閉じた世界
ベッドに座り、健一さんから勧められた本を読んでいると長谷川先生が訪ねてきた。病棟からデイケアへ治療の中心が移ってからしばらく会ってなかった。整えられた顎鬚をゆっくり触る仕草が懐かしい。
「先生、今日はどうしたんですか?」
「平田先生と『デイケアでの訓練はひとまず卒業してもいいんじゃないか』と話し合ってね。小野田さんは、デイケアでほかに訓練したい課題はある?」
「思いつきません。一人では自立に必要なスキルが何なのかわからないので、平田先生のアドバイスに従って努力を続けただけです」
「人の話を聴いて努力を続けられたことは凄いと思うよ」
「とんでもないです。私失敗ばかりで、ペアを組んだメンバーさんや職員さんに、たくさん迷惑をかけてしまいました。周りの人の優しさや助けがあればこそ、デイケアの訓練を終えられたんだと思います。みんなのおかげです」
言い切った私に、先生は穏やかに切り出した。
「人が助けるだけの何かが小野田さんにあったからだよ」
「え」
思いもしなかった言葉に、先生をじっと見る。
「僕はあなたが、前にくらべて客観的に自身を捉えられるようになったと思う。過大評価も過小評価も危険だ」
「先生は、私が根拠のない自信を持っていると認識していたんですね」
見透かされたようで恥ずかしかったが、彼の見解を正直に伝えてくれて嬉しくもあった。
「そうだね。否めない」
先生は笑った。
「これまで、私の容態にかなり配慮して発言してくれていたんですね」
「そりゃあ医師だからね、でも気にする必要はないよ」
「デイケア活動でたくさんの失敗をし、ちっぽけな自分をようやく認められました」
「うん、小野田さんは変わった。それは間違いなくいい変化だ」
「いい変化……。以前より生きるのが苦しくてきついですが、どれだけ自分が世界を閉ざしていたか実感できています」
「楽だったころに戻りたいかい?」
先生は顎に手をやって、何か考えているようすだった。
「いいえ、やっとスタートラインに立ったんだなって」
そう、痛い自分も受け入れたいと思う。
「弱さや未熟さに気付けば、痛みも強くなる。だから僕はあなたを応援しているよ」
「ありがとうございます」
先生の柔らかい声に、私は感謝を伝えるだけだった。
デイケア卒業。苦しい経験を積むことを通し、歪んだ思い込みに気付けた。自分のルールだけで世界を認識し生きてきた価値観は、随分変化したように感じる。
傷付くことが多い人生だったからといって、家族や学校のせいに全部していいわけがない。悲劇のヒロインぶれば、生きるのが楽になった。今は窮屈な靴を履いて歩き続けているような痛みを感じている。
様々なものからずっと守られていたのに、そのことに気付きもしないで生きてきたのだ。ふがいなく幼稚である自分。それは事実だった。
閉じ込められていたのではなく、鍵をかけていたのは自分なのだとようやく理解した。ふと、父も閉じた世界の住人なのかもしれないと思った。




