150. はじめて覚えた
鉄の味。それが俺──ゼロがはじめて覚えた味だった。
俺は魔族だ。魔族ってのは長い時を生きた魔物に、何らかの要因によって『魂』が入ることで生まれる。そして意思が芽生え、生命として生きることが出来るようになる。
まだ鳥の魔物である俺が魔領の空を飛んでいる時だった。偶然、魔領に来ていた人間が居て、俺はそれを眺めていた。ちょうど、その時に『魂』が入って来たんだ。
魂が入って最初に見た生命に魔族は適合し、身体を変化させる。俺は人間に……片翼だけが生えた歪な人間の姿に生まれ変わった。
無様に地に落ちて、彷徨った。生まれたばかりで何も分からないまま、記憶もなく、言葉も知らないまま彷徨い続けた。気付けば魔領から出て、人里に辿り着いていた。
「おい、なんだあいつ……?」
「さあ、魔族じゃねーのか?」
「裸で歩いてるぜ……もしかして生まれたてか?」
街へ入るや否や、大勢の人間に囲まれた。
──何も分からなかった俺が、はじめて感じた感情は、恐怖だった。
魔物は感情を持たない。しかし、魔族となった俺にはたしかに感情があった。
「おい、あんた。言葉は分かるか?」
目の前の人間が俺に何か言った。意味を成さない音の波。俺はどうして良いのか分からずに、戸惑った。
「おい、やっぱりコイツ魔族になったばかりだ。今魔領から下りて来たんだろうよ」
「てことは、持ち主も居ないってことか?」
「いや、ついてるな。ちょっと遊んでこうぜ」
人間たちの目つきが変わった。俺の恐怖はますます高まっていった。
どうして良いか分からずまごついていると、視界が横にスライドした。殴られたのだ。
「かはっ……!」
はじめて覚えた感覚は、痛みだった。
視界がチカチカと明滅して、頭の中が揺れている。頬に胎動するような痛みが走り、頭が地面に打ち付けられる。
「お、おい! 何やってんだ!? 衛兵に見つかったら……」
「ああ? ストレス溜まってんだよ、持ち主も居ないんだからイイだろ? それに……ここらは『狂儲派』の管轄だ。金さえ渡せば見逃してくれる」
「そ、それもそうか……」
次第に、俺を殴る者がひとり、ふたりと増えていった。次第に、受ける痛みは強くなっていった。
もしも俺に両翼があったら、飛んで逃げられただろうか……そんなことも、当時の俺には考える頭がなかった。
生まれる国が違えば、俺は誰かの子として大切に育てられていたかもしれない。生まれる国が違えば、魔国に送られて幸せに暮らせたかもしれない。生まれる国が違えば……そんなことは考えるだけ無駄だ。だって俺は、この地獄に生まれてしまったのだから。
口の中にだくだくと生暖かい液体が流れて、口から漏れた。舌に液体が染み込んで、鼻をつくような息苦しさが俺を貫いた。鉄の味。
魔族は不死だ。邪気で身体が構成されているから、死んでも肉体は再構築される。だから、アイツらは俺を殴る力を決して弱めなかった。
殺意。それが人間にはじめて抱いた想いだった。
何度も殴られ、何度も蹴られ、ぼろ雑巾のように泥と血に塗れた俺を、周囲の人間は知らないふりをして過ぎ去って行った。助けを求める言葉も知らなかったが、助けを求めたとて無駄なこと。ここは地獄なのだ。誰かを助ける者なんて居ない。
「おい、アンタら! やめろ!」
……あの娘以外は。
桜のように繊細な髪と、燃えるような真紅の瞳の少女。そして何より目を惹いたのが、片翼の翼。彼女もまた、俺と同じで翼が欠けていた。
大勢の人間を相手にしても、彼女は少しも怯まずに立ちはだかった。何か大声を上げて、人間たちを威嚇している。
「げっ……! サーラだ、逃げろ!」
その声を皮切りに、人間たちは慌てるように逃げ去って行く。
「ねえ、大丈夫!? 今すぐお母さんのとこに連れてくから……」
そして。俺が二番目に覚えた感情は、安堵だった。
薄れゆく意識の中、その少女だけが俺を助けようとしてくれているのが分かった。鉄の味に溺れながら、俺は暗闇に沈んで行った。
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「なあサーラ! 今日はどこに出かけようか!」
「えーとね、お母さんのお仕事で製鉄所のお手伝いがあるの」
「よし、じゃあ行こう!」
俺は助けてくれた少女……サーラと手を繋いで飛翔する。二人の翼を合わせることで、こうして自由に空を飛ぶことができた。
助けられた俺は、サーラが暮らす家に引き取られた。数年間の経験を経て、俺は言葉を覚え、人間の暮らしに馴染んでいった。お母さん……と言っても、サーラの本当の母親じゃない。魔族のサーラを引き取って助けてくれたから、お母さんと呼んでいるそうだ。
はじめて覚えた味、感情、感覚、人間への想いは忘れていない。でも、サーラのお母さんみたいに、人間には良い人も居るって知ったから。だから、努めて忘れようとした。でも、心の奥底では負の感情が蟠っていて。
本当に信じられたのは、俺の片翼だけだったのかもしれない。
俺がお母さんを、サーラに優しくしてくれる人たちを信じられていたのか……それを確認する術はもうないのだから。
「おい、奥さん! はやく金返してもらわないと困りますよお!」
俺たちの家に、たまに怖い人間がたくさんやって来る。なんでも、『キョーモーハ』とかいう連中だそうだ。金が欲しくてたまらない……そんな人間がこの国には多い事を俺は知っていた。
「すいません、必ず来月には……」
「ああん!? その台詞ねえ、もう何ヶ月も聞いてるんですよ! 返せないようなら、この娘貰っちゃおうかなあ!」
怖い人間がサーラの腕を掴んだ。サーラは嫌そうな顔をしたが、振り解こうとはしなかった。彼女は強いから、簡単にあんな奴ら倒せるのに。
「ああ、お願いします! どうかその子だけは……!」
お母さんが怖い人間に縋る。怖い人間は鬱陶しそうに舌打ちをして、
「俺に触るんじゃねえ!」
お母さんを蹴り飛ばした。
「お母さん!」
悲鳴を上げたのは俺だったか、サーラだったか。俺はすぐお母さんの元に走って、抱きかかえた。
無力なお母さんは、それだけでも苦しそうだったのに、またすぐに怖い人間の足元に縋りついた。
「どうか、どうかお願いします! 私はどうなってもいいです! だから、その子は……!」
次に、男は何も反応せずに銃でお母さんの頭を撃ち抜いた。
血しぶきが叫ぶ俺の口に飛んだ。鉄の味がした。
「あ、おかあ、さ……」
それから先のことは覚えていない。いや、覚えているけど思い出さない。
気付けば俺たちの足元は真っ赤に染まって、どれがお母さんの血かも分からなくなっていた。俺たちの翼も真っ赤に濡れていた。
殺意。俺が人間に抱いた想いは最初と変わることなく、渦巻き続けた。
「なあ、サーラ」
「うん……うん。大丈夫だよ、アタシが……お姉ちゃんがゼロにはついてるからね」
サーラが立ち尽くす俺を抱きしめた。暖かかった。血よりも、ずっと暖かい。
「サーラ……壊されたら、どうしたら良い?」
俺は尋ねる。俺はこうしてサーラに何もかもを教わってきた。いつも通り、彼女に分からないことを尋ねた。
彼女は黙っていた。俺が聞いて答えなかったことなんて一回もない姉が、黙ってしまった。
沈黙。それがはじめてサーラが見せた弱さだった。
「俺は、知ってるよ」
彼女は俺を見て答えを待った。一縷の望みが、或いは数多の絶望が。真紅の瞳に宿っていた。
「『壊す』んだ。俺らが壊されたのと同じ……いいや、もっと多くだ。この国の全部を壊して、壊し尽くす。それだけだ」
それだけしか、俺たちにはもう残っていない。
不条理を、絶望を、悲哀を、暴虐を、支配を壊す。
……いつの間にか、こんなに言葉を覚えていた。
「俺たちには、それだけの強さがある。俺一人じゃ、何も壊せない。でも……」
最初は小さな一欠片、最後は大きな壁になる。壁が崩れればそれでおしまい。何も残ることは無い。
俺たちはその壁を叩き続ける。罅が入って、やがて瓦解する時を待って。
夢は捨てた。希望は吐いた。憧れは奪われた。何が残った?
俺たちは二人で一人。一人なら空も飛べやしない。
──でも、二人なら。
「……二人なら、なんだって壊せる」




