5 偽りの家族
質素な住まいだった。ただ風を避けるためだけに建てられたような家。風が吹くたびに戸口が音を立てて揺れ、すきま風が入り込んでくる。外にいるよりはましというくらいだ。
そんな粗末な住まいにもかかわらず、こうして皆で火を囲っていると、不思議とさほど寒さを感じなかった。
始めはどうしたらいいかわからず、居心地の悪さに戸惑っていたが、他の者がするように火に手をかざし、指先を擦っているうちに、体の強ばりとともに、胸の奥底に固まっていたものがほぐれていくような気がした。
何かがゆっくりと胸を満たしていく。
その正体が何なのか、おれはようやく思い出した。
それはおれが一度だけ、遠い昔に見た光景だった。まだ小さく弱い獣だった頃、厳しい冬の寒さに凍え、腹が減って動くこともできなかった。冬を越えることができない弱いものは死ぬ。それが山の掟だった。おれはその掟に従って、雪の中に消えていく運命だった。だけどおれは死ななかった。気紛れを起こした人の手によって、おれは生き長らえた。
その時助けてくれた人の顔も、姿も、とっくに忘れてしまった。だけどその時見たやわらかな火の温かさと、触れた手の温もりを、おれはどうやら憶えていたらしい。ああそうだ。その時おれはこう思ったんだ。
今度生まれるなら、人でもいいな、と。
「はい、兄さま」
嬉しそうになえは湯気の立つ器を差し出した。恐る恐る受け取ると、厚みのある器の肌は熱かった。だけど手に持てないほどではない。凍えた指を温めるには丁度よかった。
なえはちょこんと隣に座り込むと、おれの顔をしげしげと覗き込んだ。そして嬉しくて嬉しくてたまらないといったふうに破顔する。
「……どうした?」
さっきからずっとそのくり返しだ。一体どうしたというのだろう。不思議ななえの行動に、心配になってたずねてみた。
「だって、だってね」
真っ赤に頬を上気させたなえは、声を弾ませた。
「神さまにずっとお願いしてたんだもの。兄さまが早く帰ってきますようにって。だからとってもうれしいの」
そう言うと、おれの腕に取りすがって明るい笑い声を立てた。そうか、とおれは頷くことしかできなかった。頭を撫でようと手を伸ばした。その時。
「こら、こぼれるでしょ。離れなさい」
母親の言葉に、びくりと手を止めた。
「離れなさい」その言葉がなえではなく、自分に言われたような気がした。行き場を失った手をゆっくりと握りしめた。なえはふて腐れたような返事をして、小さな手を離し、しょんぼりと俯いてしまったが、おれのそばから離れようとしなかった。おれはそれが嬉しく、そして後ろめたかった。
おれは、この姉妹を……家族をだましているのだろうか。
あの時おれは「ほんの一時でもいいから姉妹に兄を返してあげてくれ」確かそう願った。もしや月の神さまが、願いを叶えてくれたとでもいうのか。
いや、違う。そんなわけがない。
頭に浮かんだ莫迦莫迦しい考えを打ち消した。おれがこんな姿になったのは、きっと鴉のしわざだ。奴の仕掛けたまじない……あの白い欠片の力に違いなかった。
だけど、もし。もし、ずっとこの姿でいることができたとしたら、どんなにいいだろう。
そうすれば、うわべだけだとしても、姉妹の願いを叶えることができる。なえの笑顔をいつだって見ることができる。しかし無理なまじないが保てるほど、おれには力がなかった。
この姿は薄氷のようにもろく、はかない。そっと触れただけで割れてしまう氷のように、おれにかけられたまじないも、あっけなく解けてしまうに違いない。例えそれができたとしても、おれはこの娘たちの兄ではない。まして人でもない。偽り続けたとしても、いずれは正体が知れてしまうだろう。
だったらおれにできることは?
神でもなく、人でもなく、ずっと姉妹の兄と偽る力もない。そんなおれにできることとは、一体何だろう。
お前はどうしたかった?
答えるわけのない少年に問いかける。たったひとりで死んでしまった陣之介は、最期に何を思ったのだろう。もし生きて帰ってこれたとしたら、何がしたかったのだろう。
おれは節くれた陣之介の手を、静かに見下ろした。
「あの、兄さま」
その声は真直ぐに耳に届いた。顔を上げると、ずっと黙りこくっていたさつきが、じっとおれを睨むように見つめていた。一瞬、その目の鋭さにおれはたじろいた。ふと、「上の娘は苦手だ」と言っていた鴉の言葉がよみがえった。
「兄さまは、いつまでうちにいられるのです?」
そんなことおれが知りたいくらいだ。そう叫び出したい衝動にかられた。その瞬間、窓の外からけたたましい鳴き声が響き渡った。
……鴉か。
屋根の上にいるようだ。頭の上から聞こえてくる奴の声に、おれは苛立ちを感じた。今すぐにでも外に飛び出して行きたかった。奴を締め上げて、どうしてこんなことをしたのかと問いつめたかった。だけどそれをこらえて、さつきの問いに答えるために震える声を振り絞った。
「……よくわからない」
するとさつきは、ひやりとするくらいまっすぐに言い放った。
「わからない、とはどういうことなのですか、兄さま」
それは……と言葉を濁していると、そこへ母親が助け舟を出した。
「思う存分ゆっくりしてこいと言われたのだろう? お盆も帰ってこれなかったのだから、ねえ」
母親は穏やかに微笑んだ。おれも曖昧に相づちを打った。
「ほら、兄さまもお腹が空いているんだから、朝餉の支度を手伝っておくれ」
さあさあと母親は明るい声で促した。さつきは黙ってうなずいたが、何か言い足りないような表情で俯いた。




