68. 破滅のサーガⅢ
言葉を覚えた。
洞窟の外に出た。
邪気を練って、身体を組み替える練習をした。
俺はセェノムクァルから、本当に色々なことを教わったのだ。
そして──
「っ……!」
ある日、島の海岸線を歩いていた時のこと。
波打ち際に、一人の人間の姿が見えた。男だ。茶髪の、ロングコートを羽織った男が平伏していた。
俺は彼に近付くべきか逡巡する。俺の身体は化け物。近付けば止めを刺しに来たのではないかと疑われてしまうかもしれない。
だから俺は、遠巻きに彼に話しかけた。
「おい……大丈夫か……」
自分でも気味が悪くて、甲高い声だった。相変らず鈴虫の鳴き声のようだ。
覚えたての言語。ちゃんと意味が伝わるのかどうか、俺は不安だった。
男が顔を上げる。俺の姿を見て少し驚いたように目が開く。しかし、彼は苦しそうに俺と会話を試みた。この世界では、俺のような異形が話すことも珍しくはない……というセェノムクァルの話は本当だったのだ。
「あんたは……魔族か……? 誰か、この島に、住んでいるのか……?」
男の声は途切れ途切れ。今にも息絶えてしまいそうだ。
「人間はいない。他の魔族も見たことがない」
「そう、か……ここまでか……」
男は息絶えた。呆気なく。
この世界でも人間の脆さと弱さは変わらないらしい。俺は彼の亡骸に歩み寄って、どうすべきか思案する。俺は男よりも小柄で四足歩行。彼を運ぶことはできない。
──その時、俺の身体に変化が生じた。
魔族は初めて見た動物の身体を模倣するという。ずっと洞窟に引き籠っていた俺が見たことのある存在は、俺と同じ姿をした魔物と、島に住む数匹の魔物のみ。
そう、俺は今……ニンゲンを模倣しようとしている。
「……っ」
目を覚ます。
いつしか気を失っていた。俺は身体を起こし……起こし?
「これ、は……」
俺は二足歩行の人間になっていた。
水面へ駆け出して、自分の顔を確認しようとする。久しぶりに操縦した人間の身体は想像以上に重くて、砂浜に転んでしまう。ああ、人間の身体とはかくも扱いづらいのか。
水面に映った俺の顔は、そこに倒れている男と何ら変わらない。違う点といえば、衣服を身に付けていないだけ。
おまけに、感覚が生じた。そう……痛覚が存在する。
これまで感じていなかった島の熱気、陽光。自らの身体に入り込む空気。肌をなでつける風。僅かなかゆみ。正直、全身がひりついて痛い。
なんだか不完全な身体に戻ってしまったような心地がして、俺は喜びよりも先に嫌悪を味わった。たぶん、俺が人間を好きじゃないからなのだろう。
「あー……あー」
発声練習。声がちゃんと出る。これで人間とも意思疎通できるのだろうか。
言語はまだ習得途中なので、まともに通じるかは分からないが。先程の男には通じていたように思う。
ひとまず服を着よう。傍の男のコートを拝借。濡れている、後で乾かそう。
……暑いな。携行品はほとんど無いようだ。漂流時に紛失したのか。
そして男を担ぎ出す。彼を埋めてやろう。
両手で彼の重い身体を担ぎ、大きな岩の下へ。穴を掘って彼を埋めてやった。穴を掘る間は魔物の姿に戻り、身体が汚れないようにした。
互換性が利くのはいいことだ。人間と遭遇しない限りは、この姿で過ごすのも良いだろう。既にこちらの形態に慣れ切ってしまった。
「安らかに」
名前も知らぬ男を弔うなど、前世の俺はこんな性格だっただろうか。
それすらも思い出せない。
……さて、セェノムクァルに報告だ。俺が人間へ転身できたことも含めて。
~・~・~
話を聞くや否や、奴は喜んだ。
『ははっ……そうか! それは良かったね!』
「ずいぶん喜んでいるな。俺よりも」
『だって、これで君が外に出られるじゃないか。前世の君と同じように、人間として暮らせる』
「……俺は人間があまり好きじゃないのだと思う。前世のことはほとんど覚えていないが、人間になった時にあまり嬉しくなかった」
前の世界で、俺は奴隷のような日々を送り、劣悪な精神を有していたことは朧げながらも記憶にある。精神衛生上、ここでずっと過ごした方が良いのかもしれない。
セェノムクァルも俺が離れれば寂しくなるだろうし。
「俺が離れたら、お前は独りになる」
『そうだね。でも、君が来るまで孤独だったんだ。元に戻るだけさ』
「お前はいつ消えるんだ? ずっとここに縛られているのか?」
『僕の魂はいつまでもここで眠る。僅かに遺ってしまった魂の残滓は、基本的には滅ぼせない。かつて世界を破滅へ導きかけた災厄が僕だ。生半可な力では魂の芯は焼き払えない。僕以外にも、こうして無力化されて眠っている災厄が居るかもしれないね』
どうやってセェノムクァルを眠りにつかせられるのか。安息に導く方法は、どれだけ考えても思いつかなかった。
俺はこの哀れな龍を安らかに眠らせてやりたい。いつまでも孤独だなんて、そんなに寂しいことがあってもいいのだろうか。
「やはり……俺は島を出るべきなのだな」
──セェノムクァルを眠らせる手段を探すためにも。
お節介かもしれないが、俺は奴を破滅へ導こうと決意した。正直に言えば、外へ出ることは少し怖い。果たして世界は美しいのか、醜いのか。
審美は俺の主観に左右される。だから、俺の主観に基づいて美しい世界であればいいと思う。
『また一人、僕の智を授かって旅立つ者が現れた。昔はこうやって、人々に色々なことを教え諭したものだよ。まさか死後も生前と同じことをするとはね』
「そうだ……約束しよう」
『約束?』
俺は一つの理由を思いついた。
奴を救うための言い訳を。
「俺は色々なことをお前から教わった。だから、その恩返しをする。お前を必ず……解放して楽にしてやろう」
『……そこまで大したことはしていない。知っていることを教えただけだよ』
「いや、俺にとってお前の智は大したものだった。だから返すべき恩を返す。お前に安息を与えるための破滅を運んでみせる」
口達者なセェノムクァルは珍しく言葉に詰まっているようだった。
しかし、
『……うん。待ってるよ』
約束を受け入れてくれた。
だから、俺はこれから先……背負うことになる。
この選択が齎す運命を、この時の俺はまだ知らなかった。
必滅の運命を。




