因果を破棄しよう』
『……ふざけるなッ! 人形如きが……お前はただ世界を回し続けていれば良い! 調子に乗るなよ、アテルトキアッ!』
刹那、凄まじい邪気が迸る。
壊世主の本体である異形から、アテルへ向かって秩序の奔流が放たれた。
あまりに強い奔流だ。私でも防ぎようがない。
ルミナはアテルを再起不能にさせて、逆に封印してしまうつもりだろう。自らが主としての権限を剥奪されないよう、彼女を封じる魂胆だ。
「……聞き届けました」
いつしかノアは前へ進んでいた。
彼女の真紅の左目は七色に赫炎し、射出された光線が壊世主の波動を焼き焦がす。これまでのノアを遥かに凌ぐ力。
『ノア……邪魔をするな! お前もアテルが間違っていることは分かるだろう!? この世界の調停者として、奴を弾劾せよ!』
「いいえ、アテルは間違っていません。あなたは知らないでしょうが……因果を操るには心が必要なのです。ただ、アテルは耐え切れなくなった。世界を回し、悪辣なあなたと対峙することに耐えれなかった。だから私は彼女の意志を尊重します。調停者として、盤上世界の放棄を認めましょう」
……そうか。
ノアは魂を溶かしているのだ。
今後、永久に近い時を刻む予定だった盤上世界。
しかし世界の因果はここで断絶する。もう彼女が調停者である必要はない。遥かなる未来で使うはずだった調停者としての力を消費して、超越的な力を得ているのだ。
もはや彼女の中で因果を消し去ることは決定事項。
『馬鹿な……ふざけている! 我が身は世界を守ろうとしている! 因果なき世界など、一瞬にして滅ぶ! 星々の衝突も、病の蔓延も、大厄災も、すべて神々と我らが意志が防いでやっているのに……!』
たしかに盤上世界は穏やかな世界だ。
神々によって庇護された豊かな世界だと思う。
同時に残酷が溢れている。ある日突然、災厄や壊世主の意志によって全てが滅ぶことだってある。私の故郷だってその中の一つ。無数の世界線を犠牲として、存続する世界線だけが観測されているだけ。
『ごめんね。ルミナ、私はもう……耐えられないんだ。お互いに主でなくなった後、どうするかは自由だ。でも、もしも君が主ではなくなってもまだ世界を害するのなら……私は君を止めると思う』
「っ……!」
思わず後退る。
アテルの異形が凄まじい混沌の力を放ち、周囲が灰色の光で包まれてゆく。世界中の秩序を混沌の力で相殺させ、消滅させる気だ。
白と黒の盤面を混ぜ、灰色の更地とする。
『やめろ、アテル! やめろおぉーーーーーーーッ!』
ルミナの絶叫が木霊する。
瞳を閉じずに私は盤上世界の終焉を見届けていた。
これより、私が立つ大地はただの世界へ生まれ変わる。
だが、アテルの選択は間違っていないと思う。
愛した世界の死と転生。これまでの歴史に終止符を打ち、神代を閉ざそう。
──因果消滅。




