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何故エリザベスのことを思い出したのだろう。
ダメでもともとと思いながら出したエリザベスへの手紙。今どこで暮らしているのかわからず、シーモア領主家を宛先にしたその手紙が出入りの商人の手を経て、どこかの街からアビントンの門を超え、無事に届いたらしい。
子爵は見合い中という名目でエリザベスをフロランから遠のけた人だ。封筒に差出人も書いていないのにあのシーモア子爵がエリザベスに手紙を渡すとは思えなかった。それなのに返事が届いた。
ライボルト伯爵家宛に届いた手紙は中に通行証はなかったが、注文のアビントンの野菜の瓶詰を届けると書いてあった。
古びた荷馬車で野菜の瓶詰を、入国許可証を届けてきたのはエリザベス本人だった。
ルージニア王家にもアビントン辺境伯にも助けを求めていたが、何の返事もなかった。そもそも手紙が届いてさえいなかったのかもしれない。そんな状況でエリザベスがフォスタリアまで直接入国許可証を持って来てくれた。暖かさの残る許可証にはフロランと妻エルナの名があった。
友人を危険な目に遭わせている。ルージニアでの平和な日々を思い出すほどに、エリザベスにこんなことをさせてしまったことにフロランは戸惑いを覚えた。
このまま一人で帰れば危険はないはずだ。無事に国に帰ってほしい。そう願う目の前でライボルト伯爵はエリザベスを突破口に選んだ。そしてエリザベスはそれに応えた。
二日後、商人の荷馬車は商品を積んで戻って来た。口も利かない自分を乗せ、妻役のエルナことエルヴィーノを乗せて黙々と馬車を走らせる。
帽子を脱いでも髪は短く、ぱっと見ると男の子にしか見えない。
見合いをしていると言った。あの時の相手はいまいちだったようだが、結婚する気はあるのだろう。相手が見つかれば結婚して○○夫人と呼ばれ、男を押さえつけるほどの技量を持ちながらそれを活かすこともなく、社交に精を出し、着飾り方も化粧も覚え、夫と子供に囲まれて平和でにぎやかな生活を送っているに違いない。そんな想像は全て実現していなかった。
腰につけているダガーは、別れの時にフロランがプレゼントしたものだ。
エリザベスがフロランを忘れないよう、絶対に忘れられない物を、きっと手放さないだろう物を送った。あの頃は皇子でありながらアルバイトをして金を稼ぎ、生活費やパトロン探しのデート代に充てていた。あの国を去ることになった時、苦労して貯めた金でなぜエリザベスに贈り物をしようと思ったのだろう。
手には剣だこがあり、擦り傷も切り傷もあった。騎士としてあるいは兵として生きているようだ。あの頃の腹立たしいまでの無邪気さはなくなっていた。
軍に属し、誰かに命じられて任務を遂行しているのだろうか。だとしたら帝国の皇子だろうとかつては救いを求めても誰も手を取ってくれなかったあの国も、ローディアに縁を持つ第八皇子のためなら動くのか。これが後ろ盾を持つ者との差なのか。フロランが感じた腹立たしさは嫉妬だった。
“レン、私をローディアに届ければ、第三皇子を始末した後それなりの地位を保証しよう。だが任務も果たせないようなら、あのおまえの知り合いもどうなるかはわからんぞ?”
フロランのエリザベスに向けられた目に何かを感じ取ったのだろう。妻エルナを演じるエルヴィーノが脅しをかけて来た。
“私はおまえの妻だ。他の者に気を取られるなよ。…誰にも私が帝国の皇子だと悟らせるな”
もの言いたげなエリザベスの目が心に突き刺さる。
来てくれてありがとう。
こんな自分のために命を懸けるなんてバカだ。
早く国に帰って穏やかな生活に戻るんだ。
そんな言葉さえ口に出せない。
エリザベスを避け、エルヴィーノと共に部屋にこもる間も、守るべき者と自分を守ろうとする者の事を思うと眠りは浅くなった。
もう少し。国境を越えルージニアに入れば、アビントンにつけば安心できる。エリザベスにも危険はなくなる。エルナの正体も明かせる。そうすれば…
アビントンを目前にして、同行する馬車に疑いを持ったエリザベスがフロランに先に行けと言った。
“迷われん、はよお取り”
迷うなと、言われたままにエリザベスの通行証を手に、エルナを抱えて前に止めてあった馬車に乗った。
”しがみつけ!”
荷馬車は新しく、空き瓶だけの馬車は軽く、馬も若い。今まで乗ってきた馬車よりずっと速く走った。
リードを馬車から外され、エリザベスに尻を打たれて一度は逃げた馬とすれ違った。エリザベスのいる方へ向かっている。
戻ってくれ。戻ってエリザベスを助けてやってくれ。
追っ手は来なかった。
走っても走っても永遠に着かないのではないかと思っていた国境は遠くなかった。入口の門は混んでいない。国外からの者を受け入れる入口も少し待てば入れそうだったが、アビントン在住者用の入口には誰もいなかった。
馬車をアビントン在住者用の入口に止め、馭者席から飛び降りると、フロランは自分の入国許可証とエリザベスの通行証を見せて門にいた役人に訴えかけた。
「通行証、持っている人、困ってる! この向こう、馬車、止まってる!」
国境付近では馬車の故障や強盗の襲撃などで、門を目の前にして戻れなくなった人から救援を求められることもよくあり、メイプルに入る手前までであればルージニア側が救助隊を派遣することも認められていた。
アビントンの商人専用の通行証を見て、門番は声をあげた。
「これ、ノヴェル商店のじゃないか」
「三日前と一週間前に出国記録があります。…これ、エリザベスさんのだ」
「急げ!」
すぐさまアビントン辺境騎士団に召集がかかった。
“レン! いつまでこんなところにいる。早くアビントン辺境伯の館に向かえ!”
止めてある馬車からエルナの声がした。行かなければ。エルヴィーノを辺境伯の元に連れて行かなければ。これは自分が果たさなければいけない任務だ。
集まったアビントン辺境騎士団の中に、同じクラスだったグレンがいた。秘かに護衛をしてもらっていた信頼できる「友人」だ。王宮騎士団員を志望していると聞いていたが、辺境騎士団に変えたようだ。
「グレン!」
呼ばれて振り返ったグレンは、目の前に立つ男を見て目を見開いていた。
「ふ…、ふ、フロラン?! 生きて…、生きてたんですか!」
懐かしそうに寄ってきたグレンに、
「あの馬車、皇子乗ってる。辺境伯のところ、連れて行け」
「えっ?」
「足悪い、頼む。ワタシ、戻る!」
グレンが状況を把握できず戸惑っているうちに、フロランはグレンの馬の手綱を手に取ってまたがり、そのまま全速力で元来た道を戻って行ってしまった。
「馬泥棒かっ」
グレンの馬が奪われたと思った騎士団員が叫んだが、
「かまわん! 彼は知り合いだ。すぐに後を追ってくれ! 場所は彼が知っている」
班長であるグレンの言葉に、騎士団員達はフロランを追って馬を走らせた。
目の前の荷馬車の馭者席に取り残された女性を見て、グレンは深々と頭を下げた。
「隣に乗りますことをお許しいただけますでしょうか」
エルナがマントのフードを取ると、さらりと美しい銀色の髪がたなびいた。少し頬を染めたグレンに、エルナはにこりと笑った。
「よい。アビントン辺境伯のもとへ案内せよ」
粗末な格好をしていても気品にあふれている。フロランからは皇子と聞いていたが、おそらく皇子妃の聞き間違いだろう。グレンは少しドキドキしながら一礼して馭者席に乗り込み、帝国の妃に失礼のないよう緩やかに馬車を動かした。
怪しげな荷馬車は入門前に止められたが、素直に指示に応じ、馬車を操っているのは辺境騎士団第一隊班長のグレンで、脅されている様子もない。
隣に座るエルナは隠し持っていた帝国の紋章を取り出し、門番に見せた。
「我はエルヴィーノ・アドリアノ・イングレイ。イングレイ帝国第八皇子である。アビントン辺境伯にお目通り願いたい」
銀髪の美女は突然張りのある男声になり、グレンを含め周りにいた者は皆驚きのあまりぽかんと口を開いていた。




