テクノクラシー衰亡史<2 >
1962年10月9日 アメリカ合衆国 アラスカ自治連邦区ポート-スコット
トンプソン岬を大規模な土木工事によって浚渫して港湾に改修したポート-スコットにはこの日、大規模な輸送船団が集結していた。
「これで海に潜るって、正気じゃないよなぁ…」
その上空を飛ぶ潜水水上機の搭乗員であるジミー-カーター少佐の表情は暗かった。もともとアメリカ海軍では珍しい潜水艦乗りだったカーターはその経験からか、この珍妙な機体の搭乗員に選ばれた。
全翼機のような奇抜な機体を作ったかと思えば、輸出用戦闘機の傑作として知られるファングシリーズのようなまともな機体も作るヒューズ-アヴィエーションズ-カンパニーが作り出した新鋭機、それは敵潜水艦を発見するや水中に降下して電気推進に切り替えて敵潜水艦と水中で交戦するというもので、とてもまともな機体とは思えないものだったが、最初に提案された陸軍航空隊はこれを歓迎した。第二次世界大戦中に日本海軍の潜水艦によって、陸軍の将兵が海に沈むさまを見ていることしかできなかった陸軍は自前での潜水艦狩りができる装備を欲しがっていたからだった。だが、それを知った海軍は陸軍の"潜水艦"装備について異議を唱えた結果として海軍へと移管された機体をカーターが操縦しているのだった。
「とはいえこんな"紛争"すぐ終わるんだろうし、そうなったらずっとこれに乗るのか…早く新しい機体になるといいんだけどな」
カーターの願望は半分正解であり、半分間違いだった。潜水水上機についてはやはりというべきか事故が頻発したため、新機体へと更新されることになる一方で"紛争"はまだ始まったばかりだった。
カーターの言う"紛争"の始まりは半年ほど前にさかのぼる。1962年の中間選挙を前にしてフォレスタル政権は突如として3年前から混乱が続くシベリアの旧極東社会主義共和国領への"平和部隊"の派遣の方針を打ち出した。
これはヨーロッパロシアの旧ロシア帝国地域において欧州諸国が行なっていたような軍事介入と実質的には同じようなものだったが欧州諸国のそれが資源地帯や残存していた工業地帯、港湾設備などへの派遣による資源地帯や技術者の確保が主だったのに対してアメリカのそれが異なるのは港湾設備のある沿岸部のほかには公式には何もないはずの北極圏にも少なからぬ人道支援と称して部隊を派遣していたことであり、アメリカはこれを根拠に軍事介入ではなくあくまでも"平和部隊"であると言い張った。
それを見た各国はなぜ今更かつての極東の河川反転政策によって水の大半が旧モンゴル各地の人造湖やアムール川水系へと導かれているレナ川の旧河口地帯に出兵するのか怪しんだ。やがてアメリカ企業がかつて有していた鉱産資源の利権を物理的に抑えようとしているのではとの観測が主となっていったが、実際にはかつての愛国党政権が北極圏に秘密裏に配備し、いまだ発射されずに極少数が残存しているはずの化学兵器とその運用のための新兵器であるSLAM、超音速低高度誘導弾と呼ばれる原子力動力で低空を超音速飛行する新開発の巡航誘導弾の回収を目的としたものだった。
だがそうした目的は隠されていたため、各国はアメリカは経済的理由からシベリアに注力するものと思い込んだ。そして、それが誰もが予想しなかった悲劇を生み出すことになる。
かつて、儒教の聖都である曲阜への化学兵器攻撃によって悪名を轟かせた極東の滅亡は当然ながら南の大清帝国にも大きな衝撃を与えたが、それによって最も困ったのは極東との国境地帯である華北地域の蒋介石率いる北平軍閥だった。なにしろ北平軍閥が極東への復讐を名目に、表向きには南京に忠誠を誓いつつ、ロシア帝国と結んでいるのは公然の秘密だった。そして、北平軍閥はその力を背景として半ば自立していたため、南京は北平軍閥の存在を苦々しく思ってもこれを討伐することができなかった。
そのため、ロシアと極東の滅亡は南京にとってはまたとない吉報であり、北平軍閥にとっては予想すらしていなかった突然の凶報だった。アメリカが介入してきたのはそうした動揺が続いていた最中だった。北平軍閥と南京の中央政府は共に最初はその行動に警戒心を募らせ、次に喜んだ。なにしろアメリカは"シベリアにしか興味がないということが"解った"からだった。
つまり、北部の革命記念油田をはじめとする豊富な地下資源に加えて、今や河川反転政策によって農業地帯としても価値のある満州、蒙古についてはそっくりそのまま引き渡すという"メッセージ"であると解釈した。こうして、満州、蒙古の奪還作戦である国光作戦が発動され、北平軍閥は事実上の国境線である万里の長城を越え、さらに遼東半島には北平軍閥と睨み合いをしていたはずの清国軍が上陸した。
のちに満蒙戦争と呼ばれることになる戦いの火蓋はこうして切って落とされたのだが奇襲攻撃を受けたアメリカの判断は素早いものだった。それは断固たる反撃だった。
そもそも、アメリカとしては満州及びモンゴル地域を譲り渡したつもりなど微塵もなく、戦略兵器の確保というそれよりも優先すべき事項があっただけだったので当然だったが、平和部隊の主力を担っていた海軍及び海兵隊は奇襲攻撃を受けて臨戦態勢に突入しており、さらに現地の人々は清国人の追放後に入植したものであるためアメリカに対して好意的であり、彼らによるゲリラ的な抵抗活動と協力姿勢は多くの点でアメリカを助けた。
こうした現地人の存在が最も大きな影響を与えたのは戦場から遠く離れた後方においてであり、形を大きく変えてはいてもいまだに開拓者精神を忘れてはいなかったアメリカ人たちは、"野蛮人に襲われたかわいそうな開拓者"を救えと熱狂し、徴兵カードを掲げた若者たちが誇らしげに練り歩く様子はアメリカ各地で見られた。
さらにそうしたアメリカのプロパガンダを真に受けた欧州諸国では各国政府は概ね冷静に対応したものの草の根的な反戦、反アジア的な運動は盛り上がりを見せ、各国ではデモなどの対応におわれることになった結果、国内での批判を恐れた欧州諸国は形骸化しつつも大協商という枠組みが残存していたにも拘らず参戦しようとはしなかった。
もっともこれにはもう一つの理由もあった。それは、次世代の戦略兵器と考えられていた原子兵器の開発停止と引き換えにフォレスタル政権が取引を持ち掛けたからだった。これを受けた日本、清国では欧州諸国に対する不信感が増大していったが、それを気にするものはまだ欧州諸国には多くはなかった。




