171. 深海のパンドラ
『黎触の団』を抜けたいと賢者フェルンネに伝えたラーヤ。
覚悟を決めた末の彼女の言葉を受けて、フェルンネは首を傾げる。
「どうして、それを私に言うの?」
「えっ……?」
彼女は一切感情の起伏が無い声色でラーヤに言葉を浴びせた。
「抜けたいのなら、勝手に抜ければ良いじゃない。私は『黎触の団』の事なんて興味がないし……自分がしたいと思ったことをすれば良い」
彼女の言葉がラーヤを突き放す為のものだったのか、或いは脱退を肯定するものだったのかは定かではない。元来、フェルンネは他者に興味がない。『黎触の団』がどうだとか、世界の破滅がどうだとか……そんな話題には一切の関心を示さなかった。
ただ興味本位に生き、真理を追究する。そうした彼女自身の生き方をラーヤにも勧めたに過ぎない。しかし、当のラーヤは賢者の言葉が解せないのだった。
「怒らないん、ですか?」
「ええ……お好きにどうぞ」
簡単に脱退の許可を得て、拍子抜けしたように立ち尽くす彼女の傍に、レアが歩み寄る。
彼女は優しく、子供を諭すように微笑み、手を差し伸べた。
「思い切ったことを言ったね、ラーヤ。どうやら『理外の魔女』は君に興味が無いようだが……私は君を称えたい。君が『黎触の団』を抜けようと思った理由……私に聞かせてもらえるかな?」
イージアもまた、彼女らの様子を黙して見守っていた。
薄情な話だが、もしラーヤが途方に暮れていたとしても、彼はレアのようにラーヤを助けようとは思わなかっただろう。彼は心の奥底ではレアを責任感のある立派な人物だと認めていた。無論、それを表立って態度に出しはしないが。
「私は……これ以上、人を傷つけたくない。ただそれだけ」
──人を傷つけること。
イージアは彼女の言葉を聞き、これまでの軌跡をふと思い出した。数多の人を傷つけてきた。
幼少の砌は血をみるだけで全身から力が抜けるような心地でいたのにも関わらず、今では死体を見ても何も思わなくなってしまった。現在はリフォル教や『黎触の団』との抗争、未来ではグットラックとの抗争……普通の暮らしでは関わらないような団体に関わる機会を多く持ち、人間同士の争いに慣れていったのだ。
彼の生涯は、誰かを傷つけずには通れない。それを自覚しているからこそ、人を傷つけたくない等ということを考えたことはなかった。
「なるほど……素晴らしい理由だ。ただそれだけの理由、されど大それた理由。誰かを傷つけないで生きるというのは難しい生き方だ。私でさえも成し得なかった道だよ。君がそんな生き方を求め、『黎触の団』を離れたいと言うのなら……私は全力で君を応援しよう」
「レア……」
揺らいでいたラーヤの心は、レアの肯定を得たことで確固たるものに変わる。
彼女は『刃』を捨て、人を傷つけることを止める道を選ぼうとした。
そして彼女が決断すると同時、ウェカムが戻って来る。
彼の手には、雫の形を模した紫色の水晶。
「賢者様! ただいま戻りましたっ……て、何でアンタらが居るんだよ?」
帰った筈のイージアとレアを見て、彼は眉を顰める。
「忘れ物をしたので取りに来たんだよ」
「そうか。……それよりも、賢者様。こちらが『海神の涙』となります。最深部に奉られていた物なので、間違いないでしょう」
「ふうん……これが『海神の涙』? とても神気は感じられないけれど……」
「最深部には……それしかありませんでした。隅々まで部屋を調べてみましたが、他に怪しいものはなく……っと、すみません。少し頭が痛くて……」
頭痛を抑えながらウェカムは報告を続ける。
紫色の水晶を受け取ったフェルンネは、まじまじとそれを見定める。最初は何となくそれを分析していた彼女だったが、次第に彼女の瞳の警戒の色が濃くなっていく。
そして、その水晶をウェカムに渡し返すのだった。
「これが『海神の涙』かどうかはともかくとして……神の遺物ではないわね。既にあなたと同化しているわ」
「……同化、とは?」
水晶を返されたウェカムが尋ねる。
彼の手元にあるソレは、最初に見た時よりも光を強く放っているようだった。
「手にした者に呪いを掛ける細工が施されているわ。邪気があなたの身体へ流れ込んでいる……もしかしたら、あの結界は危険なこの水晶を封じ込める為のものだったのかもしれないわね」
「なっ……!?」
彼は慌てて『海神の涙』を手放す。
地面に転がった紫の水晶は、依然として強い輝きを放っていた。輝きが強まると同時に、ある程度離れていたイージアにさえ、邪気が感知できるようになる。発生源はあの水晶。
「どちらにせよ、それはもうあなたの所有物になった。私にとっても研究する価値は無さそうだし……王には『海神の涙』なんて存在しなかったと報告しておくわ」
「……待て。ウェカムは大丈夫なのか?」
再び次元の断層のようなものを作り出し、その場を去ろうとするフェルンネにイージアが尋ねる。
彼女は表情を変えることなく、残酷な現実を突きつける。
「残念だけど、その水晶を手放しても、破壊しても邪気は流れ込む。むしろ一斉に邪気が放出されるのを防ぐ為に、破壊はしない方が良いわね。過去の症例によれば……邪気に耐え切れず死亡する、理性が崩壊して疑似的な魔物となる、邪気を超克して疑似的な魔族になる、の三つの内いずれかの現象が起こるはずね。三つ目の症例なら命は助かるけれど……お祈りすることね。私は結果を見たくないからこれで失礼するわ」
「待て、何か方法は……」
イージアの問いから逃げるようにして、彼女は虚空へと消えていった。
「ぐうっ……!」
「ウェカム!」
邪気を流し込まれ続けるウェカムは、その場に蹲る。彼の顔色は次第に青くなっていき、冷や汗が流れ始める。
「まずいぞ、イージア。何か対処する方法は……」
一瞬、イージアの脳裏に神気を使い、ウェカムの体内の邪気を直接払うという発想が浮かんだが……そんなことをすればウェカム本人も死んでしまう。
イージアとレアが無我夢中で解決策を考える中、ウェカムの身体は邪気に蝕まれていく。
「ウェカム、ウェカム……大丈夫?」
「ぐっ……ラーヤ……大丈夫だ。俺を、誰だと……思っている……『黎触の盾』、だぞ……。心配はいらないから……離れて、おけ……」
それでも、彼女は苦しむウェカムの傍から離れなかった。
彼女は決意した。誰も傷つけない事を。故に、彼女は苦しむ友から離れることもしなかったのだ。ウェカムを一人にすることで、彼の『心』が傷ついてしまうから。
「私、もう誰も傷つけないって決めたから……だから……」
もはや彼女の言葉は彼の耳に届いてはいなかった。
彼の視界は闇に閉ざされ、耳鳴りだけが聴覚を支配する。心の中に闇が流れ込み、理性を崩壊させてゆく。
「ぐ……ああっ!」
理性の欠片を振り絞り、彼は傍に居た『名前も思い出せない大切な少女』を吹き飛ばす。
人間とは思えぬ程の怪力で吹き飛ばされた彼女は、イージアの手によって受け止められる。
「……ラーヤ。残念ながら彼は……ウェカムは、邪気を超克出来なかったようだ」
気が付けば彼の身体は崩壊し、皮膚という膜を破り、身体が邪気によって組み替えられつつあった。
やがて彼は巨大な蛇竜の姿を成し、ホーウィドット全域に轟かんばかりの咆哮を上げる。
『グ……オオオオッ!』
「うそ……ウェカム……」
ラーヤはただ呆然と邪竜となった友を見上げる。
そんな彼女の前に、イージアが立ちふさがった。
「アレはもう……君の知るウェカムではない。……下がっていろ」
大切な人を喪う悲しみを、彼は痛いほど分かっていた。
だからこそ目の前の惨劇からラーヤが逃げ、目を逸らす事を許したのだ。
「私は……私は、ウェカムを助けたい。ウェカムが苦しんでるなら、解放してあげたい。……傷つける為の『刃』じゃなくて、救う為の『刃』を……私は振るう」
しかし……彼女の決意は、彼女自身が現実から目を逸らすことを許さなかった。
彼女は刃に黒き波動を宿し、ウェカムに剣先を向ける。
「ラーヤ……立派な志だ。君には私たちがついている、決して一人じゃない。それを忘れないでくれよ」
「うん……ありがとう。レア、イージア」
かつてウェカムが彼女を救ってくれたように。
かつてウェカムが『盾』として命を守っていたように。
ラーヤは彼女の『刃』を以て救い、守る《これから》を選ぶ。




