第二章 4
ミーアが拾われてから二週間。
執務室でいつものようにクラウスの膝にいたミーアは、心配そうに顔を上げた。
(クラウス様……大丈夫かしら)
相変わらずクラウスはミーアにべったりで、ミーアもまたクラウスが喜ぶのならと、猫らしい振る舞いに努めていた。
その一方で、クラウスの仕事の量が以前より明らかに増えていることにミーアは不安を覚える。
(最近、寝る時間もどんどん遅くなっていますし……食事も残してばかりですわ)
心なしかクラウスがやつれているような気がして、ミーアは憂色を漂わせる。
やがて扉のノック音がし、いつもの執事が姿を見せた。
「旦那様、例の件ですが」
「報告しろ」
「奥様を襲った魔女についてですが、おそらく王都近くの村に住む者ではないか、との情報が」
「どこの村だ? 俺が行く」
「それが……魔女というのは変わり者が多いらしく、王都でもまれに姿を見かける程度だそうで……。今詳しいものに調査をさせていますが、どこに住んでいるかはまだ……」
「早く調べさせろ。人を増やせ。金ならいくら積んでもかまわん」
「……承知いたしました」
苛立ちを孕んだクラウスの声色に、執事は恭しく頭を下げる。
そのやりとりを眺めていたミーアだったが、ふと視線を感じて顔を上げた。するとクラウスが書類に目を落としているタイミングで、かの執事がミーアをじっと睨みつけているではないか。
(な、なんでしょう……もしかして、猫が嫌いなのでしょうか……?)
追い出されてはたまらない、とミーアは借りてきた猫のようにぺたりと耳を伏せた。
執事はその後もミーアを凝視していたが、クラウスに他の案件を二、三報告すると、ようやく部屋を後にする。扉が閉まったことを確認して、ミーアはほうと息をついた。
そこでようやく、先ほどの会話を思い出す。
(魔女……わたくしのために、探して下さっているんだわ)
クラウスがミーアの復活を願ってくれているのだと分かり、嬉しくなったミーアはたまらずぐりぐりと額をクラウスに押し付けた。
するとクラウスの纏っていた厳めしい雰囲気が薄れ、途端に優しい顔つきに戻る。
「どうしたミーア、お腹がすいたのか?」
(ち、違いますわ……)
『ぅなぅ……』
どうしても伝わらない思いに、ミーアは髭を震わせながらやきもきする。すると再びノックの音が響き、扉の向こうから今度はラディアスが現れた。
相変わらず美しい榛色の目を細めると、からかうようにクラウスに微笑みかける。
「やあクラウス。猫を飼い始めたんだって?」
「ラディアスか。何の用だ」
「いいなあ、ぼくにも見せてくれよ」
するとラディアスは、軽い足取りで執務机のこちら側に回り込むと、クラウスの膝の上にいたミーアをひょいと抱き上げた。
突然のことにミーアは『ぶにゃああ!』と驚きの声を上げてしまう。
(ラ、ラ、ラディアス様⁉ 何をなさいますの⁉)
「うわ~……これはまた……うん……個性的な子だね」
「乱暴に扱うな! 返せ!」
言うが早いかクラウスは立ち上がり、すばやくラディアスの手からミーアを奪い返した。一瞬のことではあったが、ミーアの心臓は早鐘のように拍打っており、クラウスの腕に抱きしめられながら動揺を落ち着ける。
「お前、こんなことをするためにわざわざ来たのか?」
「あはは、さすがに違うよ。その……ちょっと挨拶にと思ってね」
「挨拶?」
「……実は、縁談が決まりそうなんだ。相手は跡継ぎがいない伯爵家のご令嬢だ」
「結構なことじゃないか」
「うん。……そうだよね」
(ラ、ラディアス様……結婚なさるのですね)
ようやく落ち着いたミーアは、クラウスの腕の中でこっそりと聞き耳を立てていた。
どうやら相手は伯爵家。身分の違いで敬遠され、なかなか縁談がまとまらなかったラディアスにとって、まさに千載一遇の機会だろう。
「なんかね、向こうのご両親がぼくのことをすごく気に入ってくれたみたいでさ。これから相手の家について勉強するから、しばらく外出するのは難しくなると思う」
「そうか。別に俺はお前が来なくても、何も困らないが」
「ひどいなあ。唯一の親友に言うことかな」
「誰が親友だって?」
は、と鼻で笑ったクラウスを見て、ラディアスはつられたように吹き出した。二人のやり取りを初めて目にしたミーアは、クラウスの意外な一面に目をしばたたかせる。
(ラディアス様はご友人と聞いていましたけれど……本当に、気の置けない方ですのね)
いつも怖い顔のクラウスしか見たことなかったミーアは、新しい発見にわくわくと胸を躍らせた。だが同時に、自分の友人たちのことを思い出してしまい、わずかにしゅんと髭を落とす。
するとそんなミーアに気づいたのか、クラウスがこっそり背中を撫でてくれた。それだけでミーアは嬉しくなり、すぐにぴんと髭を上向かせる。
「まあそんなわけだから。そういえば、今日は奥方はどちらに?」
その瞬間、クラウスの手がぴたりと止まった。
そろそろとミーアが振り返ると、クラウスは何事もなかったかのように言葉を続ける。
「……今は少し、実家に戻っている」
「そうなんだ。その……ぼくが言うのもなんだけど、もう少し優しくしてあげてもいいんじゃないか?」
「……」
「この前会った時、君のことをすごく気にしていてね。ええと、その……名前も呼んでいないんだって? さすがにそれは一緒に暮らしている者として、傷つくんじゃないかな……」
(ラディアス様……)
だがクラウスは動きを止めたまま、一言も発することはなかった。見かねたラディアスは「ごめん、言い過ぎた」と謝罪し、困ったように眉尻を下げる。
「また落ち着いたら連絡するよ。……君もあまり無理しすぎるなよ? 顔が酷いことになってる」
「……ああ」
やがてラディアスは執務室を去り、室内にはミーアとクラウスだけが残された。黙り込むクラウスを見上げ、ミーアは小さく『ぶなぁ』と鳴く。
「ああ――そうだな」
ミーアの頭をゆっくりと撫でながら、クラウスは寂しそうにつぶやいた。
「こんなことになるなら……勇気を出して、もっと早く――ミーア、と呼べばよかった」
(……)
「ミーア、ミーア。……お前になら、こんなに簡単に呼べるのにな……今ミーアに話しかけても、返事をしてくれないんだ……」
(クラウス様……)
「俺は……大馬鹿者だ……」
額にぽたりと水滴が落ちてきて、ミーアはぴゃっと目を真ん丸にした。見ればクラウスの目からぽろぽろと涙がこぼれており、それを隠すかのようにミーアの体を抱きしめてくる。
力強い腕の感触に身を任せたまま、ミーアもたまらず目を潤ませた。
(クラウス様、わたくし、まだ生きていますわ。絶対絶対、大丈夫ですわ……)
ミーアはなんとかしてクラウスを励まそうと、『なう、なう』と腕の中で何度も鳴いた。クラウスがミーアの名前を呼ぶたび、ミーアも掠れただみ声で懸命に返事をする。
しばらくして、ようやく泣き止んだクラウスが、赤くなった目元で笑いかけた。
「……ありがとう。慰めてくれているのか」
『んなぅ。なぁう……』
(クラウス様、どうか、泣かないでくださいませ……)
クラウスの涙腺がとても脆いことを、ミーアは猫になってようやく知ったのだった。





