第四十八話 乗馬練習!? そのニ
「……その、………………」
な、何!? 何なの!? そんなに言いにくい頼みなの!?
その沈黙が余計に怖さを増してくるんだけど!
背中の温かさがさらに緊張を増し、耳元近くの声がドキドキさせる。
シェスレイト殿下の表情は見えないが、何度か口に出そうとして躊躇い、というのを繰り返しているようだった。
その状態のまま森の奥、少し開けた場所に出た。
そこには湖が広がり、水辺には色とりどりの花が咲き誇っていた。
「凄い……、綺麗……」
呟いた言葉にシェスレイト殿下が反応した。
「ここが綺麗なところだとディベルゼに聞いた。乗馬練習で行ってみてはどうかと」
そっとシェスレイト殿下に振り向くと、少し恥ずかしげな顔で言っていた。
それが何だか可笑しくてクスッと笑った。
わざわざディベルゼさんに聞いた、とか、言われたから、とか言わなくても良いのに。
何か不器用な人なんだな、とシェスレイト殿下が少し可愛く思えて来た。
シェスレイト殿下は湖の側で馬から降りると、両手を差し出した。シェスレイト殿下の方へ脚を揃えて、手を借り飛び降りようとすると、私の腰を支えそのまま抱き上げ降ろしてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「あぁ」
ルーに乗せてもらったときもこの降り方だったけど、この降り方やっぱり恥ずかしい!
これって腰を持たれるのも恥ずかしいけど、さらに降りるためには、抱えてくれてる人に寄り掛からないと降りられないのよ!
それって何だか抱き付いてるようで……。
シェスレイト殿下の肩にすがり付くような形で降ろされる姿は恥ずかし過ぎて身悶えしそう……。
皆がいなくて良かった……。
シェスレイト殿下は馬の手綱を一本の木にくくりつけると、少し小さめの岩に腰を降ろすよう促した。
「あの……、それで、頼みというのは?……」
「あ…………、その…………」
またしても言い淀んでいる。一体何なんだろう。
沈黙が流れる。
湖にはたくさんの水鳥もいた。柔らかな風が心地よく、花は揺らぎ、水鳥の戯れる水音がする。
目を閉じ、風や音を感じ癒される。
しばらくその沈黙を心地よく感じてから、目を開けた。
「あの、そんなに言い辛いことでしたら、無理におっしゃらなくても大丈夫ですよ?」
無理に言う必要など全くないのだから。
「ち、違う! 無理とかではなく……」
シェスレイト殿下の言葉に耳を傾ける。シェスレイト殿下には大事なことなのだろう。言えるまで待つ方が良さそうだ。
口を挟まないよう、じっと我慢した。
シェスレイト殿下をじっと見詰めると、緊張をしているのが分かる。
膝に両手を置き、キツく握り締めていた。少し俯いたその顔は徐々に赤みを帯びていく。
「そ、その……、私の名を! …………」
「?」
シェスレイト殿下の名前?
「愛称で呼んでくれないか!?」
「!?」
え? 何? 愛称? え? 待って?
今まで散々言い出しにくそうにしてた話って、愛称のこと?
え? 冗談?
しかしシェスレイト殿下は真っ赤になりながら真面目な顔だ。
「シェスと……呼んで欲しい。君のこともリディと呼びたい……」
あまりの予想していなかった「頼み事」に、唖然とし言葉が出ない。
シェスレイト殿下は俯いた体勢のままチラリと見上げるような形で私の反応を確かめているようだった。
まさか頼み事が愛称で呼び合いたいと言われるとは。
あんな真剣な顔で! あんなに言い出すのに時間がかかるって!
あまりに拍子抜けで脱力し、思わずクスクス笑い出してしまった。
そうして笑い出すと止まらなくなってしまい、今度はシェスレイト殿下が唖然としている。
「リディア?」
「も、申し訳ありません。フフ、どんな頼み事なのかと緊張していたら、可愛らしい頼み事だったもので、フフ、緊張の糸が切れてしまい……フフフ」
涙目にまでなってきてしまった。笑いが止まらない。シェスレイト殿下は真面目なのに不快にさせてしまう。
慌てて笑いを止めなければ、と思っていたら、シェスレイト殿下の緊張も解けたのか、フッと笑った。
確かにシェスレイト殿下は笑顔だった!
綺麗、可愛い、格好いい、色々感じ頬が熱くなるのを感じた。
やはりシェスレイト殿下の笑顔は素敵だ。
「それで……、どうだろうか……?」
「えっと……、もちろん」
「!! 良いのか!? リ、リディ……」
シェスレイト殿下はさらに顔を真っ赤にしながらも、私のことを愛称で呼んでくれた。
フフ、今日はシェスレイト殿下が可愛く見える。
「私のことも呼んでくれ」
改めて言われると、急激に恥ずかしくなってきた。
釣られて同様に真っ赤になっているのだろう。
「…………シェス様」
「敬称はやめてくれ。ルシエスやイルグストには付けていないじゃないか。それに敬語も……」
えー!! そ、それは無理! ルーやイルと比べられても! キャラが違う!
しかしシェスレイト殿下の切なそうな顔が! 何て色っぽい! じゃなくて!!
駄目だ、混乱している……。
「あ、あのさすがに敬称なしに敬語なしというのは……。第一王子様ですし、殿下のほうが年上でいらっしゃいますし……」
「そんなことは気にしない」
くっ、食い下がるわね……。ど、どうしよう……。
「敬語だけは追々にさせて下さい……、やはり抵抗があります」
そう言うとシェスレイト殿下は少し悲しげな表情になった。ごめんなさい! でもさすがに敬語なしはちょっと……。
「ごめんなさい、シェ、シェス……」
うっ、恥ずかしい! 他の人はそんなに恥ずかしくなかったのに、何でシェ、シェス相手には恥ずかしいの!? 心の中で呼ぶだけでも恥ずかしい!
鼻血が出るのでは!? というくらい顔が火照る。頬を手で押さえながらチラリとシェ、シェスを見ると、はにかむ笑顔が眩しかった。
な、何て可愛いの!? 今日の殿下はどうしちゃったの!? あ、間違えた。シェ、シェス……。うぅ、これ、慣れるのかしら。
頭が混乱し湯気が上がりそうだ。
「そ、そろそろ戻りますか!?」
動揺を隠そうとつい言葉が強くなってしまった。
シェスは少し残念そうな顔をし頷いた。
「そうだな……、皆心配するだろうし、そろそろ戻ろう」
馬を引き連れ、私の腰に手を当てたかと思うと、馬に向かって持ち上げた。私が乗り終わると、行きと同じように、後ろに颯爽と乗り上げ跨がる。
シェ、シェス……、今日はどうしたのだろう。いつもと違い過ぎる。
背中に全神経が集中したかのように緊張する。
シェスの手綱を持つ手が自分の身体に触れるだけでもドキッとしてしまう。
はにかんだ笑顔、可愛かったなぁ、とぼんやり考えてはハッとし、冷静になろうと必死に呼吸を整えた。
帰り道もやはり無言で、しかし、私自身も何を話したら良いか分からず今は沈黙が有り難かった。
マニカたちが遠目に見えホッとする。
「お帰りなさいませ、お嬢様。遠乗りはいかがでしたか?」
「え、あぁ、うん、楽しかったよ……」
綺麗な景色よりも違うことを思い出し、せっかく落ち着いた顔が再び火照るのが分かった。
「お嬢!? 何かあったの!?」
オルガがその様子にすかさず聞いてくるが、お願いだからその話題には触れないで!!
「な、何もないよ!!」
ディベルゼさんも何だかニヤニヤしながら、シェスに話し掛けている。
「殿下、リディア様と二人きりを楽しまれましたか?」
「あぁ」
!? 二人きりを楽しんだとか、本当に殿下どうしちゃったの!? あ、シェスね……。
「では、明日から午後に練習をしよう」
シェスはいつもの冷静な顔で言った。
「はい、よろしくお願いいたします。シェ、シェス」
「!?」
物凄く恥ずかしい思いをしながらも、必死に声を絞り出し何とか皆の前でシェスと呼べた。
その言葉にシェス以外の全員が驚愕の表情になり、オルガ以外はニヤニヤとした笑顔になるのだった。
シェスは顔を赤らめながら、フンと横を向き怒ったような顔。うーん、何となくだけど分かって来たような……、あの怖い顔は照れ隠し? そう思うと怒った顔も可愛いかもしれない。
「ではまた明日。リディ」
顔を横に向けたままシェスはそう言うと、足早に去って行く。ディベルゼさんとギル兄はニヤニヤしながらシェスに付いて行った。
部屋までの帰り道、興奮気味のマニカにあれやこれやと聞かれるが、詳しく話そうとすると、恥ずかし過ぎるので、話せることはほとんどなかった。オルガはずっと不機嫌だったけど。
その夜、ベッドの中で思い返し再び恥ずかしくなり、一人でじたばたとしていた。
シェス、可愛かったなぁ。やはり笑うととても素敵になるわね。
急に何だか距離を縮めようとされている? 婚約者として、陛下に何か言われたのかしら。
嬉しいけど困る……。好きになってしまいそうで怖い……。
好きになってしまうと離れたくなくなってしまう……。
元の世界に戻るときっと二度と会えないだろう。
シェスのあの笑顔は本物のリディアのものだ。「カナデ」に向けられたものではない。
胸がチリチリと痛んだ。
好きになってはいけない。
もう避けないとは決めたが、好きになってはいけない。
カナデの想いなど必要ない。必要なのは「リディア」なのだから……。
苦しかった。でもきっとこの苦しみも勘違いだ。
シェスが優しくしてくれたから今だけふわふわした気持ちになっているだけ。
元の世界に戻れば、このふわふわとした気持ちも苦しみも胸の痛みも、きっとすぐに忘れるはず…………。
翌日から普通に乗馬練習が始まった。前日の様々な想いが渦巻き、シェスの顔をまともに見ることが出来なかった。
しかし問答無用に練習が始まる。
シェスは……、スパルタだった。
姿勢が悪い、馬と呼吸を合わせろ、など様々な事を怒鳴られた。
おかげで三日程で自由に乗りこなせるまでになり、可愛らしいシェスの顔など全く思い出す暇もなかったよ……。




