7-17 目覚めたもの
何かが弾けたように、レンドールの手も痛みを感じた。よろけた体をエストが支える。
ラーロがぶち抜いていった扉は粉々になって、そこには初めからただ四角い穴が開いていたかのようだった。
「……な、ん」
何が起きたのか理解できなくて、レンドールは突然現れた四角い闇を呆然と見ていた。エラリオは寝姿のまま、動いてはいない。
……いや、とレンドールは手のひらに残る感触を思い出した。確かに手のひらの下で眼球が動いていた。
「……っ、レン!」
エストの呼び声と腕を掴む手の強さにレンドールも我に返る。
スッとエラリオが上体を起こしていた。
「エラ……リオ?」
レンドールの呼びかけに反応はなく、エラリオは四角い闇の向こうを見ている。
その身体から、黒いもやがうっすらと立ち上っていた。
「目が覚めたのか? もう? お前……」
レンドールの言葉など届いていないように、エラリオはゆっくりとベッドから降りてそのまま外へ向かって歩き出した。
「エラリオ、どこに……」
歩きながらエラリオは無造作に腕を振った。左から右へ、布でも払うように。
なんだと思うと同時に似たような動きをどこかで見た、とレンドールは思い出す。眼裏で記憶が像を結ぶ前に、どぉっという重たい音と地響きが辺りを震わせた。
声もなくレンドールに縋りつくエストを庇いつつ、歩調を変えず闇に溶けていく後ろ姿に背筋が寒くなる。
扉のあった場所にはもう何もないが、その左の壁から右の壁へ少し斜めに一文字の傷が闇を透かしていた。
外から見ればぼろ屋だが、幸い部屋の形は保たれている。きっとラーロが何かしているのだと期待して、レンドールはエストから身を離す。
「ここにいろ」
「レン……」
エラリオを追いかけるレンドールの背をエストは呼び止めた。
少しだけ足を止め振り返って、レンドールはエストと視線を合わせる。けれど、「任せておけ」とは言えなかった。
無言のまま前を向き、剣を抜く。
一歩外に出ればまとわりつくような闇だ。けれど少し経てば目が慣れてくる。雲の隙間から洩れる月明かりも山の稜線を浮かび上がらせて――
「……嘘だろ……」
レンドールは思わず目を擦った。山に囲まれた集落。その西側の山が無い。まるで大きなスプーンで掬い取ったかのように中腹から上が消え去って、隣の山との繋がりが乱暴に途切れていた。見通しの良くなったその山の方に向かうエラリオの部屋着は薄い灰色で、まだかろうじて闇と同化はしていない。裸足のままひたひたと歩み続ける背中に走り寄り、レンドールはその肩を掴む。
「エラリオ! 待てって! どうするつもり……」
肩を掴むレンドールの手にゆっくりと顔を向けて、エラリオの視線は腕を辿り、レンドールの顔を見て反対の手に握られる剣に行き着く。再びレンドールの顔に視線が戻った時、レンドールはエラリオの肩から手を離し、思わず一歩飛び退いた。
どっと冷汗が出る。
構えの姿勢をとっているレンドールをしばし眺めた後、エラリオはまた歩き始めた。
お前に用はないが邪魔をするなら容赦はない。そういう視線だった。
「……くそ。エラリオじゃねぇってか……」
震えそうになる手をどうにかねじ伏せて、レンドールはエラリオの後を追う。その先にはラーロがいるはずだった。どこまで飛ばされたのか、一向に姿が見えない。逃げたり隠れたりしているのなら合流して、対策があるのか聞きだしたいところだ。
(薬が切れれば、エラリオが戻ってきてくれる……よな?)
細い希望の糸だけれど、このままでは「世界を壊す」というエラリオの言葉が現実味を帯びてしまう。
道を外れ、木々の間へと足を踏み入れたエラリオは、ふと立ち止まると正面に腕を伸ばした。衝突音と木の裂けるバリバリいう音が暗がりに響き渡る。木々の間にクリーム色の法衣が見えた気がして、レンドールはそちらへ駆け出した。
「ラーロ!」
呼び声に、わずかに反応したものの、ラーロは足を止めない。止めれば的になるだけだと解っているのだろう。
レンドールやラーロの足元が、時々爆ぜて抉られる。あまりそれに気を取られすぎればエラリオの動作を見逃しそうだった。幸い、というのか、エラリオが急いで追ってくる様子はない。時々振り返って動向を確認していたレンドールは、立ち止まったエラリオが頭上で腕を交差させるのを見た。
嫌な予感に足を速めて、ラーロを突き倒すようにして地面に転がる。
その頭上を突風が通り過ぎた。ラーロがすかさず反転して空を撫でる。
次の瞬間には周囲の木々があちらこちら好き勝手に倒れ始めた。一抱えも二抱えもありそうな太さの木も細い木も、同じ高さですっぱりと断ち切られている。リンセの使う技の比ではなく、レンドールはただ身を固くしてラーロの額から流れ落ちる赤色を見ていた。
レンドールたちに倒れてきた木々が当たらなかったのは偶然ではないだろう。
ちら、とレンドールの顔を見たラーロは、エラリオも一瞥してから素早く立ち上がってまた駆け出した。
「ラ……」
レンドールも立ち上がってそれを追いかけようとして、人の気配に振り返る。
いつの間にかレンドールのすぐ背後にまでエラリオは迫っていた。
「逃げたい奴は、逃がしてやれよ。俺が相手になってやるから」
剣を構え、エラリオの行く手を阻むレンドールに、エラリオは小さく首を傾げる。「正気か?」と言われているようで、レンドールは舌を打った。
「エラリオの相手をしてきたのは、いつだって俺だろう?」
それがエラリオの体なら、動きの癖は残っているはず。できないことはないと、レンドールは深く息を吸った。
ふ、と短く息を吐いたエラリオは目の前のレンドールを無視して通り抜けようとする。綺麗に導線を塞いでやれば、エラリオの雰囲気が変わった。
チリ、と何かが焼けるときの微かな音がレンドールの耳に忍び込んでくる。
チリチリと燃え広がるのは何かとレンドールは辺りを窺うものの、それらしいものは見つけられない。
今一度エラリオの顔に視線を戻せば、目を覆う包帯が下の方から焦げて……いや、焦げていくように黒い炎で焼かれていく。
露わになる黒い瞳には友を見る優しさはない。目元の枝状に広がる痣は以前と比べて広がってはいないものの、ともすれば脈打って見えた。
細かい煤のようなものが舞い上がり散っていく。
ぐっと奥歯を噛み締めて、レンドールはエラリオの挙動に神経を集中させた。
軽く膝を沈めて前屈みに、エラリオが動き出すまでを見る前にレンドールの身体は動いていた。一撃分跳び退り、地に着いた足で前へ出る。相手がそうしたであろう同じ切り上げる動きをなぞれば、エラリオも一歩下がった。
レンドールに興味を示さなかった瞳がわずかに眇められる。
追撃せずに構え直したレンドールは、あえて呼吸を深くする。今の動きがまぐれではないと思いたいが、いつまでも続けられるとは思わなかった。
今エラリオは無手だが、今さっきの動きは斬り合いの時のものだ。何度もレンドールと剣を交えてきた身体がそうさせたに違いない。怖いのは相手の剣が見えないこと。受け止めたり、流したりはできないかもしれない。
(山を吹き飛ばす力なんて、受けきれるわけねぇもんなぁ!)
剣ごと叩き斬られると思っておいた方がいい。
軽く踏み込まれて右へ、牽制に剣を薙いだら左へ。エラリオの太刀筋を思い出しながら力が込められるだろう場所を避けていく。
視界から消え去るようにして低くした身を回転させる蹴りも躱して、反撃に出たレンドールの剣をエラリオは転がって避けた。そのまま立ち上がったエラリオの薙ぎを下がって避け、続く上段からの軽い振り下ろしを思わず受けようとして、レンドールは気付く。
「――あっ」
自分の馬鹿さ加減に間抜けな声が出たけれど、身を引くには遅かった。




