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ブリジット・レポート  作者: 河辺 螢
第三章 アビントン編 往路
29/54

3-5

 フロランはかつてこの辺境伯の屋敷に客として迎えられたことがあった。一度目はこの国にたどり着いた当日、そして二度目は留学から帰国する二日前だった。


 入国審査が終わるとこの屋敷に連れて行かれた。同行する者が誰もいないことにひどく驚かれ、この国では皇子であることは伏せ、お忍びという形で過ごしたいと希望を告げるとすんなりと認められ、寮も一般学生用の部屋が用意された。上位貴族用の部屋を借りられるほどの余裕もない、名ばかりの皇子だった。

 学校内では警備をつけることになったが、正騎士ではなく腕の立つ学生が担った。学校外の警備は帝国で雇うよう言われ、できないと言うと何かあってもルージニアの責任ではないことを書面に書かされた。念の入れように驚いた。


 その次の日にはラムジー公爵家の迎えが来た。婚約を取りやめたいという話だった。半分予想はしていたが、来てすぐにいきなり婚約解消を申し出るその態度は高圧的で傲慢そのものだった。名ばかりの皇子など何とでもなると思っている、それを隠しもしない。

 長年想像を巡らせていた婚約者は姿絵以上に表情に欠け、父親の言うがまま事が進むのを待っているだけだった。冷たい目にはフロランを追いやりたい気持ちが滲み出ていた。

 のちに次の婚約者候補の男と公然といちゃつく姿を見て納得した。既に心はあの男のものなのだろう。婚約の解消に了承したとはいえ、まだ正式には解消になっていないというのに。帝国もずいぶん舐められたものだ。


 期待していた公爵家後継の地位を失うことになり、この国に来た目的の半分を失った。しかし帝国に戻る気はなかったフロランは、何とかこの国に居残るか、あるいは別の国に移住して皇子ではない人生を送ろうと画策した。


 ルージニアでの生活は自由だった。街は比較的安全で、金に困っていると言うと身元の保証のない留学生でもアルバイトに雇ってくれた。気軽に街をうろつき、顔に引かれて寄ってくる女の子達とデートをしながら探りを入れたが、定職を探すのも、永久就職するのも難しそうだった。


 ルージニア国王は第十皇子ミシェルが暗殺されたのを機にお忍びで滞在しているフロランの身元を明かし、この国で引き取ることのないよう貴族達に命じた。帝国の皇子がこの国に定住することで帝国が干渉してくるのを嫌ったのだ。学校内で面と向かって皇子扱いされることはなかったが、周囲の態度は変わっていった。


 留学のタイムリミットは一年より早かった。父である皇帝が死んだのだ。

 帰国を前に再びこの屋敷に呼び出され、突然皇子として扱われた。帰りの馬車が用意されていて、国から届いた皇子らしい服装を渡された。出発は二日後、その時にはこれに着替えるように指示を受けた。帰る前提で全てが進んでいた。フロランはそれを受け入れた。この国の人を帝国の敵に回すわけにはいかない。全ては帝国の指示通りに動くしかなかった。


 この国の滞在中の私物よりも、帝国から送られてきた荷物の方が多かった。渡されたこの服一枚分でも毎月援助があれば叶えられたことはあった。ルージニア国内を旅し、王都にだって行けたかもしれない。せっかくここまで来ながら、そんな時間も金もフロランにはなかった。




 国に戻らされた時のように新しい服が用意されていたが、あの時ほど華美なものではなく、いい生地を使ってはいるがシンプルで貴族の普段着程度のものだった。エルヴィーノの側近フロレン用のものだろう。フロレンシオ皇子は死に、もうこの世にいないのだ。



 夕食の席に呼ばれ、エルヴィーノのすぐ隣に座らされた。エルヴィーノとほぼ同格の扱いだ。驚きはしたが言葉にはしなかった。


“このたびは入国許可証の発行に行き違いがありましたこと、改めてお詫びします”

 若き辺境伯ヘンドリック・アビントンは立ち上がり、エルヴィーノに向けて深く頭を下げた。

 エルヴィーノは詫びにさほど関心を示さなかった。

“よい。無粋だ。座れ”

 ヘンドリックは席に着き、前菜が運ばれた。

“近いうちにローディアから使いが来るであろう。それまで世話になる”

“はっ。旅の疲れもありましょう。ゆっくりとお過ごしください”


 二人にとって贅をこらした食事は久々だった。給仕がつき、見えないところにも護衛が配置されている。ライボルト伯爵家でも守られてはいたが、護衛はそう多くはなく、いつ襲撃されるかもしれない不安に怯えながら先の見えない毎日に心をすり減らされていた。


 信頼する者が離脱し、あるいは裏切る中、エルヴィーノは異母兄のフロレンシオがいてくれたことを心強く思った。皇城にいた頃もさほど関わることはなかったが、離宮に住むようになってからは滅多に会う機会もなく、母から聞くまでルージニアに留学していたことさえ知らなかった。


“我らを運んだあの者はどうしている?”

 エルヴィーノがヘンドリックに問いかけた。普段自分を支える周りの者に気を回すことのないエルヴィーノがエリザベスを気にかけているのに驚き、フロランは慎重に言葉を追った。

“アビントンに戻っております。怪我はありましたが、大したことはありません”

“そうか。…この屋敷の護衛と比べても頼りなく、特段秀でたところもないと見たが、…何故あの者を選んだ?”

 その問いに、ヘンドリックは答えに詰まった。長い沈黙に事情を察し、エルヴィーノが引いた。

“まあよい。フォスタリアまで許可証を届けてくれたのみならず、我らをここまで運んだことに礼を言う。…それがルージニアの意思であるなら、この国と帝国との関係は今後も安泰であろう”

 答えを濁したままのヘンドリックに、エルヴィーノはそれ以上聞き返すことはなかったが、口元はにやけながらも目は鋭くヘンドリックの様子を伺っていた。


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