第二章 8
「俺は彼女のぬいぐるみを持って帰ってしまって、どうすればいいか途方に暮れていた。どこの誰かも分からなかったから、とりあえず預かっておいて、いつでも返せるようにと持っていたんだ。そうしたら数年後――両親が縁談を持ってきた」
『ぶにゃう?』
「そう。彼女とだ。本当にただの偶然だったけど、俺は一目で分かった。嬉しくて、仕方がなかった。けど……俺自身は、全然彼女にふさわしい男じゃなかった」
(クラウス様……?)
「見ての通り俺は暗くて、見た目も要領も、愛想も良いわけじゃない。今でも気を抜くと、すぐに泣いてしまいそうになるほど、心だって弱い。でも――彼女と一緒になれるのなら、それをすべて変えよう、と誓った」
体が弱かったから、剣術を習い身体を鍛えた。
歴史書や兵法書を読み、教養も身につけた。
麗しい彼女の横に並んでも恥をかかせぬよう、見た目にも細心の注意を払った。
そうして彼女が二十歳になり、自分のもとに訪れるまでに――彼女に見合う最高の男になろう、とクラウスは努力した。
「だがその途中、俺の両親が亡くなった。俺は彼女との婚約を破棄しようとしたが、親族や代理人たちがそれを許さなかった。結果として俺は――全然つり合いが取れないまま、彼女と結婚することになってしまった」
予定されていた時間がなくなり、クラウスは大いに焦った。
しかし動揺しているところを見せたくはないと、彼女の前では『大人の男』であろうと振舞った。
だが演じれば演じるほど、彼女の顔が陰っていくのも分かった。
「もしかしたら覚えているかもしれない、という期待もあってぬいぐるみも返した。ただまあ、小さかった彼女が記憶しているはずはなくて……すごく困った顔で『ありがとうございます』とだけ言われたな」
(ご、ごめんなさい……)
少し遠い目をしているクラウスを見上げて、ミーアは思わずしゅんとうなだれた。
だが自分の中の疑問が、一つだけ晴れていく。
(ああ、でも……ようやく思い出しましたわ)
猫になってから、ミーアはずっと気になっていたことがあった。はたして今動いているこの体は、一体『何』なのだろうか、と。
(これは……クラウス様が、最初に下さった、ぬいぐるみだったのですね……)
――結婚してすぐのことだった。
クラウスの無愛想さにミーアがなんとか馴染もうとしていた時、彼が初めて贈り物をくれたことがあった。ミーアは心から感激し、宝石かしら、ドレスかしら、とわくわくしながら包装を解く。
だが中から現れたのは――不格好な猫のぬいぐるみだった。
しかも新品ではないらしく、綺麗に手入れはされていたものの、どこかくたびれた感じが現れていた。ミーアはショックを受けたものの、一応言葉だけの礼は返した。
その後ぬいぐるみを捨てるわけにもいかず、困ったミーアは仕方なく自室の棚の奥にしまい込んだ。
そのまますっかり忘れていたのだが――今になって思い出すと、あのぬいぐるみの姿形は、今のミーアとそっくりそのままなのである。
(あれは……昔のわたくしが、クラウス様にあげたものだった……)
ミーアは改めて、ぷにぷにとした自身のお腹を撫でる。途端に愛着が湧いてきて、ミーアは小さく『ぶにゃあ』と鳴いた。
クラウスがミーアを抱きなおし、穏やかに微笑む。
「もう十五年も前の話だから、仕方ないんだがな」
(クラウス様……)
せめてもの謝罪を込めて、ミーアはそっとクラウスの腕に触れた。するとクラウスは嬉しそうにミーアの頭を撫でてくれる。
喉の奥から自然と『ぐるにゃ』と声が漏れ、ミーアはさっと顔を赤らめた。そんなミーアを見つめながら、クラウスは訥々と呟く。
「全部――全部俺が悪いんだ。ぬいぐるみを渡すときだって、ちゃんと『君からもらったものだ』と言えば良かった。それなのに……大の男が猫のぬいぐるみを十五年も、後生大事に抱えていたと知って、……嫌われるのが怖くて……つい、何も伝えずに返してしまった。……あれでは、彼女が気づくはずもない」
『ぶにゃ……』
「それだけじゃない。俺はもっと、彼女と話をするべきだった。一度だけ……彼女が寝室に来てくれた夜なんか、本当は死ぬほど嬉しかった。だが、その、……大人の男がそんながっついた様子を見せるのはいかがなものか、というためらいと、……彼女が、相当緊張して真っ赤になっていたから、無理をさせたくなくて……」
(わ、わたくし、そんな風に思われていましたの⁉)
懺悔するクラウスによる流れ弾に、ミーアは今更になって被弾する。だがそれを聞いて、同時にほっとした。
(ではクラウス様は……わたくしのことが嫌いで、拒絶したわけではなかったのですね……)
それどころか、クラウスはミーアのことを本当に大切にしていた。彼女に幻滅されないよう、仕事の出来る男を演じ、些細なことでは動じない強い心を示そうとした。
だがそれが当のミーアにはまったく伝わっておらず――お互いに悲しいすれ違いを起こしてしまっていたのだ。
やがてクラウスは、ミーアを抱き寄せ、柔らかい背にそっと顔をうずめる。
「でも……こんなことになってしまうなら、もっときちんと話をすればよかった……。一緒に食事をして、一緒に出かけて……一緒のベッドで眠りたかった。お茶会に男なんて呼んでほしくなかった。ラディアスに向ける笑顔を、俺にも向けてほしかった。……もっと、もっと……俺の傍で、笑っていてほしかった……」
あまりに悲痛な嘆きに、ミーアは何も返すことが出来なかった。
「ミーア……ミーア……帰って来てくれ……お願いだ……」
ふわふわとした毛並みに、クラウスの冷たい雫が落ちたのを感じたが、ミーアはそのままじっと体を丸めていた。
背中を通じてクラウスの悲哀が伝播し、ミーアもまた目の端に涙を浮かべる。
(クラウス様……)
やがてクラウスの力が緩まったのを感じ、ミーアはゆっくりと体の向きを変えた。
目を充血させたクラウスを仰ぐと、ミーアは小さな前足を彼の胸につける。そのまま上体を大きく伸びあがらせると――彼の口にキスをした。
クラウスは少しだけ驚いたようだったが、すぐに目を細める。
閉じた瞼に押しやられて、眦に残った涙がクラウスの目の端からぽろりと零れた。
「ありがとう……情けないところばかりみせていて、すまないな」
『……んにゃう』
短いミーアの返事を聞き、クラウスは改めてミーアを腕の中に抱き寄せた。その暖かさの中で、ミーアは静かに決心する。
(わたくし……戻りたいです)
もちろん、今までだってすぐに人間に戻りたかった。だが今は自分のためよりも――クラウスをこれ以上、苦しませたくないという思いがある。
(ちゃんと人間に戻って、クラウス様と仲直りいたしますわ!)
クラウスの腕の中で、ミーアは自らの前足を握りしめる。
小さな肉球。短い四つ足。ちょっと走るだけでへとへとになる体。それでも、ミーアの戦う意志は変わらなかった。





