164. 限りなくおわりに近い終焉
「……終わった」
心神の討伐を確認。
全神経を研ぎ澄ませて戦いに身を投じていたユリーチ、安堵に膝をつく。焼け焦げたソレイユの結界が瞳に映る。
眼下にはアビスハイムの手によって沈められた広大なソレイユ王国が広がっている。この国を守り切ったのだ。
しかし彼女はまだ幻術を維持している。
理由は視線の先にあった。神を屠り立ち尽くす二者。
「心神は倒したか。さて……」
アリキソンの幻影……デルフィは俯く。
一難は去った。明確な敵、分かりやすい悪。【棄てられし神々】はまさしくソレイユの大いなる討伐目標であった。
しかし、さらに複雑な『敵』が存在している。彼の傍らに。
デルフィは視線を上げるのが怖かった。果てしなき憎悪を湛える怨霊がそこにいる。神を明確な事実上の敵とするのならば、怨霊マリーは精神上の敵である。
無論デルフィはマリーについて何も知らないし、戦う気もない。しかし彼女は不戦を許すだろうか。
「……アリキソン・ミトロン」
声が響いた。デルフィは違和を覚え、ふと顔を上げる。
──晴れやかな、されど無念を宿した表情があった。
マリーの声は震えていたのだ。とても復讐の妄執に駆られた徒とは思えぬほどに清澄な声色。
「どうして……震えている?」
「ごめんなさい。あなたがアリキソンでないことは、薄々勘付いていました。そこにいるのはユリーチさん、ですよね。うん……そっか。もう私の仇は……心神が言っていた通り世界から消えているんです」
とうに真実に気が付いていたというのか。
いや、事ここに至り確信を得たのかもしれない。苛烈な戦いが終わりユリーチの存在に気が付いたことで、自分はずっと幻を見せられていたのだと。
「ユリーチ……もういい。解除を頼む」
ユリーチはデルフィに言われるがまま虚構を引き剥がした。
アリキソンの皮を破って、白髪の男が表出する。マリーは己の命をつなぎとめた恩人の顔を瞳に焼き付けた。
「デルフィさんでしたか。ありがとうございます、私の消滅を防いでくれて」
「ああ、いや……しかし……」
デルフィが言いよどんだ理由は、マリーの足元を見れば明らかだ。
消滅が始まっている。当然だ、存在理由であるアリキソンの死に気が付いたのだから。
「だって、あの悪漢アリキソンとは思えないほど優しかったですから。奴なら心神の前であろうと、私を殺しにかかっていましたよ」
「……なるほどな。悪い、あまり非道にもなれない性質なんだ」
「ええ、最初に会った時から分かっていました。英霊とは通常、そのように正道を往く人を指すのです。私やアリキソンのように……穢れた者は世界に相応しくない。……だから、ここでお別れです」
そんなことはない……とデルフィは言葉をかけてやりたかった。どんな存在であっても英霊を名乗る資格があるのだと。
だが彼は安易に他者の意見を否定できなかった。彼女の言葉には重みがあったから。
「……マリー。ごめんなさい、あなたを騙してしまって」
「ユリーチさん。いえ、あなたがいなければ心神は倒せませんでした。謝るのは私の方です。私は故郷の世界線で……アリキソンの手からあなたを守れなかった。でも、今度は世界を救うのに貢献できました。もう満足です……後はあの世でアリキソンを糾弾して成仏しますよ」
怨霊とは思えぬ晴れやかな笑みを浮かべて、彼女は世界から去っていく。
もはやアビスハイムが従える英霊の役目は終わった。異界の存在は理を乱さぬ内に消えるべきだ。
完全なる消滅を迎える直前、彼女は遺志を残す。
「……ああ、そうだ。できればでよろしいのですが、私の兄……アルスさんに伝言を」
拝啓、兄ではない兄へ。
ただ一言。
「どうか……この世界の私を大切にしてあげてくださいね」
微笑みながら最後の言葉を伝え、マリーは消滅した。
~・~・~
天を見上げたクラヴニは悟る。
裁くべき対象が全て死したのだと。
「ふむ……私の役目は終わりのようです。ナリアさん、ありがとうございました。シレーネにもよろしくお伝えください。もう私は現れることはないと」
「お前が消えるということは、【棄てられし神々】が全て死んだと?」
「ええ、そうです。命神と心神、破壊神の死を確認。今のところ、この世に秩序に堕ちた神族は存在しません。……ああ、今から消える私を除いて。シレーネの右腕の痣も消え、彼女は普通の人間へと戻るでしょう。多くの迷惑を彼女の人生にかけてしまいました。お詫びを」
たしかに罪神の紋様はシレーネの人生に多大な影響を与えた。サーラライト国では奇跡の子と仰がれ、苦悩もあったことだろう。しかし得たものも多いはず。
罪神の存在は世界を守った。シレーネが世界を守ったと言っても過言ではない。
「まあ、お前の謝罪はシレーネに伝えておこう。ご苦労だった」
「はい。私の役目はここまでです。後は……あなた方の健闘を祈ります。私では裁けぬ者も、人の奇跡ならば裁けるでしょうか」
シレーネの痣が消える。
罪神クラヴニは世界を去った。
~・~・~
「……陛下。小生は周囲の状況を見て来ても? 事実確認と言うべきでしょうかね」
「──うむ。しかし無理はするな。状況確認次第、すぐに我の下へ戻れ。マリーも去り、もはや我の英霊はお前しか残っておらぬ」
「かしこまりました」
ロンドはアビスハイムの許可を得て、竜騎士の駒に乗って飛翔。
戦場を指揮するアビスハイムは気を緩めず……いや、より警戒を引き締めて戦を俯瞰する。
さきほど心神と命神の討伐報告が入り、結界外より迫っていた破壊神の討伐も報告された。
しかし……エムティングとメロアとの戦いは、依然として続いている。ソレイユ兵たちはなおも奮戦して抗っていた。主である二神が消えてもなお、眷属たちは消えていないのだ。
ロンドと入れ替わるようにして、魔導王の副官が戻る。
「陛下、ただいま戻りました」
「リリス。此度の活躍、見事であった。無事に破壊神は倒せたようだな」
「いえ、拙は天魔に蹂躙されただけですので。しかし霓天殿たちは破壊神を倒し、国内の戦場へ向かっている最中です」
「無駄な抗いなど存在しない。お前の果たした役目を誇れ。さて……リリス、王城との通信は取れるか?」
「はい、問題なく。二神の討伐報告がありましたが……眷属が消えていないようですね」
リリスは通信を起動しつつ、戦場を訝しげに眺めた。異様だ。
神の眷属は根源たる主が消えれば、同じく消滅するはず。二神の討伐報告が虚偽であったのか、それとも二神がまたしても復活したのか。
「理由はすぐに分かるだろう。──備えよ、来るぞ」
アビスハイムは瞬時に兵士たちを守護する身体強化を施した。
重く。ねばつく。
深く。まどろむ。
昏く。おぞましい。
──肌が粟立つ。場に存在する全ての生命が凍り付く。
兵士もエムティングもメロアも。ただ一人、アビスハイムを除いて。
何も戦場の風景に変化はない。
ただ生命に覆いかぶさる苦しみが浸透しただけ。赤黒く染まった空、地下へ沈んだ結界内のソレイユ王国、結界上に蠢く無数の神の眷属と兵士たち。
何も変わっていないのに。凄まじい悪寒が駆け抜ける。
「……陛、下。これは……なんでしょうか。拙は……震えが、止まりません。怖いです……」
じわりじわり。
どく、どく、と。
寒気が広がる。毒のように回る。
ソレイユ全土を駆け抜けた邪悪なる『何か』。ただ一人、アビスハイムは正体を知っていた。
「『対壊世防御術式』を展開せよ! 全軍傾聴ッ! 衝撃に備えよ!」
アビスハイムの号令により、王城で待機していた魔導士が『対壊世防御術式』を起動する。
瞬間……ソレイユの国境を囲んでいた結界がより強固に。あらゆる事象を徹さぬ不落の壁である。
「これより現れる敵は世界の邪悪! 悍ましくも抗えぬ欲望そのもの! 我らが決して敗北してはならぬ悪意! 全てを無に帰す秩序の因果──その名は、」
刹那。世界を暗黒が呑んだ。




