第三章 伝えたいこと、伝わらないこと
食事に向かおうとしたクラウスは、籠にはまったままのミーアを呼んでいた。
「ミーア。ほら、どうした」
『……』
「ミーア?」
(申し訳ございません、クラウス様……今日だけは、今日だけは……)
ミーアは今すぐその腕の中に飛び込みたい欲求を抑え、必死に籠の中でうずくまった。クラウスもまた辛抱強く呼びかけていたが、ミーアが動きたくないと察したのか、やれやれと立ち上がる。
「仕方ないな……後でごはんを持ってくるから、この部屋でおとなしくしているんだぞ」
『ぶにゃーあ』
ミーアの間延びした返事に、クラウスは苦笑いを残して執務室を後にした。その足音が完全に聞こえなくなるのを見計らって、ミーアはそろりと籠から抜け出す。
(資料は……あそこですわね)
慣れた足取りで執務机に近づくと、ミーアはクラウスの椅子を伝い、ひょいと机上に上りあがった。この体にも随分慣れたものですわ、と得意げにぴんと髭を振りかざす。
だがすぐに目的を思い出し、ミーアは積み重ねられている書類に鼻を近づけた。
(きっとこの中のどこかに……)
ふんふん、と髭を揺らしながら、一番上の書類をずらす。よく分からない複雑な数字や式が記されているものばかりで、ミーアは短い前足で次の資料を探した。
そうして何枚か資料を漁っているうち、ミーアは一枚の書面にたどり着く。
(こ、これですわ!)
ミーアはそれを口で引っ張り出した。
それは『魔女』に対する調査書だった。王都からほど近い村の名前と、いくつかの女性の名前が記載されており、何か手がかりはないかと、ミーアは目を見開いて真剣に読み進めていく。
しかし魔女の所在地や名前、顔がはっきりと分かるものはなく、ミーアは『ぶにゃあ……』と肩を落とした。
(やはり、まだ分からないんですのね……せめて顔が分かれば……)
と考えていたミーアは、突如ぴんと耳を立てる。
(わ、分かりますわ! わたくし、魔女の顔を覚えています!)
中庭で呪いをかけられる直前、ミーアは確かに魔女の顔を見た。
今もはっきりと覚えており、一度見ればすぐに同一人物かを断言できる。
(でも口で言っても伝わりませんし……せめてどんな顔だったかだけでも、クラウス様に伝えることは出来ないでしょうか……)
そこでミーアは、机上にあった羽根ペンに目を留めた。ペンを横向きに咥えると、白紙の上にペン先を向ける。
(む、……難しい、ですわ……)
なんとか輪郭を描こうとするが、線がガタガタになってしまい、人の顔どころか前衛的なアートにしか見えない。
ミーアはその後も何度か挑戦したが、みみずが這ったような黒い線がいろんな方向に引かれただけだった。
(……無理ですわね)
考えてみれば、人間だった時分でもうまく描けた自信はない。
ミーアは潔く諦め、咥えていた羽根ペンを台に戻そうとした。だがその途中、乾く前のインクに髭が触れてしまい、ミーアは『ぶにゃあ!』と声を上げる。
(わ、わたくしの髭が! 真っ黒に!)
ミーアの感情を豊かに表す相棒として、最近少し気に入り始めていた髭。その繊細な切っ先が半分ほど黒く染まってしまったのを見て、ミーアははわわと口元を震わせる。
さらにタイミングの悪いことに――突然ガチャリと扉が開き、執務室に戻って来たクラウスが目を丸くして叫んだ。
「ミーア⁉」
『ぶにゃう⁉』
勢いのよい声に、ミーアはびくりと体を強張らせた。
咥えていた羽根ペンを取り落とすと、さらにクラウスが声を上げる。
「ミーア、そこで何をしている!」
(あ、あわ、あわわわ……)
混乱したミーアは、大急ぎで机から降りようとした。
しかし足元に転がっていたペン軸につまずいてしまい、ずるどたんと後ろ足を滑らせる。すると傍にあったインクの瓶が跳ねあがり、そのままミーアの頭上へ逆さまに落下した。
ばしゃん、と漆黒のインクがミーアに降り注ぐ。
(いやあああーー⁉)
『ぶにゃーーーー⁉』
「ミーア⁉ お、落ち着けミーア!」
その後は地獄絵図だった。
美しい白銀の毛並みだったミーアは、頭からちょうど半分くらいまで黒猫になっていた。前足もしっかりインクまみれになっており、ミーアの足跡が机のそこら中に残っている。
汚れた書類と綺麗なものとをより分け、机を拭いていたクラウスは――絨毯の上でしょんぼりと落ち込むミーアを睨みつけた。
「まったく……幸い、大切な書類は汚れていなかったからいいものの……」
『……んなぅ』
「机をこんなに真っ黒にして」
『なぅ』
「反省しているのかお前は」
『うなぅ! なぅ!』
(しています! していますわ!)
だがやらかしてしまったことは取り返しがつかない。ミーアはせめてものしおらしさを示すように、髭を下げぺたりと耳を頭に付けた。
やがて整理を終えたクラウスが、ちらりとミーアに目を向けた。まだ怒っておられますの? とミーアはびくびくと見つめ返す。
するとクラウスは、すぐににっこりとした笑みを浮かべた。
「さて、そろそろお前も綺麗にしてやらないとな」
『ぶな?』
そう言うとクラウスは、きょとんとするミーアをお腹から抱きかかえた。遠ざかっていく執務机を振り返りながら、ミーアはどこに行くのかしらとクラウスを仰ぐ。
「――そういえば、俺が洗うのは初めてか」
『んなぅ?』
クラウスがぼそりと呟くのを聞いて、ミーアははて? と首を傾げる。やがて執務室の扉は締まり――その数刻後、浴室の方からミーアのけたたましい悲鳴が響きわたった。
(うう……)
再び執務室に戻って来たミーアは、ようやく乾いてきた毛並みを繕いながら、心の中だけで泣いていた。
(もう……お嫁にいけませんわ……)
クラウスが聞いていたら「とっくに嫁に来ているのに何を言っているんだお前は」と言われそうなことをミーアはぼんやりと考える。
しかし――結婚相手と一緒にお風呂に入る者はあれど、一方的に洗われる経験をしたものはなかなかいないだろう。
(恥ずかしいし怖いし……もう絶対に嫌ですわ……)
だがべったりとしたインクの不快さがなくなったこともあり、ミーアは先ほどの記憶は抹消しましょう、と自分に言い聞かせた。
人間だったら大問題だが今のミーアは猫だ。
何の問題も、……問題も――
(……わたくし、人間に戻って本当に大丈夫なのでしょうか……)
ふと気づいてしまったミーアだったが、違う違うと慌てて首を振った。自分のためだけではない。クラウスのためにも、早く戻ると決めたのだからと必死に不安を振り払う。
(さて……次は一体どうしたらよいでしょうか……)
とにかく『魔女』を探し出さなければ話にならない。
だがクラウスが連日のように調査を続けても、いまだ特定にすら至っていない。顔が分からないのだから無理もない――と考えたあたりで、ミーアは綺麗になった髭をぴんと跳ね上げた。
(そうですわ! わたくし自身で探せばいいのです!)
ミーアは『魔女』の顔を覚えている。であればミーアが確認して回れば、一番確実に見つけられるはずだ。
(そのためには……王都に行くしかありませんわね)
クラウスが王都に行く時を狙ってついていくか。しかしクラウスは最近すっかり視察に行かなくなっており、次にいつ機会があるか分からない。二か月という期限がある以上、あまり余裕はなさそうだ。
しばらく悩んでいたミーアだったが、やがてすっくと籠から立ち上がった。執務室の扉に近づくと、『うなぁ、うなぁ』とクラウスに向けて甘えた声を上げる。
「ミーア? 外に出たいのか」
『うるにゃ』
「邸からは出ないようにな」
クラウスが開けてくれたわずかな隙間から、ミーアはにゅるんと体を滑り込ませた。
数歩進んだ後くるりと振り向くと、再び執務に戻ったクラウスに向けて、ふんすと鼻息を荒げる。
(クラウス様……待っていてくださいませ。わたくしが必ず、魔女を見つけてまいりますわ!)
やがてミーアは名残惜しい気持ちを振り切るように、だっと廊下を駆けだした。
そのまま階段を駆け下り、玄関ホールへとひた走る。
立派な玄関扉を開き、ミーアは力いっぱい外の世界へと飛び出す――予定だった。
(……)
しっかりと施錠されたそこは、ミーアの小さな手足ではびくともしなかった。
諦め悪く、ミーアは全体重をかけて扉を押す。
だが重たいミーアの体をもってしても開くはずはなく、やがてミーアはぺたりと床にへたりこんだ。





