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彩詠譚  作者: 風羽洸海
久遠の振り子
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柩・五章

   五章


 渺茫びょうぼうたる草原に風が吹く。連なる丘のなだらかな稜線を撫で、ぽつぽつと生える潅木の茂みを揺らし、歳月に忘れられたような白い巨岩を乗り越えて。

 そうして地平の向こうから届いた風が、異臭を運んできた。

 まだ遠く微かでありながら、確実に危険を告げる臭気。焼け焦げたように熱く、同時に冷たい死臭と腐臭を底に潜めたそれは、吐き気を催させ恐怖を掻き立てる。

 丘の上に単騎佇んでいた少年は、険しい目で風上を見渡した。長く伸ばした金茶の髪を一本の三つ編みにして背に垂らし、丈の短い上着に筒袴という、一帯に暮らす遊牧民の装いだが、辺りには家畜の群れも一族の天幕も見当たらない。

 と、風にまじって鋭い唸りが耳に届き、彼は素早くそちらを振り向いた。ひとつ先の丘の陰から天に向けて放たれたかぶら矢が、まだ宙にある。すぐさま彼は馬の腹を蹴り、駈けだした。瞬く間に斜面を下りまた登って、目指す丘の上に立つと一旦手綱を引き、眼下の状況を確かめる。

 草原はその丘で終わっていた。

 下り斜面がずっと西へ続き、その先には黒々とした樹海が地平の果てまで大地を埋め尽くしている。異なる世界をそこで継ぎ合わせたかのように、くっきりと切り替わっているのだ。

 樹木の育たぬ乾いた草原の先に森林があったなら、豊かさや瑞々しさを感じるのが自然であろうに、その森はまったく生命の喜びを与えてはくれなかった。太古の昔からあるような巨大な木々が密に身を寄せ合い絡み合って、得体の知れない力をその内に閉じ込めている。

 まともな人間なら、否、まともな生き物であれば、決して寄りつかないであろう禁忌の森。

 その手前に騎影があった。さきほど鏑矢を放った人物だ。斜面を駈け上がってきた男は少年を見上げ、「今代こんだい様」と呼びかけた。少年はうなずきを返し、男が逃げてきた方に目をやる。

 視線の先にもうひとつ、染みのような人影が蠢いていた。その向こうから吹いてきた風に飲まれ、男がうっと呻いて口と鼻を手で覆う。少年も不快げに顔をしかめたが、すぐに彼は腰に結わえた色紐を解き、同時に口を開いた。

 力強く澄んだ声が響く。ことばはない。いくつかの音、呼びかけるような音律のみ。

 途端に人影が反応した。狂気と切望に歪んだ咆哮を上げ、すさまじい速さでこちらに向かってくる。渇いた旅人が砂漠の水場を目指す勢いで。

 少年の横で、男が鏃のついた矢を弓に番えた。とはいえ手が震えており、まともに狙いを定められそうにない。そもそも標的の動きは奇妙に不規則で、己の身体を御せないのかしきりと左右に傾ぎ、いきなり数歩分も跳んだかと思えばつまずいてよろけるありさま。

 それでも、その生き物が目指しているところは明らかだった。

「オッ、オッオッ、ゥオゥ!」

 おぼつかない言語を無理に話そうとしているような、無意味ながら意志の感じられる音を発しつつ、それは一心に少年のもとへと急ぐ。足が追いつくより先に口だけでも喰らいつこうというのか、裂けんばかりに顎を大きく開き、涎を垂らしながら。その様はまさに邪鬼、人を喰らう化け物と呼ぶにふさわしい。

 少年は身の危険にいっさい動じず、冷たい目で邪鬼を見据えていた。腰に佩いた古い宝刀には触れず、先ほど手にした色紐を構える。六色の糸を撚り合わせた美しい紐が、うっすらと光を帯びてきらめいた。

「《茨よ 地を走り足を取れ 絡みつき縫い止めよ》」

 今はもはや使われない古い言葉で、色と音を載せた《詞》を紡ぎ、紐を放つ。それは獲物を狙う鷹のように風を切って飛び、邪鬼の足に絡みついた。引き倒された邪鬼は両手指を土に食い込ませ、腕の力で前へ進もうとする。だがすぐに、色紐が身体に巻き付き締め上げながら這い上がって、邪鬼の自由を封じた。

「射込みますか」

 動きの止まった邪鬼に狙いをつけ、男が問う。「無用」と少年は短く答えると、鞍から滑り降り、慎重な足取りで邪鬼に歩み寄った。芋虫のように転がったままもがく邪鬼の傍らに膝をつき、縛めが間違いなく効いているのを確かめると、すぐにそばを離れる。彼が近付くほど、邪鬼は反応して暴れるのだ。

 男のそばまで戻ると、少年は再び騎乗して言った。

「檻をここへ。里へ連れて行かねば」

「はい」

 畏まって応じ、男は矢をえびらに戻した。その場を離れる前に邪鬼を見やり、顔をしかめる。

「半年前にも出たばかりです。良くない兆しですな。イーラウ様が今代継承者となられて、はや五年。先代は霊峰へ登られなかった。……早く次の女神が産まれないことには」

「城壁の向こうへ避難する必要が生じるかもしれないな」

 少年すなわち継承者イーラウが言葉を引き継ぎ、背後を振り返った。連なる丘の陰になって見えないが、遠く東には帝国と丘陵を隔てる長城がある。彼は男に目を戻すと、小さくうなずいて見せた。

「邪鬼を檻に積んだら、話が通じそうな司令官を探しに行く。留守は任せるぞ」

「承知。ではすぐに」

 男は質問も懸念も差し挟まず、頭を下げると、馬を走らせて丘陵の北へと去った。その場に残ったイーラウは、転がしたままの邪鬼が視界に入る範囲で、辺りを少しうろついてみた。さすがに二体続けて現れるということはあるまいが、今までなかったからといって油断はできない。

 禁忌の森の縁に目を走らせて――息を飲む。

「まさか」

 思わず声が漏れた。あそこで今、動いた影は。

 手がさっと腰へ動く。帯に挟んだ数本の金属棒の束、術に用いる鉦を抜こうと構えたのだ。縛めの紐は使ってしまったが、これだけ距離があれば術だけで何とか動きを止められるはず。焼くか、凍らせるか、埋めるか。身の内にある『路』が震えた。世界の根源たる理に通じる『路』、その壁に刻まれた標が彼の意思に反応して花弁のように開く。必要な詞を繋ぎ合わせて彩り、声に載せられるように紡いでゆく――が、

「……?」

 それを発する必要はなかった。ちらりと見えたと思った人影は、そのまま森の中へと消えてしまったのだ。

 イーラウはまだ身構えたまま、困惑して森の縁を見つめ続けた。だがもう、出てくる気配はない。草原に転がされたままの邪鬼一体だけが、彼が使おうとした力に反応してもがいているばかり。

(見間違いか……? いや、しかしあれは確かに)

 邪鬼、あるいは少なくとも人間のような影だった。しかし普通の人間なら禁忌の森で生きてはゆけない、やはりあれはもう一体の邪鬼だろう。ならばなぜ、襲ってこなかったのか。囚われている仲間を見て危険だと判断し、引き返した? そんな理性があれらに残っていると?

(遙か昔、狂ってしまう前ならばともかく……それとも、彼の地で何か変化が起きているのだろうか。女神の器がまだ産まれないことも含めて)

 千年この方続いてきた営みが、崩れようとしている予感。眉を寄せて思案するも、禁忌の森の奥へ分け入って調べることなど叶わない以上、何が起きているにせよ手の届くところで出来る対処をするほかない。

 風に乗って車輪の転がる音が届く。檻の荷車が牽かれてきたのだ。彼は頭を振って物思いを払うと、拘束した邪鬼を積みに行った。


 広大にして肥沃な平原に栄える陽帝国、その西側から略奪に来る『馬賊』を防ぐために築かれた長城。丘陵を南北に走る堅牢な壁を眺めやって、継承者はふと苦笑をこぼさずにいられなかった。

 一定の距離を置いて砦が築かれ、そこにはかつて、長城の本来の目的を知る優れた武人がいて守りを固めていた。だが長い歴史の間にいにしえの事実は忘れられ歪められ、今ではもう、邪魔な役人の左遷先に成り果てているようだ。

 そうした砦のひとつに目を据えて、彼は小さくつぶやいた。

「三度目の正直、だと良いが」

 先に訪れた二ヶ所の砦の司令官は、まるで話の通じない無能だった。予期せぬ侵入者に対処もできず、馬賊と見るや慌てふためいて罵り喚くばかり。そもそも素面でさえなかった。酒を飲み賭博に興じるぐらいしか、やることがないらしい。何しろここは帝国の辺境、世界の果てだ。丘陵の向こうにまた別の国々、別の文明圏があるなら交易の中継点として栄えもしようが、禁忌の森ではそれも望めない。

 発展もなく寂れるがまま、崩れた壁や壊れた設備も放ったらかしで、本当に攻撃されたら長くはもたず陥落するだろう。

 だが、ここの砦は比較的ましなようだ。

 草原の側に出るための小さな門は、この一年以内に金具を取り替え補強したように見える。胸壁の隙間には、一人だけとはいえ見張りの兵士。少なくとも、警戒する必要を理解している司令官がいるらしい。

(もっとも、その警戒の対象は我々であろうことを思えば、話ができるかどうか)

 一長一短。だが行くしかない。彼は丘の陰に馬を待たせて、自分自身には簡単な目くらましの術をかけると、素早く長城に忍び寄った。色紐に詞を込め、胸壁の上に投げかける。紐は生き物のように胸壁にとりつき、出っ張りに巻き付いてひとりでに結び目をつくった。

 イーラウが壁の上に乗り込んだ時も、兵士はまったく気付かず、だらしない格好の中年男と並んで草原のほうを眺めていた。イーラウも二人の視線を追い、ああ、と納得する。仲間の誰かが見回りをしているらしい。丘を三つ四つ越えた辺りに、小さな騎影が動いていた。

 中年男が胸壁から身を乗り出し、兵士は弓を構えるべきかどうか迷う仕草をする。だが騎影はそのまま見えなくなった。

「最近、よく出やがりますね。どうします、シン殿? 何人か哨戒に出しますか」

 兵士がやや気まずそうに言った。どうやら、シンと呼ばれたこの男が上司らしい。ぼさぼさに伸びた髪を雑に結い、袍はよれよれ、帯の結びもいい加減で、もちろん武装などしていないが。

「やめとけ。近寄っちゃ来ねえんだ、下手にこっちから出てくこたァねえ」

 男は苦笑いして軽い口調で応じ、兵士の肩を叩いて階段を降りていく。やはり彼が上司、すなわち砦の司令官なのだろう。イーラウは気配を消し、そっと後をつけていった。

(緑綬か)

 袍の襟の内側に覗いた色を見て取り、ふむと改めて男を観察する。

 恐らく三十歳前後。その歳で緑綬はまずまずの地位だが、配属された場所がここ、ということは中央で何かやらかして煙たがられたか、元々田舎の出身で伝手が頼れず冷遇されたか。この先、藍綬に昇進することはないだろう。本人もそう理解しているからこそ、このだらけぶりに違いない。

 帝国の守りだなどと言ったところで、史実として『野蛮で危険な馬賊が大挙して攻め寄せた』などという出来事は一度もない。そのようにでっち上げた報告書はあるようだが。

(そもそも我らイウォルが帝国を攻める必要などありはしない。無用の警戒に神経と金を費やしていると知ったら、どんな顔をするやら)

 皮肉な笑みが口元に浮かぶ。長い歴史の中で、丘陵の遊牧民は平原とできるだけ接触をもたずにやってきた。食料も生活必需品も北のヴァストゥシャとのやりとりでおよそ賄えるし、どうしても入り用のものを稀に売買するぐらいだ。冬場の食糧不足を補いたい時に砦の司令官が取引に応じなければ、少々強引な方法で頂戴していくことはあるが、『襲撃』するといったらその程度のこと。侵略や占領とは程遠い。

 だがそれを利用して、帝国の外部に悪役をつくり辺境の人々の不平不満をそらしておけるのなら、いくらでも被害を誇張するだろう。

(人間のやることはいつも変わらぬ。さて、この男はどうだろう)

 そういう姑息で不誠実な組織のやり方に、馴染めないから飛ばされたのか。それとも、馴染んでいたせいで泥を被らされたのか。

 後ろから観察されているとも知らず、シンは司令官用の部屋に入ると、机に帳面を広げた。ほう、とイーラウは興味を引かれる。日誌をつけているとは感激ものだ。給料分の仕事をまっとうする責任感があるらしい。

 シンは最初、いかにも面倒くさいという風情で今日の騎影が見られた位置を記録したが、そこでふと不安に駆られたか、前の頁を繰って日付を遡りはじめた。

「おいおい……嘘だろう」

 つぶやきをこぼすと眉間に皺を寄せて唸り、頭を抱える。どうやら本当に『最近よく出る』ことを確かめてしまい、不吉な予感に襲われたようだ。

(いかにも、その予感を的中させてやるとしようか)

 継承者は重なり合った魂の層を意識し、肉体の本来の主に行動を委ねる。最初から自分が出るよりも、『普通でない事態』であることを強く印象づけられるだろう。

 帯に挟んだ鉦をそっと抜き、口元に当てる。目くらましを解くと同時に男の気を逸らせるための《詞》を唇の動きだけで注いでから、色を載せて打ち鳴らした。

 コォーン……

 柔らかい響きがひとつ、ふたつ、みっつ。シンが驚いて顔を上げた直後、窓を押し開いて突風が吹き込んだ。

「わっぷ! うわ、ああぁ待て待て」

 日誌が捲れて浮き上がり、書類が飛ぶのを、シンは大慌てで取り押さえる。腕が二本しかないのがもどかしいとばかり、机上に身を投げ出すようにして。それでも何枚かは手をすり抜けて床に落ちた。

「くっそ、何だよいきなり……ああもう」

 ぶつくさ言いながら、何はともあれ窓を閉めてしっかりと掛け金を下ろす。それから落ちた書類を拾い集めようと室内に向き直り、

「うわっ!?」

 いつの間にかそこに立っていた少年に驚かされ、奇声を上げてのけぞった。後ずさろうとして椅子を巻き込み、派手な騒音と共に引っくり返る。悪態をつきながらも素早く立ち上がり、椅子の背もたれを掴んで盾にすると侵入者に対峙した。

「どっから入りやがった」

 くそが、と唸りながら視線を走らせたのは、イーラウの背後だ。壁際の寝台、その上に放り出したままの剣だろう。侵入者を突き飛ばして武器を取りに行けるかどうか計算しているのだろうが、むろんイーラウは隙を与えなかった。

 少年はかつて継承者となる前にそうだったように、あらゆる感情を持たない冷ややかなまなざしを男に据え、平坦な声音で一言告げた。

「邪鬼が来る。我らを低地に入れよ」

 唐突な言葉に、当然ながらシンは眉を寄せ、胡乱げに聞き返す。

「はァ? いきなり何を言い出すんだ。人の部屋に挨拶もなしに乗り込んで、開口一番意味不明な命令かよ。何様のつもりだ」

 雑な言葉を投げつけることで威勢を取り戻し、彼は腹立たしげに背筋を伸ばして、正面から睨みつけてきた。

「てめえら馬賊の流儀を押し付けるんじゃねえ。話があるならまず、扉を叩いて名乗って許しを得てから入ってくるのが筋ってもんだろうが! 親にどんな躾をされてんだよ」

 こんな子供にこけにされてたまるか、と憤慨しているのがありありと伝わる。

(だが無闇に騒ぎ立てないのは良い。悪態にも筋は通っている。素面だな)

 少年の意識の下で、継承者はそんな評価を下す。身だしなみも仕草もだらしなくて怠慢な様子だが、危機に際して冷静に対処しようとするだけの理性はあるようだ。

「我らを低地に入れよ。ならぬというなら城壁を崩す」

 もう一度静かに繰り返してやると、シンは呆れてのけぞった。まじまじとおかしな侵入者を見つめ、どう判断したか、聞こえよがしのため息をついて頭を掻く。それから時間稼ぎのように片付けをはじめた。散らばった帳面を拾って揃え、きちんと机の端に寄せる。それが済むと室内を見回し、もうひとつ椅子を引っ張ってきて少年の横に置いた。

「まあ、座れ。ちょいと落ち着いて話を聞こうか」

 さあどうする、と反応を窺いつつ、机を挟んで対面に回る。話し合う意志を示すため先に腰を下ろしたが、動作は用心深く、警戒は緩めていない。

(合格だ)

 継承者は嬉しくなってしまい、笑みほころんだ。突然人間らしい感情を見せたものだから、司令官のほうは面食らってぽかんとする。その間に継承者は表情を取り繕い、用意された椅子に座って、ようやく挨拶を述べた。

「どうやら、やっと話の通じる者に出会えたようだ。突然の来訪、失礼した。私はイウォルの『継承者』、今代の名をイーラウという。そなたらが馬賊と呼ぶ民の、長の甥だ」

「なんだよ、まともに話せるんじゃねえか! だったら最初からそれで来い、いきなり部屋に乗り込まれて低地のどうのと言われたって、わけがわからんだろうが」

 シンは拳で机を叩き、動転したことの恥ずかしさを今さらごまかそうとする。継承者イーラウは小さく笑った。

「だがそなたは適応し、私に向き合った。そういう者が必要なのだ。いきなり『わけがわからない』ことを突きつけられて、怒鳴り喚いて拒絶したり、追い払って見ないふりを決め込んだりするような愚か者では、力不足なのでな」

「随分な言い草だな。よその砦でも同じことをして、お目にかなう反応をしなかった奴はふるい落としてきたわけか」

 シンは忌々しげに唸った後、ふと曖昧な表情になって目を逸らした。意味不明の託宣を無表情に繰り返していた少年が急にまともな大人の口調で話しだしたから、つい安心して普通に会話してしまっているが、そもそもこの状況はまともでない。しかしここで頬をつねれば悪夢から醒められるのでもない以上、このおかしな対話を続けるほかないのだ。彼は開き直ったように、両手を広げて催促した。

「この通り、拝聴いたしますぜ、若様。しがない小役人にどんな素晴らしい話をお聞かせ下さるんでしょうかね」

「その余裕がいつまでもつかな。要点を話すと、最初に告げた通りだ。邪鬼が来る、だから我々を城壁の東に入れよ。……邪鬼というのは、我々の住まう丘陵よりも西、禁忌の森から現れる生き物だ。非常に貪欲で、虫でも家畜でも人間でも、手当たり次第に喰らう。そして恐ろしく生命力が強い。そなたらが『牙の門』と名付けた関で守りについているジルヴァスツでなければ、奴らの息の根を止めることはできない」

「ジル……なんだって?」

「ジルヴァスツ、関の守人だ。ああ、そなたらは虎狼族と呼んでいるのだったな」

 思い出して言い添えてやったが、おとぎ話の生き物を持ち出された気の毒な小役人はまたしても頭を抱えてしまった。

「話を聞こうとは言ったが、与太話はねえだろ」

「ほう、そなたもやはり理解できぬものは見えぬところへ追いやって、知らぬふりを決め込むというわけか。だが、私と差し向かいで話を聞こうと言ったのはそなたが初めてだ。最後まで付き合ってもらうぞ」

 イーラウは鷹揚な態度で言いつつ、目つきと声音に力を込めて脅しの含みを持たせる。相手の気を引き締めさせてから、彼は感情を排して淡々と説明した。

「……本来ならば、邪鬼はでたらめな行動をするものだ。しかし北の霊峰カリハルシに坐す女神が、自らの力によって彼らを呼び寄せている。だからこそジルヴァスツは関門で待ち受け、あれらを殲滅することができるのだ。そなたら低地の民、『弱きもの』らが何も知らず安穏と暮らしていられるのも、女神とジルヴァスツのおかげだぞ」

 誇張も脚色もしない、情感など一切込めず喩えも使わない。古い昔のおとぎ話などではなく、今現在もおまえたちの身にかかわりのある現実だ、と知らしめる口調。その意図は間違いなく伝わった。シンは次第に顔をこわばらせ、ぎゅっと握り締めた拳を胃の辺りに押し付けた。これから悪い知らせが伝えられると悟り、唇が小さく動いて「やめろ、聞きたくねえ」と声にならない泣き言を紡ぐ。

 だがもちろん、容赦はできない。イーラウは冷徹に続けた。

「我々は丘陵に暮らしながら、常に邪鬼を監視してきた。数は増えていないか、南に迷い出てくるものはいないか。数年前から不穏な予兆があったが、ついに邪鬼どもが南にも現われはじめたのだ。半年前に一匹、つい先日にも一匹」

 途端に相手が、その程度で大騒ぎするなよ、とばかりの顔になったので、イーラウは辛辣な笑みを口の端に閃かせた。知らないとは平和なものだ。

「邪鬼は一匹でも数十人は喰い殺すぞ。半年前は発見が遅れたうえに私がすぐに駆けつけられず、どうにか動きを止めるまでに羊をおよそ二十頭、赤子と女が合わせて五人、立ち向かった男の四人を殺された。重傷を負った者は八人」

「どんな化け物だよ、それは!? 山のような怪物でもなきゃ、羊二十頭なんぞ喰えねぇだろうが!」

「ああ、獲物をすべて腹に収めるわけではない。一口で急所を……人間であればだいたい喉笛を喰いちぎって、いささかの血を啜り肉を喰らうが、獲物が動かなくなればすぐ別の標的へ移るのだ。ゆえに邪鬼が一匹現れるだけで甚大な被害が出る。我々は邪鬼に対抗する術を絶やさず受け継いでいるが、それでも数が増えれば丘陵で暮らせなくなる。今はまだ一族を挙げて避難するまでには至らないが、このままではいずれ城壁に頼らねばならないだろう。だから、その時には我々を受け入れる準備をしてもらいたい。なされぬ場合、我々は城壁を打ち壊し、邪鬼どもが東へ這い進む道を開けてやる」

「なんだよ、それ」

 話が進むにつれ青ざめていった司令官は、とうとう涙ぐんで両手で顔を覆った。無茶言うな、とその姿勢が声ならぬ悲鳴を上げる。さすがにイーラウも多少、同情せざるを得なかった。

 一人二人の『馬賊』をこっそり通してやるぐらいなら、どこの砦の司令官でも袖の下次第で許可するだろう。だが一族挙げての避難となれば、事は公にならざるを得ない。僻地の閑職に飛ばされた役人の独断が許される案件ではないし、かといって中央に伺いを立てたところで理由が理由だ、真に受けられるはずがない。それでいて、いざ本当に邪鬼が城壁近くまで寄ってくる事態となれば、対処するのは現地の人間なのだ。泣きたくもなるだろう。

「邪鬼だとか禁忌の森だとか恐ろしげな言葉を並べて、要するにこっち側に入らせろって脅しだろうが。でもって入ったが最後、腰を下ろして出て行かないに決まってる」

 シンが顔を覆ったまま呻いた。自身の考えというよりは、そのように言われるだろうという予想。あるいは、邪鬼の脅威を半ば信じつつも、はったりであって欲しいという望みか。

 やはりもう一押しが必要だ。イーラウは自然な態度を装って立ち上がった。

「そう考えるのも無理はない。良かろう、見せてやる」

 言いながら、帯の上から腰に結わえていた紐を解いた。六色の糸を組み合わせて縒った長い紐。それを手繰りながら、口の中で詞を紡ぐ。

 何をする気かとシンが身構える間もなく、紐が宙を舞った。

「うわっ! なんだこれ……っ、あぁくそ!」

 振り払って逃げようとするも果たせず、シンは瞬く間に紐に巻きつかれる。手足を封じられてよろけ倒れかけたところを、イーラウが支えてやった。邪鬼にするより手加減したので痛めつけてはいないはずだが、身体よりも自尊心が傷ついたらしい顔だ。イーラウは一応、すまないな、と目礼で詫びてから、司令官をひょいと片手で持ち上げた。もちろん彼が怪力なのではなく、紐に込めた術のおかげなのだが、手荷物扱いされた当人がそれを知る由もない。

「おい待てやめろ、何する気だまさかうわ、おぉぉい!」

 驚き慌てふためいて意味不明の奇声をまじえながら抗議する男がひとり、窓からぽいと外へ放り出される。幸か不幸か、それを見ていた者は誰もいなかった。


「なんで誰も駆けつけねぇんだ畜生、あんだけ騒いだのに。たるみすぎだろ、くそっ」

 鞍の後ろに載せられたまま、シンはぐちぐち文句を言い続けている。歩みに合わせて息が詰まるし楽ではなかろうに、おとなしく黙ってはいられないらしい。

 継承者は相手にせず無視していたが、丘を二つ越えてもまだ終わらないので、とうとう失笑をこぼした。

「よくもそう延々と恨み言が続くものだな、小役人。あまり部下を責めてやるな。弛んでいるのは否定せぬが、誰もそなたを救いに来なかったのは、私がそのように細工したからだ。彼らの責ではない」

「笑うなクソガキ! いい加減にこの紐を解け、妖術なんか使いやがって」

「妖術、か」

 ふっ、と辛辣な苦笑をこぼし、継承者は馬を止めた。いにしえの術、誰もが使いこなした知恵とわざも、落ちぶれたものだ。ともあれ、それはこの小役人の責任ではない。

「そうだな、ここから砦まで徒歩では日が落ちるまでに帰りつけまいし、逃げる気がないのなら解いてやろう。言っておくが、私の馬を奪おうとしても無駄だぞ」

「いいからさっさと解け! 馬の背中を濡らされたいのか!」

 真っ赤になってシンが怒鳴り、一拍置いて少年の快活な笑い声が辺りに響き渡った。

 捕らえた時と同様に、紐がするりと動いて解ける。自由になったシンは大急ぎで地面に下り、少しばかり走って離れると、切迫した膀胱を解放してやった。

 人心地ついた顔で彼が戻って来ると、イーラウは真面目を装って茶化した。

「これからは不測の事態に備えて、早めに水甕を空けておくのだな、小役人」

「腹の立つ小僧だな、いちいち人を小役人呼ばわりするんじゃねえ」

「仕方がなかろう、そなたが名を言わぬのだから」

「そういう時は普通に名前を訊け! 俺はシン=ウェイデン、緑綬正二官だ。馬賊の若様にとっちゃ意味のねえ位だろうが、これでも官吏登用試験の成績は……」

 ふつっ、と言葉が途切れる。シンは顔をしかめ、風上を振り向いた。

「なんだ?」

 異臭がした。風に乗って、ほんの一瞬だったが、確かに何か危険なものの臭いが鼻をかすめていったのだ。目の前の怒りも何もかも放り出して、今すぐ一散に逃げろと本能が命じるほどの臭い。

 日が翳り、風が冷たく重くなる。動悸が速まり、肌が粟立つ。

「心配ない。まだ遠い」

 イーラウが言って、ぽんと馬の首を叩く。

「あれが邪鬼の臭いだ」

「……臭ぇな」

 シンは憎まれ口を返す元気もなく、そそくさと馬のそばに寄った。今の自分は寸鉄も身に帯びていない。得体の知れない化け物が出たとして、身を守る術は何もないのだ。

 彼が不安になったのを見て取り、イーラウは表情を和らげた。

「そなたの身の安全は私が守る。必ず無事に砦へ帰すと約束しよう。でなければ、連れ出した意味がないからな」

「偉そうに言いやがって。俺だって武器があれば、おまえみたいな子供の背中に隠れる必要なんかねえんだよ」

 ちっ、と舌打ちして空を仰ぐ。雲が流れて太陽が再び輝いた。

「子供ではない」

 継承者が言った。若者にありがちな強がりではなく、年長者が幼少の者を諭す声音で。

「そなたも既に気付いていよう。先に告げたように、この身はイーラウ、現イウォルの長の甥だ。しかし同時に私はヴァステルシ、即ちいにしえの力と技の継承者でもある。長き時を歩み幾人もの身を経て、固有の名はもはや無い」

 静かな口調は神秘の気配を帯びていて、内容もさながらすぐには受け入れ難く、シンは頭を抱えてしまった。星空の下、揺らめく焚き火を挟んで言われたなら少しは信じやすくもあったろうが、夏の陽射しが降り注ぐ緑の丘ではどうにも嘘臭いばかりだ。

「ああもう、いっぺんにあれこれ言われてわけがわからん。そもそもおまえをなんて呼べばいいんだ、え? イーラウか、継承者か、ヴァス……なんとかってったか」

「どれでも、覚えている名で呼べばいい。さして重要なことではないからな」

「なんだよそれは。重要じゃねえんだったら、聞いたこともない名前を色々出すなよ、混乱するだろうが!」

「だから最初に、見込みの有無を見定めたのだ。すべてを理解せずとも良い、どうせ我らの歴史は失われたのだし、弱きものらはまた忘れるだろう。今はただ、そなたが何をなさねばならぬかを知って対処すれば良い。行くぞ」

 突き放した口調で言い、さあ乗れ、と鞍の後ろを叩く。シンはあからさまに不服顔だったが、頭を掻いて大きなため息をついた後、諦めて鞍に手をかけた。

 丘陵を西へと進む間、シンは落ち着きなく身動きしたり、辺りを見回したりしていた。乗馬にあまり慣れていないのだろう。それに、いざとなったら砦まで徒歩で帰れるか、不安になってきたらしい。

 イーラウは気楽な態度で「どうした」と訊いてやった。何の問題もないぞ、心配するな、となだめる代わりだ。シンは何ともいえない唸りを漏らしてから、はたと気付いた様子で疑問を投げかけてきた。

「最近、砦の近くにちらほら騎影が見えると思ったのは、おまえか。邪鬼とやらが出て来ていないか、見回っていたのか?」

「そうだ」

「おまえ一人でか」

「いや、仲間と分担している。邪鬼を封じられるのは私だけだが、見付けて知らせるのは誰でも良いからな」

「封じる、ってな……さっきみたいに紐を使って?」

「ああ。他の者も大勢でかかれば動きを止めるぐらいはできるが、犠牲者を増やすだけだからな。見回りは必ず単騎でおこない、発見したら合図をしてすぐに逃げろと言い聞かせてある」

「なんだ、馬賊は誰でもあの妖術を使えるんじゃねえのか。紐を生き物みたいに操ったり、いきなり部屋に現れたり」

「そなたの部屋に入った折は、特別込み入った手段に頼ったわけではないぞ。むろん多少の細工はしたが、せずともたやすかったろうな」

 イーラウが軽く揶揄する。シンは苦虫を噛み潰し、帰ったらあいつら覚悟しとけ、などと不穏な決意をつぶやいた。イーラウは気の毒な兵士らを思いやって苦笑を浮かべたが、じき真顔になって独り言のように続けた。

「そなたが妖術と呼ぶのは、いにしえの時代に我々が用いた技だ。ウルヴェーユ……今の言葉に訳するなら、彩詠術、とでも言おうか。詞に音と色を載せて対象に働きかけるのだ。今ではもう、私の他にこの力を持つ人間はいない」

 なぜ、の問いを許さない声音だった。孤独と寂寥、哀惜の滲む声。シンはわざとらしく応じた。

「そりゃァ良かった。馬賊が皆おまえみたいなんだったら、こちとら長城に隙間なく兵を並べたって安心できねえよ」

「褒め言葉と取っておこう」

 ふっとイーラウが笑うと、シンはむず痒いのをごまかすように身じろぎした。

 そのまま馬に揺られ続け、丘をさらにいくつも越えて、蜂蜜色を帯びた陽光に長い影が伸びてきた頃、二人は丘陵の果てに辿り着いた。先日イーラウが邪鬼を仕留めた、あの丘だ。

 何の予告もなく、初めて禁忌の森と対面させられたシンは、完全に度肝を抜かれた。

「着いたのか? さっきからどうにも不気味な感じがするんだが」

 馬が止まったのでそう言いながら身をずらし、前を覗き込んだ途端、眩暈に襲われ落馬しそうになる。危ういところで我に返ったものの、声すら出せないまま喘ぎ、目の前の光景を拒否するように顔を背けた。身体が震え、歯の根が合わずにカチカチ音を立て始める。あまりにも巨大な存在を前にして、本能的な恐怖に圧倒されているのだ。

 イーラウは静かに説明してやった。

「普段、我々はこれほど近くに寄ることはない。邪鬼の気配がした時は別として、最低でも丘をひとつ越えたところを移動する。だが今は、そなたに見せるために敢えてここまで登った。……説明が要るか?」

 返事代わりに、シンは激しく首を振った。何も言わなくてもいい、とにかくここから離れたい、と全身で主張する。

 もう充分だろう。イーラウは馬首を巡らせ、東北の方角へ下りていく。背後でシンが、抑えた安堵の息を吐いて緊張を緩めた。

「あれは……」

 小声で言いさしたものの、そのまま黙り込む。どんな言葉で説明されても、あの森の正体は理解できず畏怖が薄れることもない、いっそ何も言わないほうが良い――そうした諦観だろう。継承者は独り言めかしてささやいた。

「語らぬことが一番の安全。イウォルの民の多くもまた同じだ」

 人智を遙かに越えた脅威、手に負えない神秘について、まともに考えようとすれば気が狂う。だから、現実そこに在るのが確かであっても、そっと視線を外して知らぬふりをして過ごすのだ。

(そうやって生き延びた末に、禁忌の森が本来どういうものであったか、何故ああなったのかを理解しているのは私だけになってしまった)

 孤独を紛らすように、己の内にある『路』を意識する。世界の理に通ずる路、根源の力を汲み出すわざ。それらを知らずして、あの森を理解することはできない。

(否、もう一人)

 彼はふと目を細め、遙か北の空を見やったが、それもほんの束の間だった。記憶の彼方に揺り戻されるのを避けるように、瞼を閉じて一呼吸。現在に意識を戻し、手綱を取る手に集中した。

 ほどなく丘と丘の間の狭い平地に、一族の天幕が見えてきた。風向きが変わり、人のざわつきや生活の物音が届く。それだけでなく、先刻ほんの一瞬だけでシンの背筋を寒からしめたあの異臭も。

「おい、どういうこった。この臭いは……」

「そう、邪鬼の臭いだ。今、一匹捕らえたものがいるのでな。ヴァストゥシャへ連れて行って、とどめを刺してもらわねばならん」

 継承者は当然のように答えたが、シンの方はすぐには理解できない。眉間に皺を寄せてしばし考え、やっと思い出す。

「ああ……なんだったか、北の方にいる虎狼族でなきゃいけねえとか言ってたな。捕らえることはできるのに、殺せねえってなどういうこった。それとも、ここで殺しちゃならん理由でもあるのか? 土地が穢れるとか」

「違う。が、一部は正しい。邪鬼の息の根を止めるにはジルヴァスツの爪か牙をもってせねばならないが、他の方法でもやってできないことはない。酸を浴びせて焼いて動きを封じ、全身を細切れに切り刻み、徹底的に形がなくなるまで潰した上で、ばらして石灰に埋めて、どうにかというところだ。それでも不完全だと、月が一巡りする頃には元の姿で地面から這い出してくる。だから危険すぎて、埋めた土地には近寄れん」

「うえっ」

 シンは吐きそうな声を漏らす。実際にも気分が悪くなったらしく、彼は会話を打ち切って口をつぐみ、鼻をつまんだ。

「お帰りなさいませ」

「砦の者を連れて戻られましたか」

 継承者の姿を認めて、遊牧の民が次々に恭しく頭を下げる。ほとんどが壮健な男であり、皆、顔の下半分に薄布を巻いていた。元は日よけ風よけの布で、今は臭いを防ぐのにも役立っている。天幕の間には騎乗用の馬がわずかにいるだけで、生活の糧である山羊などの家畜はいない。ここにいるのは、邪鬼の脅威に耐えられ、かつ万一には立ち向かうことのできる人間だけなのだ。

 イーラウが馬を止めて下りるように合図したので、シンは急いで地面に両足をつけ、しゃがみ込んだ。邪鬼の臭いは下に淀むよりは上に散っていくようで、土と草の匂いが勝って少し楽になる。だがほっとした途端に、低い呻きとガタガタ何かを揺する音が聞こえて、胸のむかつきが酷くなった。

「邪鬼とやらを見たら、帰らせてくれるんだろうな。こんな臭いの元と一緒に長居したかねえぞ」

 小声で唸ったシンに、イーラウは軽くうなずいた。

「飲まず食わずでかまわないと言うなら、すぐに帰らせてやる。だが何か腹に入れたいのであれば、帰りは明日になるな」

「こんなところで何が食えるってんだ。そもそも飲み食いできる気分じゃない」

 シンは毒づいたが、イーラウは素っ気なく「こっちだ」と手招きして歩きだした。邪鬼を捕らえた檻に近付くにつれ、異臭は強まり、物音も激しくなる。

「ヴゥ……くご……ウォ……」

 呻きの中に何か意味のありそうな断片が挟まった。シンが怯んで立ち止まる。

「来い。そなたらを脅かすものの姿を、しかと目に焼きつけよ」

「命令するな」

 荒っぽく言い返し、シンは渋々歩みを再開する。じきに台車に載せられた檻が見えてきた。細い木の枝で作られた、いかにも頼りないそれは、中から揺すられて今にもばらばらになりそうだ。だがそうなっても良いようにか、囚人は紐で幾重にも縛られていた。

「……邪鬼だと?」

 後ろ手にされ、膝を折り曲げた姿勢で、両足のくるぶし、膝、腹から胸、首もとまで。これでもかとばかり巻かれた紐が、衣服も毛皮もまとわぬ青白い皮膚に食い込み、赤黒い染みを滴らせている。狭い檻の中で転がり、柵に体当たりして暴れるので、そこらじゅうに同じ色の汚れがついていた。

 猿轡を噛まされた口から、オッオッと声を押し出していたそのものは、シンに気付くと血走った目をぎょろりと向けた。狂気を孕んだ歓喜に、その目が細められる。

 耐えきれなくなってシンは怒鳴った。

「くそが! 人間じゃないか! どこから攫って来やがった、馬賊ども!」

 その反応を予期していたイーラウは、醒めたまなざしを返しただけで動じなかった。

「そなたには、これが人に見えるのか。青白くいびつな姿をして、理性もなく、痛みも感じぬこの生き物が」

「こんな扱いをされたら誰だってイカれちまうに決まってるだろう!」

「そうではない。これは『しもべ』だ。人の行う仕事を担わせるため、人と似た体を与えられてはいるが、人ではない。いにしえの技で生み出された、偽りの命だ」

「馬鹿な……」

「そなたも心では理解していよう。これは人ではない、人にとっての敵であると」

「わけがわからねえんだよ! しもべだとか作り出したとか言った端から、今度は敵だとか、何がどうなってんだ畜生! 奴隷に反乱でも起こされたってのか」

 シンは頭を掻きむしり、地団太を踏む。混乱し、現実を拒絶したくて幼稚な振る舞いをしているが、そのくせ事情を推察する理性はまともに働いている辺り、何とも気の毒ではある。イーラウは内心ひそかに苦笑した。恐れ忌み嫌って、俺には関係ない知るか、と投げ捨てられる性分なら、もっと楽に生きられるだろうに。貧乏くじを引かされる人間というのは、いつも大体似たようなものだ。

「反乱を起こしたのではない」

 彼は少しばかり親切な口調になって言うと、邪鬼を一瞥した後、シンを促してその場を離れた。檻を揺する物音がおさまる。シンが背後を気にしているので、イーラウはひとつの天幕の入口を開けながら説明してやった。

「私の力はあれらを活気づかせるのでな。あまり長くそばにいると危ない。そもそもは、私が受け継いでいるこの力こそが、彼らしもべを生み出したのだ。だから今も彼らは、私と霊峰の女神に反応する。かつての主の力に引かれ、ただ闇雲に寄り集まろうとする。彼らは反乱したのではない、ただ……狂ったのだ」

「おまえが話しているのは、いったいいつの時代のことだ? 帝国の歴史にそんな話はいっさい伝わってないぞ」

 疑いを顔に出した勉強熱心な役人に対し、継承者は微かに皮肉な笑みを見せた。

「氷漬けだった東の平野に人が入る前、陽帝国の歴史よりも古い時代のことだ。今は禁忌の森に呑まれた西の大地に、王国が繁栄していた最後の時代――そなたらが伝えることを怠り忘れ去った歴史だ」


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[良い点] 禁忌の森に…!?え…!! ウルヴィーユが、みんなが幸せになるためのわざが……シェイダールが作った幸せが……。嘘だ……。 金茶の髪と女神ってあの2人…?気になることが多すぎて……。
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