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第六章 歩数と沈黙

都庁前署の取調室。

神崎悟は、机の上に置かれたスマートフォンを見つめたまま、無言で座っていた。

三十五歳。人事責任者。だが今の彼は、責任者というより、ただの疲れ切った会社員にしか見えない。

「この歩数ログ、説明してもらえるか」

山岸が画面を示す。

事件当日、十九時二十分から十九時三十分。

社内にいたにもかかわらず、歩数は通常の三倍。

「……覚えてません」

「社内でそんなに歩き回る理由は?」

神崎は小さく首を振る。

「覚えていないんです。本当に」

山岸はため息をつく。

「辞表を書いて、破り捨てて、その直後に社長が死んだ。普通に考えて、お前が一番怪しい」

神崎はようやく顔を上げた。

「……怪しいのはわかってます。でも、俺は何もしてない」

「じゃあ、何をしてた?」

神崎は少し黙ってから言った。

「……探してたんです」

「何を?」

「人を」

「誰を?」

神崎は視線を逸らした。

「……言えません」

その報告を、田所は事務所で聞いていた。

「“人を探していた”か」

「はい。誰かを追いかけていたようです」

夏野が考え込む。

「つまり、神崎さんは犯人を“見つけようとしていた”可能性も?」

「そう。犯人じゃなく、“犯人になりそうな誰か”をな」

田所は資料をめくる。

「神崎は感情的だが、決定的におかしいのは――“何もしていないのに動きすぎている”点だ」

「動きすぎ?」

「犯人なら、もっと慎重になる。神崎は逆に、“必死すぎる”」

その頃、早乙女も別室で事情聴取を受けていた。

「喫煙所にいたんだろ?」

「はい。煙草吸ってました」

「一人で?」

「ええ」

「吸い殻を自分で捨てた理由は?」

早乙女は一瞬だけ間を置いた。

「……汚かったから」

「それだけ?」

「それだけです」

だが、山岸は机の上に別の写真を出した。

喫煙所のゴミ袋。

中には、煙草の吸い殻以外に、小さく破かれた紙片が混じっていた。

「これは?」

早乙女は目を見開いた。

「……知りません」

「社内メモ帳の切れ端だ。しかも内容は“営業部縮小計画”」

早乙女の喉が鳴った。

「……見てしまったんです。社長の机の上にあって」

「だから捨てた?」

「……はい」

「つまり、お前は“証拠隠滅”をした」

早乙女は俯いた。

「……自分が切られるって知って、頭が真っ白になって……」

その報告を聞いて、田所は言った。

「二人とも、“犯人っぽい行動”はしているが、“殺人に直結する行動”はしていない」

夏野が言う。

「でも、証拠は動かしてますよね」

「そう。この事件の特徴はな、“誰もが現場を汚している”」

田所は机の写真を指差す。

「神崎は人を探して走り回った。早乙女は社長の資料を捨てた。秘書はスマホを整理した。副社長と経理部長はメールを消した」

「全員、自分のために“何か”を消してる」

夏野が静かに言う。

「だから、本当の犯人の痕跡が埋もれてしまう……」

「そう。この事件、“真犯人が一番静か”だ」

その時、山岸から新しい連絡が入った。

「副社長の車のドラレコ、解析終わった」

「何が出た?」

「事件当日、十九時過ぎ。ビル裏口で誰かと口論している映像がある」

「相手は?」

「顔は映ってない。だが音声だけ残ってる」

田所は言った。

「聞かせろ」

スピーカーから流れたのは、低く荒い男の声。

『……ふざけるな。あんたのせいで、こっちは首が飛ぶんだ』

『知るか。俺だって余裕ない』

『……社長、消えればいいのに』

音声はそこで切れていた。

夏野が小さく息を吸う。

「“社長が消えればいい”……」

「言ったのは副社長本人だ」

山岸が言う。

「映像は副社長の車内マイクからだ」

田所はしばらく黙ってから言った。

「……全員、殺意の言葉だけは一流だな」

夏野が尋ねる。

「この中で、一番怪しいのは誰だと思います?」

田所はすぐに答えなかった。

資料を見つめ、神崎の歩数ログ、早乙女のゴミ袋、副社長の音声記録、秘書の削除履歴を順に並べる。

「この事件、犯人を当てるゲームじゃない」

「じゃあ、何ですか?」

「“誰の嘘が一番小さいか”を見るゲームだ」

夏野が目を細める。

「小さい嘘?」

「人は大きな罪を隠す時、逆に“小さすぎる嘘”をつく」

田所は静かに言った。

「そして今、一番“何もしていないように見える人間”がいる」

夏野が言った。

「……甲斐さん?」

田所は首を振った。

「まだ言わない。今は全員、ちょうどいい具合に怪しい」

窓の外では、雨が止みかけていた。

だが事件の中では、まだ誰も、本当に濡れている人間を見つけられていなかった。

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