第三章 8
「――じゃあ! どうして突然私の前から姿を消したのよ!」
「……それは」
「突然連絡も取れなくなって、私、心配で……」
「それもぼくのせいだ。その……ぼくはここしばらく、実家から出られない状態に置かれていたんだ」
その言葉にミーアははて? と首を傾げた。
同じく物言いたげなクラウスに気づいたのか、ラディアスはこちらにも目を向ける。
「クラウス、君には軽く言ったけれど――ぼくは今、外出を厳しく制限されている。君の邸にだけは、事情を伝えたいからと説得して、無理やり二度ほど時間をもらったけどね」
「……二度? もしかして、最初にお前が来た用事というのは……」
「君に相談したかった。ただ出かけていて、打ち明けられなかったけれど」
(……ではあの日が、最初で最後のチャンスでしたのね……)
ミーアが猫になったあの日。
クラウスが視察に出ていなければ。
ラディアスが悩みを相談できていれば。
魔女が勘違いをしなければ。
――こんな悲劇は起きなかったのだろう。
やがてアイリーンが、困惑したようにラディアスに問いかけた。
「ま、待って、ええと、ラディアス? 一体どういうことなの?」
「ごめんアイリーン。ぼくは――他の女性との縁談を考えていた」
「はあ⁉」
すばやく箒を構えたアイリーンに向けて、ラディアスは大慌てて両手を上げた。ミーアは「またあの惨劇が⁉」と身を固くし、それに気づいたクラウスがぎゅっとミーアを抱きしめる。
するとラディアスが、悲痛な声で弁明した。
「ま、ま、待ってくれ! その縁談は、ついさっき、断って来たところなんだ!」
「断って……来た?」
「……家に軟禁されて、ぼくはようやく気付いたんだ。ぼくはずっと爵位や貴族というものに縛られていて、それのせいで幸せになれないのだと思い込んでいた。だからこの縁談を受ければ、そんな自分から変われるんだと……」
一度言葉を途切れさせたラディアスは、静かに首を振った。
「でも違った。ぼくは――君といる時が、一番幸せだった。家も名前も気にしなくていい。ただの男として見てもらえることが、本当に嬉しかったんだ。だから……家族の反対を押し切って、縁談を白紙にしてもらった」
「……ラディアス……」
「――君が好きなんだ、アイリーン」
そう言うとラディアスは、アイリーンの前に立った。
アイリーンはしばし箒を構えていたが、やがて観念したようにため息をつくと、ようやく箒を脇に立てかける。
ラディアスは、そんなアイリーンの手を取ると、真剣な眼差しで口にした。
「名前を偽っていて、本当にごめん。でも君と過ごした時間も、ぼくの思いも、これだけは嘘なんかじゃない」
「ラディアス……」
「何度でも言うよ、アイリーン。君が好きだ。ぼくと……結婚してほしい」
驚きに目を見開くアイリーンを、ラディアスはぐいと引き寄せた。自らの腕の中に抱きしめると、会えなかった時間を埋めるかのように、彼女の肩に顔をうずめる。
その雰囲気は――長い間、本当に愛しあってきた二人にしか出せないもので、ミーアはラディアスの言葉が、本心から生まれたものなのだと理解した。
長い抱擁の後、腕の中にいたアイリーンがぽつりとつぶやく。
「本当に……本当に、心配したんだから……」
「……ごめん」
「あなたに何かあったんじゃないかって、だから私、あなたの名前を調べて……そうしたら、公爵様だって言われて、おまけに結婚までって……。もう私……わけが、分からなくて……」
「ぼくのせいだ。もっと早くに、本当のことを告白していれば……」
「だから、だから、私……」
ぽろり、とアイリーンの目から一筋の涙が零れた。
普通の少女のように声を震わせ、ラディアスの胸に拳をぶつける。
「私、てっきり……私が『魔女』だと知って、それで、嫌いになったのかと、思って」
「――ッ、違う! 君が誰であっても、この思いは変わらない」
やがてアイリーンの目がゆっくりと細められた。
押し流された涙が雫となって頬を伝う。
それを見たラディアスは、改めて彼女の体を抱きしめると耳元で優しく告げた。
「愛している、アイリーン。どうか、許してほしい……」
「ラディアス……」
腕の中にいたアイリーンが、そっと自身の目の端を拭った。嬉しそうに微笑むと、しっかりとラディアスを見上げる。
そして次の瞬間――
ラディアスに向かって、力の限り拳を叩き上げた。
「――⁉」
殴られた顎を押さえたまま、無様に床に倒れ込んだラディアスを、アイリーンは虫を見るような目で睨みつけた。
「どう考えたって許せるわけないわ! 大体なに⁉ 自分の家柄に自信がないから、友達の名前を借りるとかありえないから!」
「ア、アイリーン?」
「結局あんただって! あたしのこと、家柄で男を判断するような女だと思ってたってことでしょう⁉ 魔女なめんじゃないわよ! 氷漬けにするわよ!」
「ご、ごご、ごめんアイリーン! 本当に、それはぼくの身勝手で」
「うるさいわ馬鹿! 小心者! 意気地なし! 最低男! それからええっと――」
なおも拳を振り上げ、ラディアスを殴るアイリーンだったが、その目からはぼろぼろと涙が零れていた。その姿にラディアスは顔を顰め、「ごめん、」とただそれだけを口にする。
すると、いつの間にかアイリーンの傍に来ていたクラウスが、そっと彼女の手を取った。
えぐえぐと泣き濡れるアイリーンの背中を、クラウスはぽんぽんと優しく撫でており、その光景をラディアスはきょとんとした顔で眺めている。
「まったく――とんだ馬鹿男に引っかかっていたんだな」
「ク、クラウス?」
「あとは俺が変わろう」
そう言うとクラウスは、放心状態で座り込んでいたラディアスの胸倉をつかむと、無理やり引き立たせた。
え、と目を見張るラディアスの横っ面をそのまま力いっぱい殴りつける。ラディアスの体は真横に吹っ飛び、既に半壊状態だった壁をついに全壊にした。
突然のことに目を白黒させるラディアスに向けて、クラウスが吼える。
「お前のせいで! とんでもないことになってるんだ‼」
「え⁉ ど、どういうことだクラウス!」
「後で説明するからとりあえずもう一回殴らせろ! 怒りが収まらん‼」
「え、ええーー⁉」
そこでミーアはようやく、先ほど感じた違和感の正体にたどり着いた。
(そうですわ! ラディアス様は……わたくしの事情をご存じないのでした!)
ラディアスがここに現れた時、クラウスのとの会話に微妙な差異がある気がして、ミーアはずっと疑問に思っていた。
どうやら彼の反応を見る限り、ラディアスは単に『クラウスの名前を偽っていたのがばれた』とだけ思っているらしく、ミーアが生死の境をさまよっていることまでは未だ知らないようだ。
(小さな嘘が、こんな事態になっているなんて思いませんわよね……)
やがて両手をパンパンと払いながら、クラウスが戻って来た。
入れ違うように、ミーアはそろそろと粉塵の向こうに向かう。そこには、一回どころかまあまあ殴られたラディアスが、驚いた表情のまま固まっていた。
真っ赤に腫れた頬に手を添えたまま、近づいてきたミーアを涙目で見つめている。
「い、一体、何が……?」
『ぶなーう』
「お、お前は、クラウスの飼ってた不細工な猫⁉ もしかして、お前だけは僕を慰めようとして――」
(んなわけないですわ! というか、やっぱり不細工って思ってましたのね!)
『ぶるにゃああああう!』
歯を食いしばりなさいませ、とミーアは鳴くと、その短い手で最大級のパンチをラディアスにお見舞いしたのだった。





