第四章 新たな生活の始まり
淡いピンクをたたえた白銀の髪。
エメラルドのような見事な碧眼。
細くて華奢な手足。
化粧台の前に座り、鏡に映る自身の姿を見ていたミーアは、しげしげと目を凝らした。
(本当に……人間に戻れたのですわ……)
一か月そこらしか経っていないはずなのに、自分の顔は本当にこんな感じだったのだろうかと心配になり、ミーアは何度も角度を変えて確かめる。
クラウスの丁寧なブラッシングによって艶々と輝いていた銀の毛皮も、ミーアの気持ちを誰よりも代弁してくれた長い髭も、立ち上がったりへたったりと忙しかった耳もなくなってしまい、ミーアはどことなく寂しさを感じていた。
だかすぐにぶんぶんと首を振る。
(で、でも、この体でないとクラウス様とお話しできませんし!)
やがて朝の支度を手伝いにレナが姿を見せた。鏡越しにそれを見つけたミーアは急いで立ち上がると、レナの傍に駆け寄る。
「レナ! ありがとうございます!」
「お、奥様⁉ ど、どうされましたか?」
突然のことに驚くレナを見て、ミーアはあっと口を押さえた。
猫だった時、毛布をくれたお礼を言いたくて仕方がなかったのだが、よく考えてみればレナはあの猫がミーアだったことを知らない。
説明したところで『まだ呪いの影響が残っているのでは……』と訝しがられるだけだろう。
「あ、ええと、その……い、今まで、助けていただいたことを、思い出しまして……」
「奥様?」
「……これまでたくさんわがままを言って、あなたに八つ当たりのようなことをして……申し訳ありませんでした。あなたの言う通り、クラウス様は本当にわたくしのことを、大切にしてくださっていましたわ」
以前とはまるで違う殊勝な態度のミーアを前に、レナはなんと発していいか分からなくなっているようだった。
しかし意味を理解した途端、ぽろりと一粒の涙がレナの目から零れ落ちる。
「奥様……」
「どうかこれからも、わたくしが至らないことがありましたら、教えていただけないでしょうか」
「そ、そんな⁉ 私が奥様になんてとても‼」
「お願いします。わたくしはこれから、クラウス様の妻として、ちゃんとした自分になりたいのです」
その凛然とした言葉に、感極まったレナはさらに泣き出してしまった。どうしましょう、と慌てたミーアがハンカチを差し出すと、レナはありがとうございますと受け取り、さめざめと目元を拭う。
そうこうしているうちに、いつものように部屋に朝食が運ばれて来た。女中が食事の準備を整えてくれている間に、クラウスの執事が突然姿を見せる。
「――奥方様、旦那様からこちらに来るよう申し付けられたのですが」
「あ、は、はい!」
泣きじゃくるレナを慰めつつ、ミーアはすぐに背筋を正した。猫だった頃の名残だろうか。ミーアはいまだこの執事に対して、少しだけ恐怖心があった。
ミーアが絶えず執務室にいるのが気に入らなかったのか。クラウスをただの猫好きに変貌させてしまったことが憎かったのか。それとも単に猫嫌いなのか――理由は結局分からないままである。
だが彼をここにまで呼びつけたのは、他ならぬミーア自身だ。
「こんな早くに申し訳ございません。でもどうしても、お願いをしておきたくて……」
「いかなるご用件でしょうか?」
「我が家の使用人たちの食事について、何か決まり事はあるのでしょうか?」
ミーアの意外な問いに、執事はわずかに目を見開いた。
「……いえ。私ども上級使用人と、それ以外に多少の差はございますが、他家と比べましてもごく一般的な内容です」
「それでしたら、皆さまが食べる食事の内容を、少し変えていただきたいのです」
「と、おっしゃいますと……」
自分はそれほど食べるわけではないので量を減らしてほしい。その分、下級の使用人たちの食事の品質をあげてもらえないか、と話すミーアを、執事は信じられないものを見るような目で凝視していた。
「使用人たちの取り計らいはあなたに一任されているとお聞きしました。もちろん、クラウス様の了承はわたくしからいただいております。もし予算的に問題がないのであれば、検討していただけないでしょうか?」
「……それは、ええ、はい」
少しだけ困惑した色を滲ませていた執事だったが、やがてきっちりとした礼をミーアに向けると静かに部屋を後にした。
一気に緊張の糸が切れ、ミーアははああと息をつく。
よく考えてみれば――以前のミーアはクラウスの予定を聞く以外、あの執事とまともに話をしたことがなかった。
こうした邸や使用人のことを提案したのは初めてかもしれない、とミーアは感慨にふける。
さらにその後、朝食を終えたミーアは、レナに家庭教師の派遣を依頼した。今まで断り続けていたのにどうして、というレナの驚きが口にせずとも表情で分かり、ミーアは思わず苦笑する。
「その、もう少し……きちんと勉強しようと思いまして」
「お、奥様……!」
ついでにダンスの講師もお願いすると、レナはすぐさま了承し、風のような速さでミーアの私室を後にした。
一人になった部屋で、ミーアは鏡に映った自分の姿をしっかりと眺める。
(わたくしはもう、目を瞑るのをやめますわ)
可愛い可愛い宝石姫。
ちやほやされて、褒めそやされて。
自分は人から愛されるのだという絶対的な自信の中で、ミーアはずっと夢を見ていた。
でもその愛はとても儚いもので――ミーアは猫になったことで、それを痛感したのだった。
廊下でふと誰かの声がした気がして、ミーアは楚々と扉を押し開いた。すると廊下の向こうから、クラウスが「ミーア、ミーア」と呼んでいる。ミーアはぱあと顔をほころばせると、嬉しそうに廊下を渡った。
「クラウス様、お呼びになりましたか?」
「あ、いや、その……すまない、君ではなくてだな」
「はい?」
「じ、実は……君がいない間に、猫を拾ったんだ。その……君の目とよく似た色をしていたから、つい、その……『ミーア』と名付けてしまって……」
「――!」
その言葉に、ミーアはようやく自分の勘違いに気づいた。
クラウスが呼んでいたのは、今朝から姿の見えない『猫の』ミーアであり、『人間の』ミーアではなかったのだ。言われてみれば、ミーアに会いたいのであれば部屋に来ればいいわけで――と自らの浅慮さに赤面する。
だがクラウスはさらに、ぎこちなく言葉を続けた。
「そ、それで、その……さすがに、少し、離れてもらいたいんだが……」





