番外編:ミーアの忙しい一日
その日のミーアは忙しかった。
「おはよう、ミーア」
「ん、……」
優しく額に口づけられ、ミーアはうっすらと瞼を押し上げた。瞳に映るのは最愛の夫・クラウス・ディアメトロだ。ミーアは嬉しそうに目を細めると、ゆっくりと体を起こしそっと彼にキスを返す。
「おはようございます、クラウス様」
「ああ」
まどろみの混じった穏やかな時間。半年前までは考えられなかった甘い関係性に、ミーアは幸せを噛みしめていた。
すると先に起きたクラウスが、何やら部屋の中を見回している。
「クラウス様? どうなさいましたの」
「あ、いや……ミーアが、ああ、猫のミーアがまだ戻っていなくてな」
「⁉」
「昨日から見かけていないんだ……使用人たちも見ていないというし、一体どこまで遊びに出たのか……」
「そ、そうなんですのね……」
「午前中に戻らなければ、一度捜索隊を出そうと思う」
その大仰な単語を聞き、ミーアはぴょんことベッドの上で飛び上がった。
「き、きっとすぐ戻ってきますわ! 大丈夫です!」
「だと良いんだが……結局、君にもまだ見せてあげられていないしな。つくづくタイミングが悪いというか……」
(……)
ミーアは内心滝のような汗をかきながら、楚々とした態度で寝台を下りた。寝起きでありながら完璧な美貌を披露しつつ、クラウスに向かってぺこりと頭を下げる。
「申し訳ございませんクラウス様。わたくし、朝の支度に戻りますわね」
「ああ。また昼にでも」
「はい」
にこやかに微笑みつつ、そっと主寝室の扉を閉める。クラウスの目がなくなった途端、ミーアは貴婦人としてはちょっとどうかと思われる勢いで自室へと駆け戻った。
(い、急ぎませんと……!)
自室に戻ると、見慣れたメイドたちが主の帰還を歓迎する。だがミーアはほどほどにそれを受け取ると、またも美しい笑顔のまま口を開いた。
「すみません。午前中は少し集中してお勉強をしたいので……誰も部屋に入らないでいただけますか?」
その勤勉ともとれる言葉に、かつてのミーアを知るメイドたちははわわと感激する。もちろんですぅ! とするべき仕事だけをすばやく終えると、嵐のような勢いで姿を消した。それを見送りながら、ミーアは何とも言い難い罪悪感だけを抱く。
(うう、ごめんなさい……お勉強は今度、本当にちゃんとやりますから……)
殊勝に両手を合わせた後、ミーアはそそくさと鏡台の前に座った。
ピンク色の光を弾く白銀の髪。夏の新緑を押し固めたような瑞々しい翠眼。相も変わらず花のようなかんばせの美少女は、自らの顔をじっと睨みつけた。そのままむむむと何かを思い出すかのように険しく眉を寄せる。
次の瞬間、ぽん、と軽い音を立てて、ミーアの頭から三角形の耳が生えた。ぴこぴこと動かせることを確認した後、ミーアはさらに顔に力を込める。するとぴん、と頬の辺りから髭が飛び出し、やがてミーアの姿は鏡から消えた。
(で、出来ましたわ……)
半年前、魔女にかけられた『氷姫の呪い』。
色々あって無事戻ることは出来たのだが――どうしたことか呪いの後遺症として、ミーアは時折猫に変身してしまうようになった。
最初は心拍数の上昇に合わせて好き勝手に変貌していたミーアだったが、最近少しだけ調整が出来るようになった。猫になりたいと願う時は、クラウスのことを思い出して意図的にドキドキすればいいのである。
ぶにゃあああ、と馴染みのあるだみ声で一鳴きした後、ミーアは猫用に設えられた小さな扉をいそいそとくぐり、廊下へすぽんと飛び出した。
(早く行きませんと……捜索隊なんて出されたら大変ですわ!)
先ほど全速力で戻って来た道を、再び短い手足の振り幅一杯で駆け戻る。ミーアの時は何ともなかった高さのドアノブに必死になって飛び上がり、ようやくかちゃりと隙間が開ける。
『うるにゃ、ぶにゃあああ……』
「! ミーア!」
ミーアが声を上げた途端、執務机に向かっていたクラウスががたんと立ち上がった。長い足があっという間に近づいて来て、ミーアを軽々と抱き上げる。
「良かった……一体どこに行っていた? 心配したぞ」
『ぶ、ぶにゃああ……』
(い、言えない……ついさっきまで、一緒にベッドにいましたなんて……)
ぶにゃにゃと愛想笑いを浮かべるミーアを、クラウスは愛しそうに撫でる。喉元をくすぐるように指が動き、ミーアは思わずぐるるると声を上げてしまった。
「はは、相変わらず可愛いな」
(うう、恥ずかしいですわ……)
やがてクラウスは執務机に戻ると椅子に腰かけ、自身の膝にミーアを座らせた。もはやおなじみとなったその場所に、ミーアはほうと体を預ける。
(でもここは安心しますわ……んん、やっぱりこの体になると、眠気が……)
ぐぐっと伸びをしてミーアは腕を伸ばす。指先から小さい爪がにょきりと生え、すぐに真ん丸な手の形に戻った。そのままぐりぐりとクラウスに頭を押し付けると、ミーアは心地よいまどろみに誘われるようにそっと目を閉じた。
やがてコンコン、というノックの音がし、ミーアはぱちりと目を開けた。耳をぴんと立てていると執事が現れ、クラウスに昼食の準備が出来たことを告げる。
だがクラウスが立ち上がるのに合わせて、ふと不安な表情を垣間見せた。
「旦那様、その」
「どうした?」
「いえ、奥様もお呼びしたのですが、どうやらお返事がいただけないらしく……」
「何故だ? 今日は出かける予定ではなかっただろう」
「それがその、部屋で勉強をするから、声をかけないで欲しいと言われたらしいのですが……昼食の時間となっても、室内から物音一つしないそうで……」
(い、いけませんわ!)
ミーアは二人の会話が終わるのを待たず、すばやくクラウスの部屋から飛び出した。あっと驚くクラウスの声に後ろ髪を引かれつつも、たったかと四つ足を走らせる。
ようやくたどり着いたミーアの部屋の前には、心配そうなメイドたちが集っており、猫のミーアはむむと眉を寄せた。
(困りましたわ、このままでは部屋に……あ、あれは!)
ミーアは一気に速度を落とすと、廊下に並んでいた飾り台の下に滑り込んだ。そこに落ちていたミーア用のおもちゃを咥えると、勢いよく(口で)振りかぶる。ぴょい、と軽快な音をして転がっていったそれに、メイドたちはきゃあと蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
(今ですわ!)
その一瞬の隙をついて、ミーアは自室の扉――クラウスがつける時に、ぜひ自分の部屋にもと頼んで開けてもらった猫用の小さい扉に突進する。その勢いのまま鏡台の椅子に飛び乗ると、ミーアはむむむと頭に短い手を当てた。
すると朝とは真逆の手順で、人間の姿へと様変わりする。
髭の残りがないかだけを確認すると、ミーアはわずかな息切れを残しながら、ゆっくりと扉を開けた。廊下には逃げ出したはずのメイドたちが戻ってきており、ミーアは何ごともなかったかのように清楚に微笑む。
「すみません、ちょっと集中していて、気づくのが遅くなってしまいました。すぐに参りますね」
慌てて昼食の席に向かうと、クラウスは既に席についているところだった。申し訳ございません、ミーアも慌てて向かいに着座する。
するとクラウスがじっとこちらを見つめており、ミーアはどきりと身を正した。
「ク、クラウス様? どうかされましたか」
「ああ、いや」
まさか猫になっているのがばれた⁉ とドキドキするミーアに対し、クラウスはしばし何かを確かめるようにこちらを眺めていたかと思うと、ふ、と堪えきれないといった笑いを零した。
「ミーア、それは……寝ぐせか?」
「え?」
「前髪。ひと房だけ、変な方向に跳ねているが」
「へ⁉」
クラウスが自身の髪を示す姿を見て、ミーアも同じ場所に手を当てる。すると確かに他の流れを無視するように、ぴょこんと変な向きの髪があり、ミーアはまるで毛づくろいをするかのように何度も撫でた。
だがいくら正しても頑固な寝ぐせは直らず、ミーアはかああと頬に朱を走らせる。
(さ、さっきクラウス様の膝で寝ていた時に、ついたんですわ……)
もう少しちゃんと確認すれば良かった、とミーアは恥ずかしいやら情けないやらという気持ちのまま、しおしおと食事を始めたのであった。
その後もミーアは大忙しだった。
昼食が終わると、クラウスはミーア用のご飯を持って部屋に戻って行く。それを見たミーアは再び自室に駆け戻ると、猫の姿に変身し、二度目の昼食をとる羽目になった。
もう食べられない……とぐったりしていると、眠くなったと勘違いしたのか、クラウスが籠に運んで毛布を掛けてくれる。するとミーアもまたすよすよと寝息を立て、眠りの沼に落ちてしまうのだ。
だがふと呼ばれた気がして目を覚ますと、今度はミーアをお茶に誘おうとクラウスが話しているのを聞いてしまう。本日何度目かになる廊下を走駆すると、ミーアは再び素知らぬ顔をして部屋から出てくるのであった。
(……今日は……一段と忙しかった気がしますわ……)
普段のクラウスは領地に視察に出ていることも多く、ここまでミーアと顔を合わせる日は少ない。久しぶりに自宅にいるのだから、と気を遣った結果でもあるのだろう。
人間と猫の二回の夕食を終え、ようやく人型に戻ったミーアはやや疲れた様子で主寝室へと向かった。中に入るとクラウスがベッドに座っており、どうした? とばかりに首を傾げている。
「大丈夫か? 少し疲れているようだが」
「い、いえ! 何でもありませんわ」
するとクラウスは、ちょいちょいとミーアを手招きした。ミーアがそろそろと近づくとぐいと腕を掴まれ、そのままベッドの上で抱きしめられる。
「ク、クラウス様?」
「その……俺では頼りにならないかもしれないが……無理だけはしないで欲しい」
猫の体で抱きしめられている時よりも、ずっと近くにクラウスの体温を感じる。息遣いや心臓の鼓動、わずかな声の震えを感じ取り、ミーアはたまらずぎゅっと身を固めた。
だがすぐに微笑むと、たどたどしく抱きしめ返す。
「ご、ごめんなさい。本当に何でもないんですの」
「本当に?」
「はい」
嘘をつくことの申し訳なさはあったが、ミーアはクラウスの優しさに心から感謝した。やはり早く元に戻る方法を探さなくてはと思う一方で、猫のミーアでしか見られない愛情表現も実はとても好きなのだ。
(ごめんなさいクラウス様……人でも猫でも、あなたに甘えてしまって……)
猫であった時の癖で、ミーアはこつんとクラウスの頬に自身の鼻を寄せた。するとクラウスはくすぐったいというように微笑むと、すぐに体の向きを変え、ミーアに覆いかぶさるように口づける。
長い沈黙の後ようやく唇が離れ、額を寄せ合うようにして二人は毛布にくるまった。まるで二人ともが猫になってしまったかのような暖かさの中、ミーアとクラウスは幸せそうに視線を交わし、そのまま静かに眠りに落ちるのだった。
その翌日。
(な、なんで、猫になってますのー⁉)
目覚めた瞬間、目の前にあったふわふわの肉球をぶるぶる震わせながら、ミーアは心の中だけで絶叫した。幸いクラウスより先に目覚めたので、早く逃げ出さなければと体を起こそうとする。
だが寝ぼけているのか、クラウスはミーアの体をがっしりと押さえており、柔軟なはずの猫の体をもっても抜け出すことが出来ない。
(ど、どうなっていますの⁉ た、助けてくださいませ!)
『ぶなあ、ぶなあああ!』
「ミーア……相変わらず、可愛い声だ……」
むにゃむにゃ、と寝言を続けるクラウスを見つめながら、ミーアはやっぱり早く人型に戻りたい! と強く願うのであった。
(了)





