第三章 7
クラウスに引き剥がされて、ようやく魔女を解放したミーアは、彼の腕の中で『うなぅ、うなぅ』と嬉しそうに喉を鳴らしていた。
一方二人は一時休戦し、崩壊した部屋の半壊したテーブルで向き合っている。
「で? お前は一体誰だ」
「それはこっちの台詞よ! 突然玄関ぶち壊して入って来たかと思えば、剣を向けるわ誘拐犯扱いするわ、一体私が何をしたってのよ!」
また新たな修羅場が生まれそうな予感を察し、ミーアははっと顔を上げる。
(そ、そうでしたわ! 浮かれている場合ではありませんでした!)
ミーアはクラウスの胸にそっと前足を乗せると、諫めるように『ぶなーう』と口を開いた。
それを見たクラウスは、ミーアが無事であったことに安堵したのか、ようやく自らの失態を認める。
「俺はクラウス・ディアメトロという。この子の飼い主だ」
「……クラウス・ディアメトロですって⁉」
クラウスの名乗りに、魔女は予想以上に反応した。
ミーアはそれを見て、さきほどの魔女の言葉を思い出す。
(やっぱりこの方は……『クラウス様と会ったことが無い』のですわ!)
クラウスが突然出没し、二人が戦いを始めた時は、とんでもない事態になったとミーアは動転していた。だが改めて考えてみると、二人が「面識があった」と断定出来ることは何一つ口にしていなかった気がする。
そして極めつけは、魔女が漏らした『どこの誰だか知らないけれど』という言葉。
(つまり、この方の言うクラウス様は、クラウス様ではない『別人』……!)
ミーアの推理は当たり――このやりとりを経た魔女とクラウスは、ようやく互いの違和感の正体に気づき始めたようだった。
「もしかして、レヒト公爵家? あの大きな屋敷の⁉」
「……大きいかどうかは知らんが、レヒト公爵はこの俺だ」
すると魔女は、そのまま黙り込んだ。
その反応を見たクラウスは、すぐに疑いの瞳を向ける。
「まさかお前――ミーアを襲った魔女か⁉」
「ち、違う! わ、私は、知らなかっただけで!」
「何が知らなかっただ! ふざけるな‼」
再び立ち上がり剣を抜こうとするクラウスに、ミーアが慌ててすり寄った。
(ク、クラウス様! 少しだけ、もう少しだけ話を聞いてください!)
『ぶなーお、なおー!』
「ミーア……」
ミーアの必死な様子に、クラウスは渋々手を止める。
それを見た魔女は、蒼白な表情で呟いた。
「じゃあ……彼は一体……」
(……)
言葉を失う魔女を目にしたミーアは、クラウスの腕からするりと抜け出すと、彼の制止を無視して魔女の元へと歩み寄った。
魔女の顔を覗き込み、『ぶな……』と心配するように声をかける。
(……わたくし、お勉強はまったく出来ませんでしたけど、皆さまのお顔を覚えることだけは得意ですの……)
ミーアが魔女に襲われたあの日。
朝食の時に見かけた使用人。
茶器の準備をしてくれた女中たち。
お茶会に招いた友人。
――その日に会ったすべての人の顔を、ミーアははっきりと記憶している。
(あなたは、勘違いしてしまったのですわ)
その人物は間違いなくあの日、レヒト公爵邸にいた。
だから魔女は疑わなかった――彼こそが、クラウス・ディアメトロであると。
(でも彼は、クラウス様ではなかった。彼は――クラウス様に会いに来た、ご友人だったのです)
その時、半壊した玄関で足音が響いた。
クラウスがすぐに反応して振り返り、魔女もまた陰った顔を上げる。背後から現れたその人物を見て、クラウスが不思議そうに眉を寄せた。
「お前……どうしてここが分かった?」
「……」
そこに立っていたのは、クラウスの唯一無二の友人である――ラディアスだった。
「……あなたは、クラウスではなかったのね」
「アイリーン……」
アイリーンと呼ばれた魔女は、ラディアスを睨みつけると静かに口を閉ざした。その一方で、クラウスは突然現れたラディアスに困惑する。
「ラディアス? ……お前、この魔女を知っているのか」
「……ああ」
「それを、どうしてもっと早く……!」
怒りを露わにしかけたクラウスだったが、すぐに続く言葉を呑みこんだ。今思えば、クラウスは魔女について調査させていた間、ラディアスにはミーアのことを一切話していなかった。
まさか一番身近な人間が、最大の手がかりを握っていたとは思わなかったのだろう。
この場のただならぬ雰囲気に、ラディアスも何かを察したのか、クラウスに向けて「ごめんよ」と告げる。
「まさかこんなことになっているなんて……もっと早く、君に伝えていれば……」
「……いや。俺の方こそ……いままで黙っていてすまなかった。……事情を知らないお前にまで知られたら、本当に、本当に……彼女が戻って来られないような気がして……。どうしても口に出来なかったんだ……」
(……)
二人のやり取りに、ミーアはわずかな違和感を覚えつつ、こくりと息を吞んだ。クラウスがミーアのことを黙っていたのは、むやみに騒ぎを大きくしないためかと思っていたが、彼なりに口にしたくない信条が込められていたらしい。
ラディアスもその心境は理解出来たのか、小さく首を振った。
「君が謝る必要はない。すべて、ぼくが原因なんだ」
そう言うとラディアスは再び魔女――アイリーンへ向き直った。
「アイリーン。今まで騙していて、本当にごめん。ぼくはラディアス。……クラウス・ディアメトロというのは偽名だ」
「ラディ、アス……」
魔女はラディアスと、その隣にいるクラウスを見比べると、もはや疑う余地もないと睫毛を伏せた。
クラウスが説明を促すような目を向けているのに気づき、ラディアスは苦しそうに言葉を続ける。
「彼女……アイリーンとは、王都にいる時に出会った。その時はぼくはまだ、彼女が魔女だとは知らなくて――本当に、ただの一目ぼれだった」
やがてラディアスは、勇気を出してアイリーンに声をかけた。
だがアイリーンは警戒心を露わにし、なかなか親しくなることは出来なかったという。
もちろん今となっては『魔女』という立場ゆえだと理解できるが、当時のラディアスはそんなアイリーンにとにかく夢中になってしまい、必死になって彼女を追いかけた。
「そんなある日、ようやく彼女から名前を聞かれて……喜びに浮かれあがったぼくは、……とっさに、君の名前を言ってしまったんだ」
「何故そんなことをした」
「……怖かったんだ。正直にぼくの名前を言って、家だけで判断されるのが……」
(ラディアス様……)
ラディアスは見目だけで言うならば、文句のつけようのない美男子だ。だが低い家柄と次男という立場が邪魔をして、多くの女性たちとの恋を失ってきた。
ミーアの前では絶えず明るく振る舞っていたラディアスだったが、その本心は相当に傷ついていたのだろう。
そうして知り合った、本当に好きな女性――アイリーンを前に、もう二度とそんな思いをしたくない、と考えたのはある意味当然と言えるかもしれない。
だがアイリーンは責めるような目で、ラディアスを睨みつけた。
「……じゃあ何? あなたは、私が家柄だけで、好きになるかを決めるような女だと思っていたわけ?」
「ち、違う! そうじゃないんだ! ただ僕は……君のことが、本当に……本当に好きだったから……。もし本当のことを言って、拒絶されたらと思うと……耐えられなかった……」
「だからといって、私を騙したままでいいと思っていたの?」
「……」
アイリーンの強い口調に、ラディアスは深い悲しみを滲ませる。
「本当に、申し訳なかったと思っている……。ぼくも、君に嘘をつき続けることが耐えられなくて、何度も、何度も、本当のことを言おうと思った。だけど……」
幸か不幸かアイリーンは世事に疎く、ラディアスがクラウスの名を名乗った後も、レヒト公爵家であるとまでは知らないようだった。
彼女は今までの女性とは違い、自分のことをちゃんと見てくれる。家柄も生まれ順も関係ない。
ならば――自分がただの『ラディアス』であることを伝えても、彼女は離れて行かないのではないか。
だがアイリーンが少しずつ心を開き、ラディアスに微笑むようになるにつれ、その決心は弱まった。
彼女のことが大好きだったからこそ――真実を話して、この関係を失うのが怖かった。
ごめん、と呟くラディアスに、アイリーンはなおも激昂する。





