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アビントンの国境の門が目の前に見えながら、いつまでも近づいてこないような錯覚にとらわれた。
フロランがこの門をくぐるのは三度目になる。
イングレイ帝国第六皇子フロレンシオは、念願のルージニアへの留学を果たしながらも、皇帝である父の死で留学を切り上げることになり、祖国に戻った。
待ち望んでいた留学はある日突然許可がおりたが、金銭的な支援はなかった。行けるものなら行ってみろと言われているかのようだったがあきらめきれず、わずかな離宮の予算を集め、母の形見の宝石類もいくつか売って何とか費用をかき集めた。
行きは一人で駅馬車を乗り継ぎ、何日もかけてルージニアに赴いた。留学生用の入国許可証でアビントンの門をくぐった時、他国なのに安心感を得たのを覚えている。
帰りは帝国の馬車が用意され、この国に留まることを許さなかった。出国は入国よりもずっと簡単だった。馬車に乗ったまま通り抜けただけだ。専用の馬車でまっすぐ帰る帰路は進みも早く、行きほど苦労なく国にたどり着いた。
帝国では生まれた順で後継者が決まる。
第一皇子アルベルクは皇后の子であり、父親である皇帝のような苛烈さはなく、侵略を好みながら統治に興味のなかった皇帝とは違い、自国と他国のバランスを考慮しながら長期的な視野で物事を判断できる逸材で、後継者にふさわしいと誰もが認めていた。しかし第一皇子は暗殺され、戴冠式は延期になったままだ。
今最も皇帝に近いのは第二側妃の息子である第二皇子バスティアンだ。皇帝の座を狙う第三皇子クロヴィスにとって最も目障りな存在だろう。何度も命を狙われているが、帝国騎士団で副団長を務めるほどの剣の腕と運の良さもあって暗殺を未然に防いでいた。
帝位に近い者だけでなく、下の異母兄弟達にも不審な事故や病が相次いだ。
フロレンシオもまた国に戻ってからずっと命を狙われていた。護衛が三名つけられたが、剣の力量はフロレンシオと大差ない程度だった。
大聖堂で亡き皇帝への鎮魂の祈りが行われている最中、天井を装飾する像に向けてどこからが矢が放たれ、突然像が落下した。人々が騒ぎ逃げ惑う中、一人の男が人の流れに逆らって倒れた像に向かってきた。救出のためではなく、像の下敷きになり倒れている第八皇子エルヴィーノとその近くにいたフロレンシオを狙い剣を向けた。
敵の本命はエルヴィーノだったが、いち早く気がついたフロレンシオは近くに倒れていた燭台を拾い、男の剣を受けた。数度の打撃で燭台は折れたが他に武器はなく、折れた燭台で立ち向かった。聖堂の外で待機していた皇后の親衛隊が駆けつけ、男は倒されたが、フロレンシオは大きな傷を負いその場に倒れた。
のちに、崩れてきた像の周囲には楔が打たれてあり、ちょっとした衝撃で落ちるよう細工されていたことがわかった。男の襲撃からもこれがただの事故ではないことは明らかだった。
しかし世間には事故として公表され、その事故でフロレンシオは死亡したと伝えられた。
死を装い、城に匿ったのは皇后だった。
フロレンシオはエルヴィーノと共に皇城に運ばれ手当てを受けていた。意識を取り戻したのは一週間後、起き上がれるようになるのに一か月を要した。
第八皇子エルヴィーノは皇后の第二子だ。あの事件の時、エルヴィーノは落ちてきた像に足を挟まれ身動きすることができなかった。侵入した男はエルヴィーノを狙っており、フロレンシオが守らなければエルヴィーノの命はなかっただろう。皇后は第一皇子アルベルクを失い、続けてエルヴィーノを失う訳にはいかなかった。はからずもフロレンシオはエルヴィーノの恩人となった。
皇位継承権の辞退を求めながらずっと命を狙われてきたフロレンシオにとって、願ってもない状況だった。死という形で命を狙われる立場から逃れたフロレンシオは留学先で使っていた偽名フロランを名乗り、回復後はエルヴィーノの側近として皇城で暮らすことになった。
エルヴィーノはあの事故で左足の膝から下を失っていた。慣れない義足での生活を強いられたが、命を落とした兄の意思を継ぐことができなくなるよりはずっとましだった。
帝都では第三皇子クロヴィスによる粛清が続いていた。
商人や資産家、貴族を相手に身に覚えのない不正をでっちあげ、令状もなく一方的に家に乗り込み、金で取り入って許されることもあれば投獄されることもあった。ターゲットになれば終わりだ。狙われないために建前上第三皇子派を名乗る者も増えていた。
時に家を焼き、罪なき婦女子を攫い、家財を没収する。盗賊まがいの兵がのさばり、逃げ出す帝都民が増えた。このような横暴を放ってはおけないと立ち上がったのは第二皇子バスティアンだった。それに皇后が力を貸した。
本格的にクロヴィスを追いやることが決まり、戦闘が始まる前に帝位の保険となる第八皇子エルヴィーノを一旦国外に逃がすことになった。ローディアへの移動にはリスクがあったが、総倒れだけは避けなけばいけない。
皇后はルージニアの東に臨するローディアの出身だ。ローディア国王は帝国の皇位継承権を持つ甥を自国で保護することを決めた。
ローディアに行くには帝国内を横断し、フォスタリア、ルージニア両国を越えることになる。ルージニアへの留学経験があるフロランがこの旅の側近に指名され、ローディアまで送り届けることを命じられた。フロランは、送り届けた後の自由と引き換えにその命を受けた。
帝都を出るのはさほど難しくはなかった。街は混乱していたが、多くの支援者が協力し、安全を確保してくれた。しかしひとたび帝都の門を出ると、帝国領を出るまでに何度か暗殺者やならず者の襲撃に遭った。
第三皇子派だけではない。王妃を母に持つエルヴィーノの裏切りを恐れる第二皇子派の過激派からも刺客が送り込まれた。帝国に領土を奪われた輩もこのチャンスを逃さない。皇族を人質に取り自国を取り戻す交渉材料にしたがる者もいれば、恨みを晴らすため死を望んでいる者もいた。できる限り戦闘を避け、逃げ延びることを優先した。
帝国領を越えてからは追手の数は減ったが、守る者も減っていた。
逃げる途中で義足を失い、エルヴィーノは片足での生活を余儀なくされた。何度かの襲撃で怖気づいた側近が裏切り、金品を持ち逃げされ資金も乏しくなった。乗ってきた馬車は壊れ、馬車を借りられなくなってからは駅馬車を乗り継ぎ、時には荷馬車に乗せてもらい、何とか皇后の血縁者であるライボルト伯爵の元までたどり着くことができた。帝国を出て二か月が過ぎ、従者は一人しか残っていなかった。
ここまで来ればルージニアは目の前だ。ルージニアは帝国への警戒心が強いが、ローディアとは友好国だ。正式に協力要請も出ており、国境のアビントンの門をくぐれば後の算段はついている。
しかしアビントンに申請した入国許可証は届かず、許可証の入手を画策していた従者が何者かに襲われ、命を落とした。なけなしの伝手を頼りに手紙を書いても返信はなく、届いているかもわからない。
夫婦のふりをしていたのが功を奏したのか、ライボルト伯の元に身を隠していることは気付かれていないようだ。しかし何度も帝国の攻撃を受け侵略されかけたフォスタリアは帝国を恨む者が少なくない。ルージニア入国を妨害されている可能性もある。




