第三章 4
「こら! 逃がさないわよ!」
(い、いやですわ!)
『うにゃう! うぎゃー!』
魔女の操る箒がどすんばたんとミーアを追い回す。必死に逃げまどっていたミーアは魔女の足の間をくぐると、そのまま扉を出て階下へと駆け下りた。
あっと声を上げた魔女が、すぐさま追いかけてくる。
「待ちなさい! 何をいたずらしようとしたの⁉」
(何もしてませんわ! 見ていただけです!)
『ぶにゃう! にゃーーあ!』
どうやら魔女はミーアを本当の猫だと思っているらしく、目を吊り上げたまま箒をぶんぶんと振るっていた。
捕まったら何をされるか分からない、とミーアは懸命に魔女との距離を取る。
(何とかして……何とかして逃げませんと……!)
ミーアはすばやく周囲を探る。
すると台所らしき一角に、小さくだが壁の隙間を発見した。人ならば間違いなく通れない大きさだが、猫であるミーアなら行けるかもしれない。
(猫は顔が通れば、体も抜けられると聞いたことがありますわ! あの穴なら!)
ばさ、と振り下ろされた箒を躱し、ミーアは一直線にその脱出口へと駆けだした。次第に距離を詰めてくる魔女の恐怖を堪えながら、持ちうる気力すべてを振り絞って割れ目へと滑り込む。
(い、いきますわよー!)
ずささ、とミーアは頭を隙間に押し込んだ。
そのままうごうごと髭と顔を動かし、ミーアはぽんと壁の向こうへ頭を覗かせる。
(抜けましたわ! あとは体を……)
勝利を確信したミーアは、意気揚々と残りの体を引っ張り出そうとする。だが――いくら引っ張っても、お腹から後ろ脚にかけてが一向に出てこない。
(……? どうしてですの?)
『ぶにゃう? うなぅ?』
ぐぎぎ、と歯を食いしばって前足に力を込める。
しかし前にも後ろにも、うんともすんとも言わなくなった状態に、ミーアはようやくひとつの知見を得た。
(……お腹が……引っかかってますのね……)
でっぷりとした自らの腹囲を思い出し、ミーアはやや遠い目でたそがれた。
元々はぬいぐるみというフォルムであり、ここ数日はクラウスが用意してくれる栄養過多の食事もあった。人間のわたくしでしたらこんなことには……とミーアは瞑目する。
やがて――ちゃんと玄関から外に出てきた魔女が、穴にはまったミーアを半眼で見つめると、呆れたようにため息をついた。
「あなた……猫にしてはどんくさいわね」
『……ぐるにゃぅ』
ミーアはそれだけを零すと、魔法で穴から引っ張り出してもらった。
すっかり日も暮れ、物音ひとつしない静かな夜。
ミーアは巨大な金属製の籠に入れられたまま、魔女の家にいた。
「それで? 一体誰の差し金かしら」
『……』
「立派な首輪までしちゃって。それ、さすがに本物の宝石じゃないわよね」
『……ぶにゃあ』
「使い魔のくせにしゃべれないのかしら。それにしても変な鳴き声ねえ」
(余計なお世話ですわ!)
ミーアはむっすりと頬を膨らませるが、魔女は特に気にすることもなく、ふーむと首を傾げていた。どうやら中身がミーアであることは、まだバレていないようだ。
魔女はしばらくミーアを眺めていたが、やがてはあと息をつく。
「まあいいわ。いつか向こうから来るでしょ」
そう言い残すと魔女は、ミーアをテーブルの上に残したまま、台所の方に行ってしまった。魔女の目がなくなったことを確認し、ミーアはがしがじと籠に歯を立てる。
だが傷一つつかない様子を見て、『ぶにゃ……』と嘆いた。
(どうしましょう……このままでは、魔女の居場所を伝えるどころか……クラウス様のところに帰ることすら……)
ぞわりとした不安に襲われ、ミーアはさらに激しく籠を揺らした。だが爪も牙も役には立たず、ただいたずらに疲弊するばかりだ。ミーアは震えを抑えるようにうずくまる。
(大丈夫……大丈夫ですわ……。きっとどなたかが、助けに来てくださるはず……)
だがミーアがいるこの場所は、王都からかなり離れた森の中だ。周りに集落があった様子もなかった。魔女はここに一人で暮らしているのだろう。
何日も調査が続けられていたにも関わらず、なかなか魔女の足跡を辿れなかったのは、こうした立地のせいもあるに違いない。
(もし……もしも、どなたにも、見つけてもらえなかったら……)
ミーアは耳の後ろの毛が、ぶわりと逆立つの感じた。
すると食事をしていたはずの魔女が、皿を片手にミーアの元へ戻って来る。
「あれ、おとなしくなってる」
『……』
「お腹すいたのかな。はいこれ」
(……?)
籠の上から差し入れられたのは、牛乳に浸されたパンだった。
ミーアはしぱしぱと目をしばたたかせると、ふんふんと匂いを確かめる。お腹はかなり空いているが、魔女から与えられる食事など信用できない。
するとミーアの疑うような視線に気づいたのか、魔女が呆れたように口を開いた。
「毒なんて入れてないわよ」
『ぶにゃあ』
「まあ好きにしなさい」
すると魔女はミーアに怒るでもなく、ふふと微笑んだ。
その顔がとても穏やかなものに見え、ミーアは少しだけ罪悪感を覚える。
(せっかく準備してくださったのに、食べないなんて失礼かしら? で、でも、元はと言えばこの方のせいで、わたくしは大変な目に遭っているのでして……)
『……うるるにゃ、ぅにゃう……』
「だからそんなに悩まなくっていいから」
あはは、と魔女は明るく笑う。
やがて苦悶の表情を浮かべるミーアを見て、ぽつりとつぶやいた。
「……もしかしてあなた、捨てられたのかしら」
『ぶにゃ?』
「それじゃあ、私と同じね」
(……?)
「私も捨てられたのよ――クラウス・ディアメトロという男にね」





