第二章 5
だが日が経つにつれて、クラウスの状態はどんどん悪化していった。元々多忙だったのに加え、視察の回数を減らした分が書類仕事となって増加している。
その上ミーアを襲った魔女を探すため人を割き、時にはクラウス自身が王都やその周辺の村々に出向いて調査を続けているようだった。
決して長くはなかった睡眠時間はいっそう短くなり、食事はついぞ携帯食を多用するようになった。
もちろんミーアの食事をクラウス手ずから与えるのは変わりなかったが、それよりも自分の食事を優先してほしい、とミーアは困惑する。
(クラウス様……このままでは、いつか本当に倒れてしまいますわ)
空腹のつらさは、ミーアも猫になってからよーく知っている。
このままでは良くない、と夕食を終えたミーアは籠の中で頭を抱えていた。当のクラウスは執務室で簡単な食事をとったまま、ひたすら机に向かっている。
(なんとか休んでいただくか……食事をとっていただける方法はないかしら……)
ふと、いつも自分にしてもらっているように、ミーアが手ずからクラウスに食事を与えればいいのではないかと考えたが、自身の肉球をしげしげと見つめたかと思うと、はあとため息をついた。
この手ではスプーンすらまともに握れない。
他に方法はないか、とミーアは再び逡巡する。
すると背後で突然、ごとんという重たい音が落ちた。
慌てて振り返ると――先ほどまで仕事をしていたクラウスが、机上につっぷしたように倒れているではないか。
(ク、クラウス様――⁉)
『ぶにぁう⁉ にゃーーう!』
ミーアは大急ぎで駆け寄り、椅子を伝って執務机の上までよじ登る。書類の上に頭を乗せた状態のクラウスを見て、ミーアはさあっと血の気が引いた。
(ど、どうしましょう! でももう使用人たちは休んでいますし……)
『ぶにゃーーう! ぶにゃーーーーう!』
必死になってクラウスの肩を揺する。
だが覚醒する気配はなく、ミーアはいよいよ恐怖に襲われた。
(こ、このままだと、し、死んでしまいます……!)
動揺したミーアは、ばっと勢いよく絨毯へ飛び降りた。
着地した後になって、とんでもない高さからジャンプしてしまったと仰天したが、クラウスの命に比べれば大したことではない。
(誰か、誰か助けを呼びませんと!)
ミーアは締め切られた扉の取っ手めがけて、何度も何度も飛び上がった。爪が装飾を剥がすことを申し訳なく思いながらも、重たい体をどすんばたんと跳ね上げる。
やがて鍵の部分に爪が引っ掛かり、分厚い扉がわずかに開いた。その隙間をするりと潜り抜けると、ミーアはだったかだったかと勇壮に走り始める。
(使用人棟……使用人棟は……)
だだっ広い本邸の廊下は長く、ミーアの小さな肺からはすぐに悲鳴が上がり始めた。だが一瞬として立ち止まっている時間はないと、ミーアはひたすら足を動かす。
三階から一階までの階段を一気に駆け下りると、渡り廊下で繋がっている使用人棟へと駆けこんだ。
『ぶなーーーーあ! ぶなああーーあ‼』
だが夜遅い時間ということもあり、使用人棟は既に施錠されていた。ミーアは必死になって木の扉をガリガリとひっかき続ける。
(誰か! 気づいてくださいませ! クラウス様が! クラウス様が‼)
『なーーーーう‼ あーーーーう‼』
硬い木材だったせいか、ミーアの爪と指の間から、わずかに血が滲んできた。しかしミーアは手も口も止めることなく、懸命に助けを求め続ける。
やがてミーアの目から、こらえきれなくなった涙がぽろぽろと零れ始めた。
(誰か……! たすけて……!)
今の自分では、クラウスが大変な時に助けることも出来ない。
なんて。なんて情けないの。
(お願いです! お願いですから……!)
すると――その願いが天に届いたのか、寝ぼけた声の少年が扉を開けてくれた。
「うるさいなあ、何なんだよ……」
(厨房で会った見習いの子ですわ! 早く、早くクラウス様を!)
『ぶなーーにゃ! なーーあ!』
「なんだよお腹すいたのか? 俺たちよりいいもの食べてるくせに……」
(それは申し訳ないですけれども! それよりもクラウス様が!)
仕方なくミーアは、少年のズボンの裾に噛みついた。そのままぐいぐいと本邸の方へと引っ張って行く。
「や、やめろって、明日も早いから寝ないと……」
『ぶなーーう! ぶななーーーーう!』
「……なんなんだよもう」
はあ、と少年は息をつき、ミーアの案内する方にしぶしぶ足を向けた。
ミーアは大急ぎでクラウスの執務室へと駆け戻る。一方少年は、本邸に勝手に立ち入って大丈夫なのだろうかと怯えながらそろそろとついてきた。
ミーアが執務室の扉を押した際、鍵が開いていたことに驚いたのだろう。少年は恐る恐る中をのぞいたかと思うと、倒れているクラウスを見て絶叫する。
「な、え⁉ だ、旦那様⁉」
『ぶなうあう! なーーう!』
それからはハチの巣をつついたかのような大騒ぎになった。
見習い少年は使用人棟に飛んで帰ったかと思うと、寝ていた執事を叩き起こし、さらに執事は専属医を呼び出した。
その他の女中や厨房係まで何ごとだと騒ぎ出してしまい、クラウスがベッドで安静を言い渡されたのは、明け方になってのことであった。
(良かった……命には問題ないようですわ……)
薬が効き、穏やかな寝息を立てるクラウスの枕元に、ミーアは静かに寄り添った。
先ほど専属医と執事が話しているのを聞いた限りでは、慢性的な過労とストレスだろうとのことで、重大な病や怪我ではなかったことに、ミーアは『ぶなぁ』と安堵する。
(間に合って、本当に良かった……)
ミーアはそろそろと自身の額をクラウスの頬に押し付ける。するともはや条件反射と化したのか、眠るクラウスがおぼろげに「ミーア……」と口にした。
当のミーアはまさか呼ばれるとは思っておらず、その場で目を見開く。だがどうやら起きたわけではないと分かり、ほっと胸を撫で下ろした。
クラウスの静かな寝息を聞きながら、ミーアは思慮を巡らせる。
(わたくしを心配してくださるのは嬉しいですけども……クラウス様が倒れてしまっては意味がありませんわ……)
少しでも元気になりますように、とミーアは短い前足を伸ばすと、ぽんとクラウスの頭を撫でた。さらさらした黒髪が肉球に触れ、ミーアの胸はきゅんと締め付けられる。
もう少しだけ、とミーアはそっとクラウスの頬を舐めた。ざり、という感触にミーアは慌てて顔を上げる。
(わ、わたくし、いま、何を……)
するとクラウスにもしっかりと伝わったのか、先ほどまで硬く寄せていた眉間が少しだけ緩んだ。その様子にミーアは、安心すると同時に恥ずかしさを覚える。
(と、とにかく、また何かあってはいけませんから! しばらくはわたくしが寝ずにクラウス様の看病をいたしますわ!)
ミーアは心の中でそう誓うと、ふんすと鼻息荒くクラウスの枕元に丸くなった。だがその直後、寝台に近づいてきた執事によってひょいと抱き上げられる。
「旦那様が心配なのはわかりますが、今は安静が必要ですので」
(わ、わたくし、暴れたりしませんわよ⁉ クラウス様が目覚めるのをちゃんとお傍で――)
「さあ、私と一緒に参りましょうか」
(い、いやーー!)
そう言うが早いか、執事はミーアをしっかりと捕まえたまま、さっさとクラウスの主寝室を後にする。
その途中、ミーアの悲痛な鳴き声だけが響いていた。





