第二章 6
それから三日もしないうちに、クラウスは完全に復活した。
食事量も増え、睡眠時間も長くなった――が、ミーアの懸念は潰えていなかった。
(もう二度と、あんな怖い思いはしたくありませんわ!)
しかしミーアがいくら訴えたところで、言葉が通じるわけでもない。クラウスもクラウスで、執事の言うことそっちのけで仕事に取り組んでしまう。このまま続けていれば、すぐに先日の二の舞になってしまうだろう。
(いったいどうすれば……)
ミーアはぐぬぬと眉を寄せた。
強張った顔つきのまま、自らの手、足、肉球を順番に眺めたかと思うと――突如、ぴんと髭を立ち上がらせる。
(そうですわ!)
その日の午後。
いつも通りのクラウスの執務室――だが、普段膝の上か籠の中にいるはずのミーアが、何故か今日に限って執務机を占拠していた。
「……」
『……』
「ミーア、そこをどいてくれないか?」
『……』
苦笑するクラウスが、そっとミーアを抱き上げようとする。
だがミーアはでっぷりとしたお腹を隙間なく机上につけ、一歩たりとも動かないぞという目でクラウスを見上げていた。
「ミーア」
『ぶにゃーう』
「……困ったな」
それを聞いたミーアは、きらりと目を光らせた。
(これぞ――クラウス様にお仕事をお休みしていただく術ですわ!)
術というほどでもない。
単にクラウスの書類の上に陣取って、彼が仕事をするのを邪魔するというだけだ。
もちろん人間の姿でこんなことをしていたら、それこそ冷たく追い払われ、もう二度と口もきいてもらえなくなるかもしれない。
だが今のミーアは猫である。
猫は仕事をしている人間の邪魔をするもの、と相場が決まっているのだ。
(ふふ、これで仕事の手を止めて下さるはず)
――もちろん実際は、クラウスから怒られないか、腹を立てて捨てられるのではないかという不安もあった。
しかしミーアの狙い通り、クラウスはミーアを無理やりどかすわけでもなく、ただ堂々と丸まっているミーアを前に苦笑いを浮かべるだけだ。
「これでは仕事が出来ないだろう」
『ぶなーーう』
「……はあ」
わざとらしく鳴くミーアを見て、クラウスはやれやれとミーアの体を撫で始めた。
(ふふ、作戦成功ですわ! これでクラウス様もお休みを――あ、あの、クラウス様⁉ あまり、撫でられると、その……)
そこでようやくミーアは、この作戦の落とし穴に気がついた。
今までのミーアであれば、クラウスが撫でてきた時、自分の好きなタイミングで離れることが出来た。
だが執務机から離れないという目的を達するためには、クラウスからどれだけ愛でられても、逃げ出せないのである。
(あ、そのようなところ、触るのは、ク、クラウス様、や、やめてくださいませ……)
『ぅるにゃ、んにゃーあ……』
「どうした? ここが気持ちいいのか?」
(あ、い、いや、いやあああー!)
やがて羞恥の限界を迎えたミーアは、絨毯へごろんどたんと転がり落ちた。
その翌日。ミーアは決意も新たに執務室で立ち上がった。
その口には以前クラウスからもらった、猫用のおもちゃが咥えられている。
(昨日の方法は、少々失敗でしたわ……でもこれなら!)
相変わらず熱心に書類と向き合うクラウスのもとに、ミーアはのしのしと近づいていく。やがて彼の足元にまでたどり着くと、ネズミを模したそれをぽたと落とした。
「どうしたミーア、遊びたいのか」
『ぶなーーう!』
(気分を明るくするためには、遊びが一番ですわ。今度こそ、クラウス様はわたくしに夢中になってお仕事の手を止めるはず……)
実はこのおもちゃをもらった当初、ミーアは「ネズミなんていやあ!」と大暴れしたのだ。しかしクラウスのためとあれば、嫌なものでも我慢するしかない。
ミーアの目論見どおり、クラウスはおもちゃを拾い上げると、ぽーいと部屋の端に投げてくれた。途端にミーアの体は弾丸のように射出される。
(か、体が、勝手に……!)
どうやら猫の本能的な部分が強く作用しているらしい。
ミーアはネズミのおもちゃを咥えると、ぜいはあと息を吐きだしながら執務机の元へと戻った。すると満面の笑みを浮かべたクラウスに出迎えられる。
「偉いぞミーア」
(ふふ、このくらい簡単ですわ!)
ちょっとまんざらでもない気持ちになったミーアは、得意げに『うるるにゃ』と喉を鳴らす。だがその直後、クラウスは再び部屋の隅におもちゃを投げ飛ばした。
『ぶにゃっ⁉』
(えっ、もうですの⁉ まだ疲れが――ああっ!)
ミーアが制止をかける間もなく、短い四つ足がばびゅんと放物線を追いかけて行く。己の体のはずなのに自由になりませんわ……とミーアはへとへとの状態でおもちゃを探しだすと、先ほどより遅れてクラウスの元へと歩み寄った。
「偉い偉い。良く出来たな」
『ぶるにゃ……』
(と、当然ですわ……わたくしは、このくらいのことでは……)
クラウスによしよしと頭を撫でられ、ミーアは疲労を隠しつつドヤと髭を揺らした。すると案の上、クラウスによって三度目の投擲が放たれ、ミーアは唖然とした表情でその軌道を見つめる。
ぴくりと足が反応し、ミーアは仕方なくのろのろと動き出した。
(うう……思っていたよりも、大変なのですね……)
しかも今度は家具の奥に入ってしまったらしく、ミーアは狭い隙間に顔を突っ込むと、無理やり身をねじるようにしておもちゃを回収した。
はあはあと肩で息をしながら、一旦休憩とばかりに顔を上げる。
『……』
するとそこには、執務机で真剣に仕事をするクラウスがおり、ミーアはその様子を半眼でじっと見つめた。
(……これ……わたくしは体よく追い払われていただけで、何の意味もなかったのではありませんこと……?)
よくよく考えてみればこの場合――クラウスが遊んでいるわけではなく、ミーアが遊んでもらっている、が正しいのである。
そのことにようやく気付いたミーアは、ねずみを咥えたまま、とぼとぼと執務室の角に置かれた籠へと戻っていった。
しばらく経ってから、クラウスが思い出したように顔を上げる。
「あれ、ミーア? もう遊ばないのか?」
『ぶなーーう……』
きょとんとしたクラウスの顔を、ミーアは籠の中からじっと睨みつけるのであった。





