137. 淀み水の明鏡止水
朝の光が彼方から射しこみ、イージアが纏う白布を照らし出す。アリスたちが張ったテントの前で彼は一夜中座り込んでいた。
近場で捕ってきた獣の肉を焼き、朝食の準備を始める。龍島でサバイバルした中でこのような狩猟経験は培われた。あの地にいた動物は竜種のみだったので、気紛れに狩って食べるのは竜の肉ばかりだったが、獣も竜もそこまで変わりはない。食事も睡眠も彼には必要無いが、人間と称している以上最低限の生活習慣は振舞わなければならない。
「ふああ……あら、なんですか? この変なにおい」
天幕からアリスが欠伸をしながら出てきた。彼女はイージアが座り込む前の火を見て、驚いたように飛び退いた。
「きゃっ! ……火事かと思いました。イージアさん、お肉を焼いているんですか?」
「猪肉だ。食べたことはあるか?」
彼女は首を横に振る。イージアにサーラライト族の食習慣は分からないが、とりあえず捕って焼いてみた。
「食べてみてもいいですか?」
「ああ」
「…………う」
彼女が顔を顰めたのを見て、これは失敗だったと彼は悟る。流石に姫に野生の獣肉はきつかったか。
「く、くさいです……が! 旅人に猪肉を食べる能力は必須です、頑張って食べます!」
「姫様、何をしておられるのですか?」
「リグス、猪肉ですよ。貴方も食べるのです。旅人にとって避けては通れない試練です」
アリスに続いて出てきたリグスに彼女は無理やり肉を薦める。
リグスは露骨に嫌そうな顔をしたが、主の言は断ることができなかった。
「あー……野生の猪ですか。ちゃんと大人じゃない雌の肉を焼いたのですか?」
「いや、適当に捕ったものを焼いた」
「お、お前な……本当に旅慣れしてるのか? どうせ臭いだろ、これ」
旅慣れしているのは間違いないが、それは未来での話。この時代の旅にイージアは慣れていない。
故に食糧調達なんかにも不慣れであり、価値観がズレていることも多々ある。
「もちろん、臭かったです。でもそれを乗り越えなきゃならないんですよ」
「……仮面男。まずはお前が食べてみろよ」
そう言われ、彼は躊躇わずに焼き立ての猪肉を口にして飲み込んだ。
「なっ……!? コイツ、表情も変えずに……」
「ほら、リグス! やっぱり熟練の旅人は顔色一つ変えずに食べれるのです!」
(味覚を遮断したからな……)
口が裂けてもその事実を告げることは彼にはできなかった。
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数日後、三人は駅舎を訪れた。ここから馬車に乗ってルフィアまで向かうことになる。
まばらに人が行き交ってはいるものの、ルフィア方面へ向かう人は少ない。どちらかと言えばルフィアから流れてきている人が多いようだった。
「アリス様、まずは部屋を借りましょう……って、金が無い?」
リグスがふと気づく。人間社会の貨幣経済と疎遠な暮らしを送って来た彼女たちにとって、旅の資金というものの計画を立てることは不慣れだった。無論、サーラライト族にも一応貨幣はあるとイージアは聞いていたが。
「馬車代も用意しないといけない……少し依頼を熟すか」
前の村の村長からは、駅舎にも傭兵向けの依頼があると聞いている。今日の宿代と馬車代を軽く稼ぐことはできるだろう。
「なるほど、がんばって働きましょう……!」
アリスは旅の疲れを感じさせないほど張り切っているが、彼女はまだ戦闘経験が無い。そのやる気が空回りしないよう、イージアは慎重に依頼を選ぶ必要があるのだった。
数時間後。
イージアが翌日の馬車の手配をしている時、案内人から尋ねられる。
「あんたら、ルフィアに行くのかい?」
「ああ、そのつもりだ」
彼は乗車代を出し、御者と今後の日程に関して話をしていた。こうして電子貨幣ではなく、実物の貨幣を扱うこともまた、彼に過去に来たことを実感させる。
結局、三人は戦闘を伴わない採取を熟した。アリスたちはフロンティアを旅することも望んでいるようだが……というよりも、彼女たちの『目的』を果たす為にはフロンティアでの冒険が必要不可欠なのだが、魔物との戦闘を教授することはイージアの義務ではない。
戦わずにリンヴァルスまで辿り着けるのが彼にとっての最善ルートであった。
「最近、王都も物騒ですからねえ……気を付けてくださいよ」
「何かあったのか?」
「いや、特別変なことはないんですけどね。周辺の魔物が多くなってきてるみたいですよ。なんでも魔神の復活まで百年を切ったとか」
魔神の復活。たしかに、彼が暮らしていた時代よりもこの時代の魔物の数は多い。
魔神リグト・リフォルの降臨が近づくにつれ、魔物の数と強さが増していった。そして、魔神の消滅と共に魔物の数も激減したというたしかな研究データが存在するのも事実だった。だが、魔神はリフォル教によって強引に降臨させられたものであって、自然と蘇ったものではない。何故魔神の復活と魔物の増加が比例しているのかが彼には分からなかったし、科学的な根拠も存在しないのだった。
魔物の増加には何かしら別の要因があるのではないか……そう唱える学者も居た。
強いて言うのならば、魔神の魂自体は既に世界に降臨しているということか。その事実と何かしらの関係があるのかもしれない。
「気を付けることにしよう。では、明日はよろしく頼む」
「はいよ、それじゃまた」
御者にそう告げて、彼は宿の自室へと戻る。アリスとリグスの隣の部屋だ。
彼はこの旅の目的について考える。彼の目的はもちろん、仇を見つけて殺すこと。
そして、アリスたちの目的はとある物の発見。
『春霞』。サーラライト族の神話に語られる錫杖槍である。
遥か昔……まだ人間と魔族が争い、サーラライト族もまたとある人間の別種族と争っていた時代のこと。多くの命が奪われる争いに心を痛めた《萌神》という神族が居た。人々の争いに介入することは神々の間で禁止されているが、その神は己の命と引き換えに争いを止めようとした。
己の命の全てを注ぎ込み、一本の錫杖槍を作ったのだった。それが『春霞』である。『春霞』はサーラライト族の族長に贈与され、《萌神》は争いに勝利する為ではなく、争いから身を守る為に使うようにと言い残し地上から姿を消した。
曰く、『春霞』を掲げた瞬間、サーラライト族の領域は森に包まれ、外部からの如何なる侵入者も寄せ付けなくなったという。それが『大霊の森』である。そして役目を終えた『春霞』は族長の手元から消滅し、世界から姿を消した。これが伝承に伝わる事実である。
では、なぜ消えたはずの『春霞』が世界のどこかに存在すると言い切れるのか。それは他でもなく、《萌神》の言による。
『再び我が力を必要とする者が現れた時、春霞は目覚めるでしょう。この槍は世界のどこかに眠っています。もしも我が力を再び必要とするのならば、探し見つけ出しなさい』……そう言い残して萌神は消えたからだ。
つまり、アリスは何らかの理由があって神器『春霞』を探しているということだ。この伝承はサーラライト族にのみ伝わっているため、人間が探し出すことは無い。また、サーラライト族は森から出ることが殆ど無いため、結局見つからず仕舞いになっているというわけだ。
「萌神……墓場は豊穣の大地だったか」
戦神の墓場がシエラ山、虚神の墓場がリシュ湖というように、死した神族には墓場がある。
萌神の墓場は、邪剣の魔人によって《不浄の大地》と化した元《豊穣の大地》。霊魂を呼んで『春霞』が眠る場所を聞こうにも、彼の地は踏み入ることすらできなくなっている。
世界から特定の一物を見つけ出すなど、砂海から一粒の砂を見つけ出すかのような困難である。しかしその事実は仇を世界から見つける己にも当てはまるのだと気づき、イージアの気分は一層沈鬱とした。
そして夜が明けた。
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「おはようございます、イージアさん」
「おはよう」
「お前……毎日その服着てないか? 洗ってるのか?」
夜明けも早々に、リグスから冷ややかな視線を受けるイージア。
「このローブは汚れない。自動修復されるし、においもつかない……いや、林檎のような匂いがデフォルトか」
作成者の好みで林檎の匂いがつけられるようになった。近づけて嗅げば分かる程度のものだが。
「え、なんだそれ。じゃあ雑巾代わりにも使えるのか?」
「まあ、そうだな。もちろんそんなことには使わないが」
「へえ……そんだけ便利だと盗まれそうだ」
「盗まれたとしても、このローブは私の手元に自動で転移させることができる。火口や深海に沈められても傷はつかないし、取り戻せる」
「なんだそれ……」
ローブの驚異的な性能に若干引き気味になるリグス。対してアリスは目を輝かせていた。
「おーい皆さん! そろそろ出発しますよ!」
御者に呼びかけられ、三人は馬車に乗り込む。決して豪奢な馬車とは言えないが、移動手段としては十分なものだった。
車窓からは王都へと続く道がなだらかに見られ、遥か彼方まで広がる平野が一望できた。
「わあ、私馬車に乗るのってはじめてなんです! これが旅、ですね!」
「アリス様、あまり窓から身を乗り出さぬよう」
はしゃぐアリスに、諫めるリグス。二人はまるで親子のようだったが、実際その程度の歳の差はあるのだろう。サーラライト族は身体、精神ともに成長が人間よりもきわめて遅い。
成人の身体になるまでは人間と同様の年月を要するが、そこから姿を保って数百から数千年生きるともされている。人間の価値観では計り知れない種族なのだ。
涼しい風が車窓から吹き抜け、イージアの頬を撫でた。
さわやかな風を感じ、窓の外を流れる平和な草原を見ていると心が洗われるはずだった。
なんら不穏の影を見せぬ世界。だが、確実に災厄がこの世界に潜んでいる……その事実が彼の頭を支配し続け、どんな美しい風景も彼の心を打つことはなかった。




