第三章 9
その夜、一行は夜明けを待たずにクラウスの邸へと移動した。
ミーアはクラウスの外套に包まれたまま彼の馬に、アイリーンはラディアスの背に掴まっている。魔法でも移動は出来るが、解呪のために力を温存したいらしい。
移動中、すべての事情を聞いたラディアスは、見るも無残になった美貌をしかめた。
「ミーアが、そんなことになっていたなんて……」
「すべてお前のせいだ! お前が俺の名を騙ったりするから!」
「ごめん! 本当にごめん!」
「あといい加減言おうと思っていたんだが、俺の妻を名前で呼ぶのはやめろ! イライラする!」
「それもごめん!」
「いいから急いで! 早く解法を行わないと……!」
並走する馬で言い争いをする男たちを、アイリーンは迫真の表情で急かした。焦燥する魔女の様子を見て、クラウスは馬に拍車を押し当てる。
ミーアもまた、荒々しく揺れる馬から振り落とされないよう、必死になってしがみついた。
やがて森を抜け、王都を背にして走ること数刻――レヒト公爵家の領地に差しかかった。舗装された街路を二頭の馬が駆け抜け、ようやくクラウスの邸へと到着する。
ミーアを迎えに行ったクラウスを心配してか、外門には執事を始め、他の使用人たちが勢ぞろいしていた。
「悪いが、馬を頼む」
「かしこまりました」
出迎えへの感謝もそこそこに、クラウスはミーアを抱えて馬から飛び降りると、礼拝堂へと急ぐ。その後にラディアスとアイリーンが続いたが、それを見た使用人の何人かは、あの時の魔女だと動揺を隠せなかった。
だがそれを諫める間もなく、三人は慌ただしく移動する。
「こっちだ」
なかば走るような速度で邸の中を通過し、クラウスは廊下の先にある扉を開けた。礼拝堂――静謐な空気に包まれた懐かしい光景に、ミーアは「ようやく戻って来たのだわ」と実感する。
だが追憶に浸る暇はなく、三人と一匹はミーアの棺の前に立った。凍りついたミーアを初めて見たラディアスは、驚きで口元を押さえている。
クラウスは荒々しい呼吸を吐き出しながら、アイリーンに視線を向けた。
「アイリーンと言ったな。何か必要なものはあるか」
「いいえ。これだけ完璧な状態で残されているのであれば、おそらくは……」
やがてアイリーンは、すうと息を吐きだした。
棺で眠るミーアの額に杖の先端を向け、まるで物語を語るかのように音を紡ぐ。
『氷の聖霊よ、我が祈りに答えよ。汝が力、我が元に帰りよ。あえかなる魂よ――この者のあるべき姿として、その肉体に還り給え――』
差し出された杖の先から、発光する二重の円が映し出される。円の中には、幾何学的な文様や異国の言語がぎっしりと描かれており、ミーアははらはらとした面持ちで自身の体を見つめた。
やがて光は薄いベールを下ろすようにミーアの体に降り――そのまま、無音の時が流れる。
痺れを切らしたクラウスが、アイリーンに問いかけた。
「……どうだ」
「……」
だがアイリーンは答えず、再び同じような言葉を口にする。
そのたびに似たような意匠が浮かび上がり、氷漬けのミーアを覆いつくすが――何度試しても、結果は変わらなかった。
やがてアイリーンは、その場にどさりとへたり込む。
「ど、どうし、よう……」
「まだ諦めるな! 言え、何が必要なんだ!」
「術は完璧にしているわ! でも……戻らないの!」
「戻らない……?」
「この子の『魂』が……体に返ろうとしていない……」
『魂』という言葉に、ミーアは耳をぴんと持ち上げた。
たしか、魔術師が必要だと言っていたものだ。
「この術を使うと、肉体と魂が分断される。でも魂は……肉体との結びつきがすごく強いものだから、体が眠っている間は近くにとどまっているものなの。だから術を解きさえすれば、大抵はきちんと元通りになるはずなのに……」
アイリーン曰く、ミーアにかけた『氷姫の呪い』――こう呼んでいるのは魔術師たちだけで、アイリーンたち魔女は『眠りの魔法』と呼んでいる――は、比較的解除しやすい魔法なのだという。
そのためアイリーンも、ついかっとなってミーアを襲ったものの、ラディアスから事情を聞くか、取り返しがつかなくなる前までには戻すつもりだったらしい。
「……ミーアの魂が、ここにいない、ということか?」
「断言は出来ないけれど、おそらくは……。魂が肉体を離れて、遠くに移動してしまっているとしか……」
(わ、わたくし、ここにおりますのに⁉)
だが非難の声を上げる前に、ミーアははっと自身の行動を思い出した。
考えてみればミーアは猫になって以来、自分の体と離れている時間が長かった。クラウスとともに礼拝堂を訪れる機会はあったが、それ以外は常にクラウスの傍にいたからだ。
もしもそれが、魂が上手く体に戻らないことに影響しているのだとすれば……。
(わ、わわ、わたくし、もう、戻れませんの……?)
ようやく助かると思っていた――希望の糸が、突然ぷつりと途切れた気がした。ミーアの視界がじんわりと滲み、ぼろぼろと涙が零れてくる。
『ぶにゃあ……』
「ミーア……?」
『ぶにゃああ、ああ……なぁ……』
悲痛な鳴き声を上げるミーアを見たクラウスは、すぐに顔を上げるとアイリーンに対して声を荒げる。
「魂があればいいのか⁉」
「……」
「俺が探してくる! 言え、一体どうすればいい⁉」
しかしアイリーンは、クラウスの目を見て弱々しく首を振った。
「魂は……目には見えないわ。あらかじめ準備していれば、人形とかにとどめることは出来たけど……」
「でもどこかにあるんだろう⁉ なら……!」
「魂が自分から離れたと言うことは……『この場所にいたくない』という意味でもあるの……。だからきっともう、彼女の魂は……」
「……!」
(ち、違いますわクラウス様! わたくし、ここにいますわ! いたくないなんて、まったく、これっぽっちも思っていませんわ!)
ミーアは必死になってクラウスの足元に縋り付く。
だがクラウスはアイリーンの言葉にショックを受けているのか、真っ赤な目を大きく見開いたまま完全に硬直していた。
まるでこの世のすべてに絶望したかのような――その様子を見て、ミーアはさらに『ぶにゃう! ぶにゃう!』と泣き叫ぶ。
だがミーアの言葉も虚しく、クラウスはぽつりと掠れた声を落とした。
「……ミーアが、ここに、いたくなかった……?」
「も、もちろん、それだけが理由とは限らないわ! 何か、ひょんなことがきっかけで、戻ってくることもあるし……」
「……」
急激に覇気を失ったクラウスに、アイリーンとラディアスはかけるべき言葉を失ってしまう。
少しだけ頬の腫れが引いてきたラディアスが、おずおずとアイリーンに提案した。
「ほ、他の方法はないのかい?」
「……望んでいない魂を呼び戻すのは、相当難しいわ。たとえ見つけ出せたとしても、……彼女が望んでいなければ、この体に返って来てくれるかどうか……」
(だからわたくし、望んでいますのに! どうしてですの⁉)
もしかして、このぬいぐるみの体に馴染みすぎて、元の体に戻れなくなってしまった⁉ と考えたミーアはぶわりと全身の毛を逆立てた。眠り続ける自身の体に駆け寄ると、ていてい、と短い前足を必死に伸ばす。
しかし、愁然としたクラウスからやんわりと止められた。





