第三章 10
「ミーア……いいんだ」
『ぶなっ⁉』
「ミーアはきっと……俺の元に、帰りたくないんだろう」
『ぶなあああー⁉』
クラウスの言葉を、ミーアは必死になって否定した。
だがクラウスは、棺を挟んでミーアの反対側に腰を下ろすと、凍えるミーアの頬にそっと手を伸ばす。
「……当たり前だ。俺は彼女に酷いことばかりしてきた」
『……』
「懸命にこの家に馴染もうとしていた彼女に、いつも冷たく当たっていた。格好悪いところを見せたくないと、自分を偽り続けていた……」
(クラウス様……)
「無様でも、格好悪くても、もっと彼女の傍にいればよかった。いつか大人の男になったらなんて――君がいなくなったら、何の意味もないのに」
冷たく凍り付いたミーアの手に、クラウスは自身の手を重ねあわせた。そのままクラウスはいつものように――静かにぼろぼろと涙を零す。
「ミーア……ごめん。俺は、本当に、だめな男だった……」
(クラウス様、違いますわ、わたくしの方こそ、なにも……)
「でも俺は……君のことが、本当に、本当に――好きだったんだ……」
やがてクラウスは体をかがめ、眠り姫と化したミーアの唇に口づけた。まるで別れを告げるかのようなその光景を前に、ミーアはいやいやと首を振る。
(だめですわ……わたくし、クラウス様に、何も伝えていませんのに……)
今までたくさん、わがままを言ってごめんなさい。
嫌われていると思い込んで、冷たい態度をとってごめんなさい。
それから――
(好き、です)
自分の体のはずなのに、まるで全然知らない女性とキスをしているかのようで――ミーアの小さな胸は、ぎしりと痛んだ。
ミーアの棺の前で毎日のように泣いてくれたこと。
こんな姿になった自分にも優しく接してくれたこと。
本当は、ミーアのことをずっと大切に思っていてくれたこと。
(あなたが、好きなのですわ)
どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。
そうすれば、言葉でも伝えられたし、ぎゅっと抱きつくことも出来た。クラウスが好きだという気持ちを表す方法は、いっぱいいっぱいあったのに。
この――濁った声と短い足では、それすら叶わない。
『ぶにゃ……』
ミーアの目から、ぽろりと涙が零れた。
エメラルドのような瞳から、大粒の雫がぴちゃん、と棺の中に落ちる――その時だった。
(……?)
ミーアの涙が触れたところから、薄緑の光が浮かび上がった。
それは次第に凍り付いたミーアの体を覆いつくし、うっすらとした輝きを纏い始める。
目を閉じたままのクラウスは気づいていないらしく、ミーアはその情景になぜかうっすらとした確信を得る。
(……もしかして、今なら、戻れますの?)
お腹の奥が、ぞわぞわと浮き立つ。
初めての感触にミーアはうろたえたが、同時に『今しかない』という予感があった。
(――神様、お願いします。これからは、ちゃんとお勉強もいたします。ダンスのレッスンもしっかりとやります。食事も好き嫌いなくいただきます。それから、それから……)
ふわり、とミーアの体の中心が暖かくなる。
(クラウス様に、好きだと、伝えたいのです。だから、だから――どうかわたくしを、元に戻してくださいませ……!)
強く願ったその瞬間、ミーアは奇妙な浮遊感に包まれた。頭の中が真っ白に塗りつぶされ――まばゆい光に意識が飛ばされる。
わずかな空白の後、ミーアはどくん、という心臓の一音を聞いた。
「……?」
慣れない感触に、ミーアは体を強張らせた。
全体的に軽い――細くてもろくて、頼りない感じだ。
(……なん、ですの?)
手足を動かそうと思ったが、まるで全身が金属になってしまったかのように、微動だにしない。
ミーアは仕方なく、首から上に意識を集中させてみた。
幸い顔はそれほど固まっておらず、ミーアは呼吸出来るかを確認する。無事に息をしていると分かると、今度は瞼に力を込めた。
だがこれもまた、霜で貼りついたかのようになかなか開くことが出来ない。
(う、ううーん)
ようやく睫毛が動き、ミーアはうっすらとした光明を得た。
青を基調とした礼拝堂の天井。ステンドグラスから差し込む朝日。そして――真っ赤に泣き腫らした目を、大きく見開いたクラウスの顔。
驚きに言葉を失っているクラウスを見つめると、ミーアはゆっくりと目を細める。
「クラウス、様……」
「ミーア……?」
美しい鈴のような声に、ミーアは最初誰がしゃべったものなのかよく分からなかった。だがすぐに自分が発したものだと気づき、ふふ、と思い出し笑いを浮かべる。
やがて他の器官も活動を始めたのか、ミーアの体に少しずつ暖かさが戻ってきた。
「クラウス様……本当にクラウス様ですわ……」
「ああ、俺だ。ミーア……本当に、ミーア、なのか……?」
はい、とミーアが答えるのを見て、クラウスは何度も目をしばたたかせていた。その直後、ようやく引っ込んでいた涙腺から、クラウスは再び涙を沸き上がらせる。
端正な顔が台無しになるほど泣き続けるクラウスを見て、ミーアもまた喜びの涙を滲ませた。
やがてクラウスは人目もはばからず、ミーアを腕の中にかき抱いた。冷え切った肌が、クラウスの腕の中で少しずつ溶かされていく――その幸せな感触に、ミーアは甘えるように彼に頬をすり寄せる。
「ミーア、本当に、本当に良かった……」
「……クラウス様」
「ミーア……」
痛いくらいに抱きしめてくるクラウスを愛おしく思いつつ、ミーアは彼の背後に目を向けた。
そこには安堵と感動のつられ涙を零す魔女と、初めて見る友人の取り乱しぶりに放心状態のラディアスがおり、ミーアは夢ではなかったと確信する。
しばらくして、ようやく涙を落ち着けたクラウスが、ミーアを腕に閉じ込めたまま呟いた。
「もう二度と……俺の、ところに……戻ってこないかと、……おもった」
「どうして、そんなことを?」
「だって俺は……君に、嫌われていて……だから君は……」
素直な言葉を告げる――そこに、かつてミーアが恐れていたクラウスはいなかった。
必死になって演じてきた有能な姿も、表面上だけの冷静な姿も、すべて跡形もなくなっており――その姿は、ミーアが猫だった頃に見てきたものとまったく同じものだった。
ミーアは黙ってクラウスの言葉を聞いていたが、すぐにふるふると首を振った。クラウスの体をそっと押すと、彼の顔を覗き込む。
「わたくしの方こそ、今まで本当に申し訳ございませんでした」
「ミーア……?」
「クラウス様の気持ちを考えず、勝手なことばかりして……ごめんなさい」
ミーアはそのまま、彼の胸に置いていた手をすっと持ち上げた。白く繊細なミーアの指がクラウスの首筋を撫で、そのまま彼の頬に添えられる。
「ミ、ミーア?」
「クラウス様……好きです」
そう言うとミーアは、咲き初めの薔薇のように美しく微笑んだ。
一方クラウスは、言われている言葉の意味が分かっていないのか、しばしきょとんと瞬いている。だが次第に首からじわじわと赤味が差してきて、恐る恐る問い返してきた。
「ミーア? 君は一体、何を……」
「しゃべれるようになったら、一番に言おうと決めていましたの。クラウス様、好きです。大好きです!」
「わ、わかった! 分かったから‼」
するとクラウスはばっと後ろを振り返り、アイリーンに向かって目だけで合図をした。
どうやら魔法のミスを疑っているのか、確認のためかしきりに首を振っている。だがアイリーンは『魔法には問題なし。それは間違いなく本人』とジェスチャーで返した。
それを目にしたクラウスは、慌ててミーアの方に顔を戻す。
「ほ、本当にミーアなんだな?」
「本物ですわ! どうして疑いますの?」
「い、いや、だって……」
「思い出だってすべて覚えていますわよ! わたくしがクラウス様の寝室を初めて訪れた時、なんと言って帰されたかだって……」
「分かった! 分かったから、それは言わなくていい‼」
いよいよ顔中を赤く染めたクラウスが、慌ててミーアの口を手でふさいだ。その体勢のまま二人はしばらく沈黙していたが、やがてどちらともなく笑みを漏らす。





