5-7 筆談
エストが宿に着いた時、レンドールは部屋にいなかった。今度は鍵もかかっていたし、出掛けてしまったのだろう。
顔を合わせるにはまだ少し気まずかったものの、エラリオのことは早く相談したかったのにと、一旦自分の部屋へ戻る。また出掛けるのも億劫で、エストはペンと紙を用意した。
エラリオに筆談で語りかけようと思い立ったのだ。
――筆談できる?
椅子に深く座ってゆっくり返事を待つつもりだったのに、エラリオの視界はすぐに地面に向いた。
『ちょっと』『待って』
草地の合間に一言ずつ書いて消し、軽やかに駆け始める。
反応の速さに、思いのほか見ているのかと動揺が走った。動揺することなど、無いはずなのに。
しばらく待てば、エラリオは草地を離れ、土と岩の多い地帯へと移ったようだ。細い枝を折って、『いいよ』と書く。
――体調はどう?
『大丈夫。問題ないよ』『何かあった?』
――あの役人のこと、知ってるの?
トントンと、枝の先が地面を叩く。どう答えようか迷っているようだ。
『知らない。でも、黒の瞳に映しちゃいけないって、思う』
――『外』に行ったでしょって言われたの。その時の何かなの?
『たぶん……』
――少し早めに会いに行って、話を聞きたいんだけど……
『こっちはいいけど、レンの傷は?』
――塞がってはいる
『利き手じゃないし……まあ、いいか』
――話すだけはダメ?
『レンに影響を与えたくないから』
『良さげな場所、探しておくよ』
レンドールが帰ってくる気配はなく、エストはまだ話していたいと、次の話題を探して少し考え込む。ペンが動く前に、枝先が先に文字を綴った。
『レンと気まずくても、そこにいる間は』
『一人での行動は控えた方がいいよ』
エストの心臓がドキリと胸を叩く。
――大丈夫だもの! 私は目標じゃないって、言われたし
無駄に急いで書いて、文字が乱れる。
『そう? 都会は目移りするでしょ』
――うん。人も多いし、目が回りそう
『レンは案内できてる?』
――聞けば、連れて行ってくれる
『少しは成長したんだ(笑)』
――エラリオと来たかったよ……
『……俺も一緒に見てるよ』
『レンと三人でいるみたいだ』
エラリオを真ん中に、彼と腕を組んで歩きながら、レンドールに文句を言う。そんな絵が浮かんで、エストの手は止まった。
そうなればいいのに。そうなれば、レンのことは許してもいい。
思ったエストの耳に、青い制服の少年の声が囁く。
『レンはあなたの保護者を斬るよ』
笑顔のエラリオも、血まみれのエラリオも想像できなくて、エストはただ目を閉じた。
『エスト?』
――なんでもない。レンが帰ってきたら、会いに行く相談するね
『うん。俺は渓谷沿いに北に向かう予定だから』
――わかった
立ち上がり、エラリオは歩き出す。
まだ話したかったような気もするけれど、彼を止める術はない。山を歩くのも、彼に必要なことだ。
エストはペンを置いて、レンドールが早く帰ってこないかと、窓から見下ろしてみるのだった。
結局、レンドールが戻ってきたのは暗くなり始めてからだった。
夕食の頃と言ったのは自分なのに、待つだけの時間が長くてエストはイライラしていた。廊下を歩く靴音が隣の部屋の前で止まったので、勢いよくドアを開けて覗きこむ。
「遅い!!」
少し眉を寄せてエストを見たレンドールは、すぐに視線を逸らした。
普段から手入れされている風ではない髪はより乱れ、パリッとしていた服はすでによれて所々汚れている。顔には擦過痕ができているし、吐き出した息は疲れていた。
「そこまで遅くねーだろ。汗を流す時間くらいはあるように帰ってきたぞ?」
「……ど、どこ行ってたの?」
毒気を抜かれて、エストの声は小さくなる。
「訓練場。汗臭いのと食事したくねーだろ。もうちょっと待ってろ」
言って、さっさと部屋に入ってしまう。
遊んでいたわけではないと解って、エストは大人しくもうちょっとを待った。
ノックの音にドアを開ければ、レンドールはすでに歩き出している。後ろ姿を追いかけるようにエストは歩いて、その髪からしずくが垂れていることに気が付いた。
「ちゃんと拭かないと風邪ひくわよ?」
「バカだから大丈夫だよ。それで? なんかあったのか?」
「え? ……うん。市で、妙な人に会って……」
「妙な?」
「金髪に灰色の瞳の若い官吏で……でも、目が銀色に揺れたような気もして……」
レンドールは立ち止まってエストを振り向いた。
「あいつ……! 手は出さないって!! 巫女の噂聞いたからちょっと心配したってのにっ」
「噂……? えと、少し話をしただけだから……たぶん」
「目」
「え?」
「銀色だったんだろ。何話したんだよ」
怖い顔をしているレンドールが、全く違う容姿の説明ですぐに反応したことにも少し驚いて、エストはもごもごとその時のことを思い出した。
「えっと、青い目をみせて、とか。だいたいわかった、とか、レンが……」
口を濁すエストに、レンドールはますます眉を寄せる。
「俺が?」
「ううん……なんでもない。ともかく、その後エラリオと筆談して」
「えっ。そうなのか」
「うん。その役人は連れてくるな、って。それで、レンの傷は治り切ってないけど、直接エラリオと話したいなって」
レンドールは自分の左手を少し眺めて、その手を軽く握ると、また前を向いた。
「な、なるほど。それで俺が戻るのを待ってたのか……わかった」
どこかそそくさと先を行くレンドールにピンと来て、エストはその左手を掴まえた。
閉じようとする指先をこじ開ければ、かさぶたになっていたところが剥がれてうっすらと血が滲んでいる。
「レン」
「だ、大丈夫だろ! 傷が開いたわけじゃねーし!」
ひと睨みしてレンドールを黙らせたエストは、酒場について早々、その傷に大袈裟に包帯を巻いてやるのだった。




