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白の神、黒の魔物  作者: ながる
瞳の章

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102/120

7-11 一年と半年後、冬

 木の枝が大きくしなる。

 今にも折れそうなその枝は、しかし反発に転じた。落ちてきたところにと計算して振り抜かれた剣はむなしく空を裂いていく。

 長い腕で枝に掴まっていた猿がレンドールを振り返って「キキッ」と鳴いた。


「くそ。腹立つな!」


 立ち上がればレンドールより少し小さいくらいの、猿としては大型なボス猿をレンドールは追いかけていた。

 率いていた群れは他の『()』が対処している。高みの見物を決め込んでいたボスにパチンコで辛味玉をお見舞いしてやったのだが、手で遮られてしまった。

 形勢が不利だと悟ると逃げ出したので、追いかけている次第。


 より高い枝に飛び移って、笑い声のような鳴き声を上げるのが耳障りだ。

 『笑う猿(ルレイラモナ)』の通称が憎らしい。

 舌を打ってレンドールは猿の行き先を見据えた。飛び移って行く先の枝に蔦が絡みついている。足を速め、ギリギリのタイミングでそれを思いきり引いた。すぐに手を離せば、揺れる枝をつかみ損ねて猿があたふたしている。

 落ちてさえくれば、レンドールの勝ちだった。


「……よし。黒化はねぇな」


 丹念に調べて、一息つく。

 体の大きさと頭の良さから懸念していたけれど、前段階だったのだろう。足の指を切り取って他の者と合流した。

 黒化は体の末端と瞳の奥から始まる。討伐の証としての意味もあるけれど、地域の汚染の度合いを量るのにも必要だということだ。




 レンドールやエストが倒れてバタバタしたのも、もうひと月近く前。

 体調は戻って、エストの店も繁盛はしていないがまあ順調だ。中央に伝手があることをいいことに、レンドールがミルク味の白い飴を仕入れてもらっているのだが、薬嫌いの子供に褒美にと渡していたら、ひっそりと噂になっているらしい。

 大っぴらになるのも困るのだけど、そもそも開いている日数が少ないので今のところトラブルはないようだ。


 士長から次の討伐依頼を常長経由で示されて、レンドールはしばし悩んだ。

 今回の猿もそうだったけれど、はっきりとした魔化獣(まかじゅう)案件ではない。対象も中型の獅子豚。それに、とレンドールは常長に軽く頭を下げた。


「ちょっと、別にやることあるんで、今回は辞退します」

「そうか。まあ、問題ないだろう。別のやつに回しておくよ」


 北に向かったエラリオの元へ行かねばならない。

 少し遠出になるだろうから、エストとも打合せしないと。


(そういえば、ちゃんと話すの久しぶりだな……)


 お互い自分の仕事に忙しくしていたし、レンドールは討伐で町を離れたりしていた。朝のランニングの時に店を覗いて挨拶する程度で、気づけば日が経っていたのだ。

 エストが倒れた時は動揺もしたけれど、離れていた時間が冷静さを取り戻してくれた気がする。と、レンドールは自身の胸に手を当ててみた。


(まあ、うん。大丈夫。俺はただの護衛。仕事に私情は挟まない……ようにする)


 誓いを新たに……というわけではないけれど、そうやってレンドールはひとつ深呼吸した。


 エストと共に北へ。

 この時も、その次も、ケガをしたこともあるけれど、それはエストが適切に処置してくれる。順調に問題なく。夏から秋へ、秋から冬へ、そしてまた春へ。ひとつのルーティンと化していく。

 『じじいになるまで』本当にそうなると、そうすると、レンドールは信じていた。



 ◇ ◇ ◇



 レンドールは初めその異変を見逃していた。

 レンドールだけじゃない。エストも気づいていなかった。

 今までも時々革の手袋を使うことがあったから。汗で滑らないように。それだけのことだと。

 白い息を吐き出しながら、夏のある日から見慣れてしまったその手元を、レンドールは奥歯を噛み締めながら見つめていた。


「……いつから……いや。そうか。夏には、もう……」


 己の剣を弾き飛ばされ、雪の上に転がり、かろうじて避けたエラリオの剣はレンドールの頬を切り、雪に突き刺さっている。

 エラリオの荒い呼吸が、雪原のただ一つの音楽のようにレンドールの上に降っていた。答えないエラリオは、けれどそれを冷静に受け止めているわけではない。柄を握っている手が小さく震えている。

 レンドールの剣を遮ろうと、とっさに出した左手の指先からは血が滴っているけれど、雪に落ちて赤い模様を描く前は傷がどこにあるのか、どの程度なのかはっきり判らなかった。

 判らないほど、黒ずんでいたのだ。


 レンドールは自分ののんきさに腹が立った。

 エラリオがうまく隠せていたことにも。

 指先がそうということは、おそらく足にはもっと前から症状が出ていたはずだ。たったひとりで誰にも相談できずに、レンドールにもエストにも隠し通していたなんて。


「……そんな顔するなよ。わかってたんだ。わかってて……自分を保てるうちはって……情けないだろ? 全然、未練がましい……!」


 二歩ほど後退って、エラリオは眉を寄せ口元を歪ませた。

 レンドールは跳ね起きる。


「情けなくなんかねぇ!」


 エラリオがそのまま駆け出してもいいように、自分も動ける体勢をつくる。


「俺が……もっと早く気付くべきだった。薬は……新しい薬、飲んでるのか?」


 エラリオはゆっくりと頷く。


「欠かせない。飲み忘れたらと思うと怖くて。でも、レン。あれは治す薬じゃないから。大きく燃え上がるのを押さえて種火にしておくだけの……」


 破れた手袋から覗く指先を見下ろして、エラリオは何度か呼吸を整える。


「潮時、なのかも。レン……約束だ。俺を……」


 膝をつき、エラリオはややうつむいた。痛んで不揃いの伸びかけの毛先が滑ってうなじを晒す。


「なんだよ……まだ大丈夫だろ? どうにかする方法、あるかもだろ!?」


 エラリオは動かない。


「エストが、気づく前に……」


 囁くように言ったエラリオの声にレンドールは振り返った。風を避けて雪原と森の境目にエストはいる。今、少し訝し気に身を乗り出した。

 レンドールの剣までは少し距離がある。雪に刺さったままのエラリオの剣に手を伸ばして――それでも納得はいっていなかった。


「なんでだよ……全然、負けてねーのに……」

「レンが思うほど、俺はすごい人間じゃない」

「すげぇよ! お前がどう思ってようと、俺の中では誰より……」


 エラリオは微かに笑った。


「じゃあさ、すごいまま逝かせてくれよ」


 いやだ、と言おうとしたところでエストの呼ぶ声がした。喉の奥で詰まったものを抱えたまま、レンドールの剣を握る手に力が入る。エラリオが疲れているのもわからないわけではない。

 迷っている時間はない。エラリオは動かない。

 できるだけ、痛みも無いように……震える手で躊躇ったりしてはいけない。

 レンドールは今まで振ってきた中で一番無駄のない動きと綺麗な太刀筋で、エラリオの首に剣を振り下ろした。


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