第三章 5
その名前を聞いたミーアは、大きな目を真ん丸に見開いた。
足も背中も尻尾も、全身の毛がこれ以上ないほど緊張で張り詰めている。
(いま……なんとおっしゃいましたの? クラウス……クラウス・ディアメトロに、捨てられた……?)
尋ねようにも言葉が伝わるわけもなく――ミーアは掠れた声で『ぶな……』とだけ漏らした。
すると魔女は、どこか寂しそうにミーアに語りかける。
「私たちは愛し合っていた……でも、それは私の一方的な思い込みだったの」
『……』
「今まで毎日のように顔を合わせていたのに、ある日突然まったく姿を見せなくなった。私は彼に何かあったのではないかと思って、必死に捜したわ。そうしたら……彼、とんでもないお金持ちの貴族様だったのよ」
しかも、と魔女は苦しそうに呟く。
「一年前に結婚していたんですって。相手もお嬢様で――それはそれは可愛らしい女の子だったわ。私なんかとは全然違う。キラキラしていて……まるで希少な宝石がそのまま人になったみたいな、そこにいるだけで誰からも愛されるような……そんな相手が、彼にはいたの」
(……どういうこと、ですの?)
どうやら、彼女がミーアを襲った魔女であることは間違いなさそうだ。だが彼女の話を信じるなら『彼女とクラウスは恋人関係だった』ということになる。
(でも、わたくしとクラウス様が婚約したのは、それよりもずっと前で……つまりクラウス様は、わたくしという婚約者がいたにもかかわらず、この方と、お、お付き合い、を……?)
普段なら率直な感情を示してくれる頼みの髭も、今ばかりは判断に困っているのか、あっちこっちにぴょんこと飛び跳ねていた。
髭の乱れを前足で正していたミーアはふと、以前魔術師が口にした言葉を思い出す。
――『これは金銭目的の呪いではない可能性が高い』
――『純粋な恨み、復讐……この女性に強い感情を持っていた可能性が』
(わたくしの呪いは、お金を狙ったものではなかった……。でもわたくしには、彼女に恨まれる覚えはない……。つまり……)
本当に恨まれていたのは――クラウスの方だった。
ミーア自身の業ではない。
クラウスの配偶者だったという理由で、彼に向けられた呪いを請け負う羽目になったのだ。
(そんな、そんなことって……)
だが言われてみれば、結婚してからもクラウスは家を空けることが多かった。視察だと言われてそれ以上追及出来なかったが、もしかしたらこの魔女に会うためにわざわざ時間を作っていたのかもしれない。
となると――魔女の調査に時間がかかっているのも、嘘の可能性がある。
本当はクラウスはすべて知っていて、その上で『時間まで懸命に探したけれど、見つかりませんでした』という体裁を作ろうとしているのかもしれない。
ミーアは自らの出した答えに、ぶるりと背筋を震わせた。
(わたくしは、騙されていましたの……?)
子どもの頃にあげたぬいぐるみを、大切に持っていてくれたことも。ミーアに見合う男になるため、懸命に努力していたという話も。
すべて、すべて、すべて――嘘だった?
鉛を呑み込んだように、肺の奥が痛くなる。いますぐ泣き叫んで、暴れまわって、どこかに行ってしまいたい。
でも、とミーアは大きな緑色の目いっぱいに、涙を浮かべて歯を食いしばった。
(……違いますわ。クラウス様は、嘘なんてつく方ではございません)
髭がぴんと上向く。
同時にミーアは静かに立ちあがった。
(だってわたくしは、……知っていますもの。クラウス様が毎日のように、あの冷たい礼拝堂に行っては、わたくしの棺の前で泣いておられることを)
『妻を亡くした不幸な男』を演じたいだけの人間が――あんなに必死に、こちらの胸が痛むくらい、体中の水分がすべて抜け出てしまいそうなほど――号泣するはずがない。
しかも誰も――ミーアしかいない空間で、やる意味などどこにもないはずだ。
調査だって、クラウスは人に頼んだ以上のことを自身でも調べていた。その間も普段の仕事には一切の妥協を許さなかった。
途方もない悲しみやつらさを抱えていても、決して他人に気取られないように、必死に振る舞っていたことを知っている。
だってミーアは、その間――ずっと彼の傍にいたのだから。
クラウスの膝の上で。
腕の中で。
枕元で。
彼がミーアのことを心から心配し、愛し、嘆き悲しんでいたことを、ミーアが一番よく知っている。
そんな自分がクラウスを信じず、一体誰が彼を信じるというのだろう。
(きっと、何かの間違いですわ。クラウス様が……そのようなことをするはずがございません)
先ほどまで嵐のようだったミーアの心は、今は不思議なほど落ち着いていた。
はっきりとした確証を胸に、ミーアは魔女を見つめ返す。すると魔女もまた、ミーアの様子が変わったのに気づいたのか、黒い瞳をすうと細めた。
だが次の瞬間、玄関の方からけたたましい破壊音が響き渡る。
「何⁉」
魔女が立ち上がると同時に、ミーアもまた警戒心を露わに身構える。
そこに現れたのは――件のクラウス・ディアメトロ本人だった。





