柩・二章
二章
里で暮らすとは言っても、まずはとにかく療養だった。全身の打撲や擦り傷に加え、足と腕の骨が折れていたのだ。数箇所を切開して骨をきちんと接ぎ、縫い合わせる必要があった。それが済んで傷口が塞がり、支えを借りて立ち上がれるようになるまで二十日余りかかった。むろん副え木はまだ当分、外せない。
ただ幸いなことに腰や背骨、首といったところが無事であったので、ゆっくり時間をかければ回復するだろう、とスルギが請け合った。
「しかしつくづく、低地の民が『弱きもの』というのは本当なんだなぁ。細くて脆くて、回復も遅いし……どこか別のところが悪いのかと心配したよ」
ミオのために杖を作りながら、スルギはしきりに嘆息した。遊牧民との交易は行うものの、互いの生活にまでは立ち入らない関係らしく、知識不足はミオもスルギも似たようなものだった。
「すっかりお世話をかけて、すみません」
相変わらず布団の上に座ったまま、ミオは頭を下げる。そうしながらも、彼女はスルギの器用な手つきをじっと観察していた。大きな手は意外なほど細やかに動き、何かが要るとなったら大抵は創意工夫で自作してしまう。力が強いぶん、物を細工するのも簡単なのだろう。
「里の皆さんは、丈夫なのですね。スルギさんの治療を必要とする人は、ほとんどいらっしゃらないようですし、たまに来られても一回か二回でもう治ってしまって」
だから何人かは、ミオがいつまでもスルギの診療所にいるのを不審がって、探りを入れてきた。まさに嫁にしたのか、と露骨に訊いた者もいる。十日も二十日も、ろくに身動きできないまま『入院』する患者がいるなどとは、信じられないらしい。
スルギのもとを訪れる患者は、多くが単純な怪我であったり、鼻風邪がすっきりしないから薬をくれという程度であった。スルギが往診に行くこともあるが、年寄りの腰を揉みがてら愚痴を聞くぐらいのようだ。
「君達の方では、関門から西は『虎狼族』がいるから危険だ、という話になっているようだが、俺達の方では違う。遙か昔、女神シーリアが大地をつくられ、平らな土地を『弱きもの』に与えた。俺達ジルヴァスツは、悪しきものが低地に入らないよう、関を守る役目を任されたんだ。だから鋭く強い爪と牙があり、力に満ちた体をもっている」
スルギの言葉に、ミオはふと遠い目をした。どこかで誰かが、そんなことを言っていたような気がする。幼い頃に語り聞かされた昔話だったろうか。
「守られている当の私達は、その恩恵を歴史のどこかで忘れてしまったようですね」
「まあ実際、俺達も低地の民を身近なものとして感じているわけじゃないし、君が来るまでそれこそ空想の生き物みたいな認識でいたから、お互い様だな。関の守り手を自任してはいるが、低地の民のためというより、自分達の里と霊峰の女神を守るため、と思っている者の方が多いだろう」
スルギはそこまで言い、杖の具合を確かめながら、冗談めかして続けた。
「もしかしたら本当は、ずっと昔は俺達も低地の民と一緒に暮らしていたのに、俺達だけここに取り残された挙句に忘れられて、それでも女神がついているから良いんだ、っていう負け惜しみかもしれない」
くく、と喉の奥で笑い声を立てる。人間が同じように笑う時よりも、温かみがあるように感じられるのはなぜだろう。ミオがしげしげとスルギの横顔を見ていると、彼は視線を感じて振り返り、不思議そうに瞬きした。
「君は変わっているな。いや、馬の民とたまに話す程度の俺が言うのも妙だが、しかし君達はもっと表情が豊かなものだろう? 顔のつくりが違うからか、尻尾がないからか、感情がはっきり顔に出るように思っていたんだが。君はどうも違うな」
言われてミオはうつむいた。薄気味悪い、と崖の前で罵られたことを思い出す。生まれてからこの里に来るまでの二十年ほど、同じ人間しかいない環境で暮らしていたというのに、ついぞ同族として認められた気がしなかった。人でないものの里へ来てまで、変わっている、と評されようとは。
「……私は、空ろなのだそうです」
「空ろ?」
「人として当然あるべき心が抜け落ちていて、ぽっかりと空ろであると、よく言われました。きっとその通りなのでしょう」
父があれほど懇々と説いたのも、下級官吏の境遇をよく知っているだけに、こんな娘ではどうなるかと案じたためだろう。せっかくの助言も役に立たなかったが。
(ごめんなさい。上手くふるまえませんでした)
どうしておまえは、ちゃんとできないんだ。
幼い頃から何度も言われてきた。祖父母や叔父、あるいは近所の誰かから菓子を貰った時。ちゃんとお礼を言いなさい、どうしてそんな仏頂面なのか、と叱られた。兄が官吏登用試験に受かった時、妹の婚約が決まった時。家族のことを素直に祝ってやれないのか、となじられた。祖父母の葬式では、なんて冷たい恩知らずな子だ、と親戚がこぞって陰でささやき合っていた。
だがどんなに責められても、ミオにはどうしようもなかったのだ。うんと幼い頃は、笑うとか泣くとかいった他者の行動が、そもそもどういう意味なのか理解できなかった。長じて少しは面白さや悲しさといった感情の動きを意識するようになったが、それとて、顔や行動に影響を及ぼすほどに強くはならなかった。
自分が『ちゃんとできない』のは、何かが足りないからだ。ミオはやがて納得した。皆が持っている何か――己は持たぬがゆえ、それについて解りようもない『何か』が、あるべきところに無いのだ。
そう悟ってからミオは、ちゃんとしよう、という努力を諦めた。できるだけ皆の怒りを買わぬよう、皆を不愉快にさせぬようひっそりと振る舞い、それでも失敗してしまったらあとは謝るしかなかった。何がどうしていけないのか理解できない、そのこと自体をも含めて、ただただ「ごめんなさい」と頭を下げ続けたのだ。申し訳ない、と本当に心で感じているわけでもないのに。
今もまた、ミオはうなだれていた。だがスルギの反応は、今までの人々と同じではなかった。彼はごく普通の調子で「そうかい?」と言ったのだ。
ミオが顔を上げると、スルギは灰色の目で彼女を見つめて、考え深げに続けた。
「俺には、君が空っぽだとは思えないけどな。あんまり顔には出さないが、痛みも感じるし、食事も好きなものはよく食べるし、そうそう、子供が来た時はすごく嬉しそうだ」
思い出して笑ったスルギに、ミオはわずかに頬を赤らめて困惑の表情になった。
棘が刺さったとか、転んで怪我をしたとかで、子供の患者がやって来ることもあるのだが、これがなんとも可愛らしいのだ。普通の犬猫でも仔は愛くるしいものだが、ジルヴァスツもそれは同様で、狼や虎や豹、狐に山猫と様々ながら、顔も体も丸っこくふかふかの産毛が密生しており、手足も太く短くて、仕草のすべてに愛嬌がある。
元来ミオは取り立てて動物好きというのではなかったが、それでもつい引き寄せられてしまうほどだ。自由に動けないので奥の部屋から手当ての様子を眺めるだけだったが、
「もう、魂だけこっちに這い出てきそうなぐらい、瞬きもしないで食い入るように見つめているんだもんなぁ。ミオは子供が好きなんだな」
……どうやら傍目に露骨だったようである。
ミオはしばし黙って恥ずかしさを堪えてから、訥々と答えた。
「人の子供は、あまり得意ではないんです」
感情全般が薄いミオにとっては、好悪よりも得手不得手の問題だった。子供は突然泣いたり叫んだり、意味不明の基準で行動して、当惑させられるばかり。気分の変化や起伏の激しさも、ミオには不可解すぎて受け止められない。
「でも、ジルヴァスツの子供達は、随分と様子が違っていて。見た目が可愛いというだけでなくて……とてもしっかりしているのが、不思議なんです。手当てが必要なほどの怪我をしているのに、泣き喚いたりせず、一人でスルギさんのところまで来るでしょう」
人間の子供なら泣いて暴れて、親に押さえつけられて治療を受ける場面も珍しくないのに、この里の子らは誰の付き添いもなくやってきて、たどたどしい言葉ながらも、怪我をした状況や、痛みや不調の具合について説明するのだ。
スルギも真面目な顔つきになり、ひとつうなずいた。
「そう言われたら確かに、ジルヴァスツの子は育つのが早いんだろうな。きっと……」
続けて何かを言いかけ、ふと黙り込む。ミオがじっと待っていると、ほどなく彼は慎重に口を開いた。
「君がこれからもこの里で暮らすのなら、いずれは知るだろう。さっき、俺達は関を守る役目を任された、と言ったが、あれは単なる言い伝えではないんだ。もちろん、女神がお命じになったというのが事実かどうかはわからないが、実際に俺達はここに里が築かれて以来ずっと、邪鬼との戦いを続けている。子の成長が早いのも、多分そのためだろう」
「邪鬼、というのは」
「里の西に広がる『禁忌の森』から出てくる、厄介な生き物だ。手当たり次第に何でも喰い散らかす。野兎や野鼠、虫も鳥も魚も、……里の子供さえも。いや、大人でも下手をして奴らの群れに押し包まれたら、助からない」
スルギの鼻面に皺が寄り、口が歪んで牙が覗く。誇張や脅しではない、事実なのだ。ミオは背筋が冷えて、身を竦ませた。なぜか、そのありさまが見える気がした。
地を埋め尽くして蠢く不気味な生き物が、人に群がり這い登って牙を立て、血を啜る。喰らいついて離さず、屈強なジルヴァスツさえも数の力で倒してしまうのだ。
ミオの恐れを察したスルギが気配を和らげ、そばに寄って背中をそっとさすった。
「大丈夫だよ。ここは里の中でも一番東の方だし、絶対に奴らを里に入れはしない。君は安心して暮らしてくれたらいいんだ」
「私が『弱きもの』だから、ですか」
「そうだ。君は何も心配しなくていい」
力強く断言されて、ミオは頼もしさに安堵すると同時にいたたまれなさを感じた。無力なのはその通りだろう。だが、何もせず我々に任せておけ、と言われて、はいと引っ込んでしまうには、一人前の大人としての自覚がつっかえる。親に知られるはずはないのに、そんなことでどうする、と叱責されるように感じてしまうのだ。
ミオはひとまずうなずいたものの、スルギの顔を見上げて言った。
「出しゃばって皆さんの邪魔をしたりはしません。でも、心配ぐらいはします」
大真面目に言われた台詞に、彼は目をぱちくりさせ、次いで失笑した。
「そうだな。いや、すまない」
彼がくすくす笑うと、ミオの目の前で、首まわりのふさふさした毛が震えた。並んで座ると、ちょうど顔の辺りにスルギの喉元が位置するのだ。ミオは奇妙な衝動に襲われて手を伸ばし、密生した毛に指を埋めた。
途端にスルギがぎょっと竦む。ミオも我に返り、火傷したように手を離した。
「すみません、つい。失礼は重々承知しているのですが」
急いで謝り、相手の反応を窺う。犬や猫を飼った経験はないが、迂闊なところを触るとひどく機嫌を損ねて噛みつかれることがあるくらいは知っている。いや、そんな考え方もまた失礼だろうか。
幸い彼は怒ったわけではないらしく、曖昧な態度で身じろぎした。
「ああ、うん、驚いただけだから、謝らなくてもいいよ。首のまわりは、あまり他人に触らせるものじゃないからね。なにしろ急所だし」
「そうですね。だから他のところよりも毛が厚いのだと聞きました。あ、その、……犬の話ですが」
でも近所の犬は、そこを掻いてやったら気持ち良さそうだった。掻くのをやめたら、もっと、と前足で催促されたほどだ。
ミオが昔を思い出しながら豊かな銀色の毛をじっと見つめていると、スルギは気を悪くした風もなく答えた。
「生き物としては、犬や猫や俺達も、むろん君達も、どういう生活かによって体の特徴が出てくるわけだから、似通ったところがあるのも不思議じゃないさ。ジルヴァスツだって戦うことが多いから、身を守るために、首まわりは防具を着けなくても生まれつき丈夫にできている。そんなに気になるかい?」
言葉尻の苦笑は、ミオがそわそわしているのに気付いたためだ。彼女が慌てて平静を取り繕うと、スルギは鼻面をちょっと掻いて言った。
「好奇心を堪えろって言うのも難しいだろうし、他の誰かの首にうっかり触って反射的に殴り飛ばされるよりは、俺が今ちょっと我慢する方がいいよな。君のその手で俺が怪我をするはずもないし。どうぞ」
許可のしるしに、軽く顎を上げて喉を見せる。ミオは恐縮しながらも、えいやと両手を差し入れた。手首まですっぽり埋まるほど毛足が長い。あまりに毛が密生しているので肌に指先が届いている感覚がなかったが、ごそごそ掻いてみる。
スルギはむず痒そうな顔であからさまに辛抱していたが、次第に慣れてくると、気が抜けたように目を細めた。
「意外と気持ちいいもんだな。人に掻いてもらうなんて、考えたこともなかったけど」
聞いたミオはうっかり要らぬことを言いそうになって、しっかり唇を閉じた。近所の犬と同じ顔だ、などと言ったら今度こそ怒られるだろう。
「スルギさんも、たまにはのんびり骨休めする必要があるんだと思います」
代わりに無難な言葉を選び、せっせと手を動かす。既にスルギは半分夢見心地で、うーん、とむにゃむにゃ答えただけだった。
そんなことをしていると、
「こんにちは! スルギ、ミオはいる……って、何やってるの」
威勢よく戸を開けて入ってきたシムリが、目を丸くして立ち尽くした。スルギが大慌てでぴょんと立ち上がり、迎えに出ようとして、作りかけの杖につまずく。小指の先をぶつけて悲鳴を上げた彼に、シムリが呆れ顔をした。
「医師のやることとは思えないわね。首を触らせるなんて」
「いや、ミオが触りたそうだったから。意外と気持ち良かったんだ、きっと手が小さいから力加減がちょうどいいんだよ」
スルギがあたふたと言い訳する。尾の動きや声音から、格好の悪いところを見られた、と焦っているのが、ミオにもはっきりわかった。
(スルギさんは、シムリさんが好きなんだな)
確信が胸に生まれる。微笑ましく思い、ミオは口元をほころばせた。同時に少しだけ寂しくもなったが、それはきっと自分が患者の身を言い訳にして彼に依存しているからだ、と理性的に片付ける。
(いつまでも、お世話になりっぱなしではいけない)
一人で動けるようになってきたのだから、できる仕事を探し、身を立てなければ。
決意をなぞるように、杖を取る。手を傷つけないよう磨き上げられた木肌が、ひんやりとなめらかだった。
完成した杖は、とても使い勝手が良かった。体格に合わせて何度も調整し、試しに歩いては工夫を加えて、すっかりミオの一部のように馴染んだ。
その頃には彼女が拾われて二月ほどが過ぎており、怪我はほとんど癒えていたが、いくらか不自由の残ってしまった足で歩くのに、杖は不可欠の相棒となった。
ミオは結局、スルギの家に住まわせてもらっていた。歩き回れなくてもできる手伝いを様々こなしているうち、なんとなくそれがミオの家事分担という暗黙の了解になって、いざ完治したとなっても出て行きにくかったのだ。
どのみち里には、人の町とは違って空き家だの貸家だのはないから、誰かの家に厄介になるしかない。それならここにいればいい、とスルギは言い、それがまるで雨宿りしに来た犬猫を家族に迎えるような気安さだったので、ミオもありがたく屋根を借りることに決めたのだった。
日々の暮らしは穏やかに過ぎていった。
季節は夏になり、空の色は濃く深く、降り注ぐ陽射しは眩しさを増す。だが低地と違って山では暑熱もさほどではなく、風が乾いているので過ごしやすい。厚い毛皮を纏うジルヴァスツが低地に住まないのは、気候も一因ではなかろうか、などとミオは真面目に考えたりもした。
里のありようは、一見するとミオの知る社会に似ていたが、根本的なところで違っていた。建物があり、人が集い、多種多様な役割分担がある。長や神子がいて、里の決まりごとを運用するのに上下関係はあるようだが、しかしそれは支配とは異なるらしく、自由な空気が満ちていた。
何より、里には貨幣がない。取引や交換について理解はしているものの、基本的にこの里の中では、誰もが誰かの必要を満たすために生きている。ジルヴァスツ全体がひとつの家族であるように、互いに無償で助け合っているのだ。
恐らくは彼らの存在意義が、邪鬼との戦いであるがゆえだろう。
(それに、霊峰と女神の力もありそうだ)
ミオは畑で瓜を収穫する手を止め、北を眺めやった。
鮮やかな緑のなだらかな丘陵に、のびやかに広がるヴァストゥシャ。里が終わる北の果てには、周囲の山並みを圧する、ひときわ高く美しい峰が凛と聳えている。
霊峰カリハルシ、女神シーリアが坐すとされる山だ。
瑠璃のごとく澄んだ空を、白い雪に覆われた鋭い稜線が鮮やかに切り取る。その姿を見ているだけで、世の煩いがすべて遠くへ消え去り、心が清浄になって、自然と敬虔な思いが胸に満ちてゆく。損得だの利害だのにかかずらうどころか、そうした考えがあることさえも忘れてしまうほど。
初めて家から外に出た時、ミオは真っ先に目に飛び込んできたその威容に圧倒され、しばし身じろぎもできず立ち尽くしたのだった。
なんという孤独。
その印象は今も薄らぐことなく、霊峰を目にする度、畏れと共に寂寥の微風が頬をかすめる。
(寒そうな場所)
あの決然と白く尖った先では、一切が凍りつくだろう。生けるものの鼓動も、時さえもが。そんなところで、女神はたった独り何を思っているのか。
いつしかミオは、動きを止めたまま霊峰に見入っていた。己の空ろを、山と雪とが占めてゆく。雪。凍った吐息。冷たい指先、血の温もりが消えて――
「あっ、ミオだ! ミオー!」
明るい声に呼ばれて、はっ、とミオは瞬きした。無意識に両手を口元に引き寄せ、息を吐きかけてこする。少し冷えていたが、すぐに熱が戻った。顔を上げて振り返ると、すっかり仲良しになった子供らが駆けてくるところだった。
「ミオ、手伝おうか?」
「何する? 瓜、採るの?」
口々に言いながら、丸い目をきらきらさせてミオを見つめる。ミオの唇にも自然と笑みがのぼった。
「はい。このぐらいの大きさで、色がしっかり濃くなって、つやつやしているのを、採るのだそうですよ。手伝って下さいますか」
籠の瓜をひとつ取って説明したミオに、任せて、と頼もしい返事。子供とはいえ爪は鋭いので、鋏も使わず蔓を切っていく。時々、ああそれまだ駄目じゃんか、などということもあったが、作業はどんどん進んで、じきに籠は一杯になった。
どっさり瓜の入った籠を、一番体格の良い子が背負う。誰がどうすると言い出す間もない。子供でさえ、ミオは『弱きもの』だから力仕事や危険な作業をさせてはならない、と了解しているのだ。最初はミオもやや抵抗を感じたが、あまりに無垢で自然な助力を低地流の遠慮で拒むのは、それこそ大人気ないと悟って受け入れた。
「ありがとう」
ミオが礼を言うと、子供らはくすぐったそうに目を細め、嬉しそうに笑い合った。
「それじゃあこれ、倉庫に運んでおくね」
「他にはない?」
「今日はそれだけです」
収穫物は一度、地区ごとの倉庫に集められた後に、改めて配られる。過不足は適当に融通するし食事は共同なので、不公平なく誰もがありつけるらしい。
ジルヴァスツは肉食の獣に似た姿ではあるが、意外に穀物や野菜も食べる。むろん肉や魚が好まれるが、それしか食べないわけではないので、ミオも食料については難儀せずに済んでいた。
「あんまり走ったら、瓜が落ちますよ」
「そしたら食べちゃうもん!」
「またねー」
元気良く手を振りながら、子供達が賑やかに遠ざかってゆく。小さな姿が角を曲がって消えるまで見送り、ミオはほっと息をついた。
まだ里のすべてを見て回ったわけではないが、少なくともこの近隣の住民は皆、ミオに親切で温かい。居心地の良い毎日に、ミオは里でたった一人のよそ者だという事実を、ともすれば忘れそうになる。ふと気がつくと、ごく自然に微笑んでいることが多くなった。以前は本当に不気味がられるほど無表情だったのに。
東を振り返ると、峨々たる山並みが視界を端から端まで横切っていた。故郷の低地は、あの向こうだ。間に山がなければさほど遠くも感じまいが、ここで暮らしているともう、平原が存在することさえ不確かになる。
ミオにとって『牙の門』で世界が終わっていたように、スルギが低地の民を空想の生き物のように思っていたのも、この景色の前では当然だ。
(お父さん、お母さん。皆、恙無くお過ごしですか)
久しぶりに家族の顔を思い浮かべたものの、あまり感慨も湧かず、やはり己は空ろなのだろうな、と実感しただけだった。きっと心配するほどのことはあるまい。家族は皆、ミオよりもよほどまっとうな人々だ。多少の火の粉は飛んだかもしれないが、上手く払ってやり過ごせただろう。そう考えるともう、家族の姿も育った家も、水に流れるようにするりと心から去っていった。
それから彼女は、なんとなく反対の方へ首を向けた。西。里の建物や畑が続くその向こうは、せりあがった丘陵で隠されて見えない。だが丘を越えれば『禁忌の森』があるという。邪鬼の這い出る暗き森。
ぶるっ、と身が震えた。背筋に濡れた虫が張りついたような気がして、無意識に手でこする。同時に、遠くから鐘の音が微かに届いた。
何の合図だろうか。初めて聞く音に、ミオはそわそわと落ち着かなくなる。鋏と杖を拾い上げ、追われるようにして帰路につく。途中でスルギと行き合った。
「スルギさん」
「ああミオ、良かった。俺はこれから西区に出向くから、しばらく家で一人になるが大丈夫か? シムリがすぐに来てくれるはずだ」
早口に言う声はいつも通り穏やかだが、陰に緊張が潜んでいる。手には往診用の鞄。全身の毛がいつもよりピンと立っているような気配。
ミオは悟って、顔をこわばらせた。
「邪鬼が出たのですか」
「誰かに聞いたのかい? うん、さっきの鐘は邪鬼狩りの準備にかかる合図なんだ」
「スルギさんも、行かれるのですか」
尋ねる声がかすれた。ミオはまじろぎもせずスルギを見つめる。彼はやや驚いたような顔をしたが、ふっと目元を和らげて応じた。
「俺は医師として行くから、狩りに加わることはないよ。爪も削っているしね」
ほら、と改めて見せた指は、初めて見た時と同じく爪の先端が丸くなっている。スルギはその手を軽くミオの肩に置いた。
「大丈夫、心配ない。朝には帰れるはずだから、シムリにもそう伝えておいてくれ」
「はい。お気をつけて」
ミオは素直に納得し、返事をした後で、彼の言葉の意味に気付いてぎくりとした。目をみはり、驚きを漏らす。
「素手なのですか」
「うん?」
「皆さんは、素手で邪鬼と戦われるのですか」
大人でさえ下手をすれば喰い殺されるほどの敵を相手に、なぜ武器を使わないのか。ジルヴァスツの爪が鋭いことは知っているが、間合いを取ればそれだけ、喰いつかれる危険を減らせるだろうに。なぜわざわざ、自ら邪鬼に近付くのか。
青ざめた彼女に対し、スルギは端的に答えた。
「邪鬼にとどめを刺せるのは、ジルヴァスツの爪と牙だけなんだ。詳しいことはシムリから聞いてくれ。それじゃあ」
当然のことを説明するかのような口調だった。そうして、そのまま急ぎ足に西の方へと去ってゆく。ミオはその場で凍ったように立ち尽くしていた。
家に帰ってしばらくすると、スルギが言った通り、シムリがやって来た。
「ああ、戻っていたのね。今日はスルギが西区に出かけるから……」
「はい、そこで行き合いました。邪鬼狩りがはじまるのだと伺いました」
ミオはいつものように淡々と、しかし不安を滲ませて答える。シムリは束の間、身をこわばらせて彼女を観察したが、ややあって慎重に口を開いた。
「ええ。スルギは何か言っていた?」
「朝には帰れるはずだから、そう伝えて欲しいと。……シムリさん、ジルヴァスツの皆さんは、素手で邪鬼と戦われるのですね。スルギさんは、爪と牙でなければ邪鬼を倒せないのだと教えて下さいましたが、どういうことですか」
「うーん、あまり怖がらせたくないんだけどな……。どういう理由かはわからないんだけど、邪鬼にとどめを刺せるのは、あたし達ジルヴァスツの爪か牙だけなのよ。それも、生きている者だけ。死者の爪と牙を使った武器も何度か試されたんだけど、息の根を止めるには至らなかった。探せば他にも方法があるのかもしれないけれど、今のところ見付かっていないの。だからこそ、女神があたし達に関の守りを任せたんだ、っていう神話にも信憑性があるわけだけどね」
聞いていたミオの肌が、ぞわりと粟立った。
おぞましい生き物が地を埋め尽くして押し寄せる、陰惨な光景が脳裏に広がる。まるでいつか見た悪夢のように。ざわざわごそごそ、蠢く音が閉ざした扉の隙間から忍び込む。いやだ、来ないで、懸命に祈る人々の願いも虚しく扉の端が少しずつ掘り崩され噛み砕かれて、穴が空く――
ミオはぎゅっと我が身を抱いた。寒い。どうしてこんなに寒いのだろう。
「つまり……もし、万が一、この『関』を破られてしまったら、私達『弱きもの』には、どうすることもできないと……?」
一言一言、押し出すようにして確かめる。シムリが慈愛のこもったまなざしを向け、温かい手でミオの背をそっとさすってくれた。
「大丈夫よ。そんなことにならないように、あたし達は常に鍛練を怠らないし、女神も霊峰から見守って下さっているんだから。怖がることはないわ」
なだめられても、まだ恐怖の塊が溶けない氷のように、腹に沈んでいる。ミオは無意識に両手を口の前へかざし、息を吐きかけた。シムリが訝しむ。
「寒いの? おかしいわね、熱でもあるんじゃない?」
気遣わしげにミオの手を取ったが、特段熱くもない。むしろ冷たいほどだ。しばらく両手で包み込んでいると、細い指のこわばりが解け、温もりが戻ってきた。
「ありがとうございます」
ミオが肩の力を抜き、ほっとして礼を言う。シムリは手を離し、もう一度、弱々しい背をさすってやった。
「スルギがいれば、少しは不調の理由もわかるんでしょうけど。ごめんなさいね」
「大丈夫です。時々ちょっと、手が冷たくなるだけで……不調と言うほどのことは。私の命など、既にあの崖の前で、必要ないと断じられたのですから。それよりも、狩りに出られる皆さんが怪我をされることの方が心配です」
「ミオ、あなた……」
シムリは何か言いかけ、はっと顔を上げて戸口に目をやった。同時にばたばたと外から足音が迫り、荒っぽく木戸が開かれる。
「シムリ! ここにいたのか、すまん、酸の甕はどれだ?」
いきなり用件を怒鳴ったのは、明るい黄色の毛並に茶色の縞が入った大柄な若い虎だった。ぎょっとなってシムリが立ち上がる。
「酸を使うの?」
「ああ。数は少ないんだが動きがおかしくて、仕留め切れない。急がないと。甕はどれだかわかるか」
切迫した口調で答えを急かしながらも、虎はミオを見ると琥珀色の目を優しく細め、のしのしと歩み寄った。
「大丈夫だからな、ミオは何も心配しなくていい。俺達が守るから任せてくれよ」
いい子だな、とばかりに、大きな手でミオの頭を撫で回す。邪鬼がどうの以前に、親愛の情から首をもがれそうだ。
「ヤティハ! 乱暴にしちゃ駄目だって何回言わせるつもり? 酸の甕は三番商舎の地下倉庫、壁際にある赤い蓋のものよ。言うまでもないと思うけど、持ち出して向こうに着くまで、迂闊に開けないでね」
「わかってるって。それじゃ、行ってくる」
ちょっと遊びに、とでも言いそうな陽気さで軽く手を上げ、若虎は素早く走り去る。シムリは不安げに見送っていたが、その心中はまなざしのほかには表さず、わざとらしく呆れた態度でやれやれとため息をついて、開けっ放しの木戸を閉めに行った。
「毎回ごめんなさい、ヤティハったら本当に雑なんだから。首、大丈夫?」
「はい。咄嗟に力を入れましたから」
ミオはうなずき、くしゃくしゃにされた髪を手で整えた。初対面で同じことをされた時は首の筋を違えそうになり、悲鳴を上げてしまったのだ。それよりは手加減してくれるようになったが、雑なのは相変わらずなので、ミオも反射的に身を守ることを覚えた。
「里長の息子さんでも、狩りに出られるのですね」
ヤティハは現里長の息子だ。長の役割は世襲と決まっているわけではないが、他に適当な人物もおらず、ヤティハ自身も昔から長の仕事を手伝ってきたため、まあいいかとそのまま将来を受け入れている。
普通ならそうした『若様』は危険な戦で前線に出ることはないだろう。ミオはなんとなくそう思って口にしたのだが、それが低地人の常識であり、ここでは非常識だということに、すぐ気が付いた。シムリがきょとんとして目をぱちくりさせたからだ。
食い違いの生み出す奇妙な沈黙の後、ああ、とシムリが納得した。
「ミオの感覚では不自然なことなのね。あたし達にとっては、力のある者が狩りに出るのは当然だし、それは別に普段の役割が何だとかいうこととは関係ないんだけど。むしろ、邪鬼狩りでの役割の方が本来の務めで、里の中の仕事とかは、余暇にやっているような感じかしら?」
心持ち疑問形で話したのは、ミオにも通じるかどうか、適切な説明かどうか自信がないのだろう。ミオはふむと真面目にうなずいた。そして、互いの常識が違っていても恐らくは相通じるであろう感情を、ぽつりと口にする。
「シムリさんも、心配でしょうね」
一瞬、シムリは虚を突かれたように怯んだ。それから苦笑いを作り、明るい口調を取り繕う。
「そりゃあ、ね。あの通り、調子のいいことばっかり言う割に、肝心なところが抜けてたりするから、毎回心配でたまらないわよ」
低地人ほど表情が豊かでなくとも、声の調子や尾の動き、些細な仕草が雄弁に語る。本当は、とても笑って話せないほどに心配でつらくて苦しいのだ。それほどに、かの虎青年は彼女にとって大切な存在なのだ、と。
「スルギさんは、狩りには出られないのですよね」
ミオが内心の複雑な安堵を隠して言うと、シムリは「ええ」とうなずいた。
「もちろん、最悪にして里にまで攻め入られたら、一人残らず戦うけれどね。爪は削っていても牙を抜いてはいないんだもの。だけど、あの子は今でもちょっと怖がりだから、医師になったのは良かったと思うわ」
シムリは言葉尻で優しい笑いをこぼす。あの子、と言われたのが誰のことか、ミオはすぐにはわからず目をしばたたいた。
「えっ……あの、もしかしてスルギさんは、とても、その、お若いのでしょうか」
動揺して珍しくしどろもどろになったミオに、シムリは面食らった顔をし、次いで朗らかに笑った。
「あはは! ごめんなさい、そうよね、わからなくなるわよね。子供って歳じゃないわ、れっきとした大人よ。ただ、スルギはあたしとヤティハのひとつ年下だから、なんだかいつまでも弟みたいな気がしちゃって」
「幼馴染みなのですね」
「そうなの。近所だし歳が近いしで、小さい頃からいつも三人で遊んでたわ。ヤティハが冒険ばかりしたがって、スルギが怖がって泣いて、あたしがなんとか釣り合いをとっていたの。本当、ヤティハには苦労させられたわ。彼が無事に今の歳まで成長できたのは、ひとえにあたしのおかげだと言っても過言じゃないわよ、まったく」
ころころ幼い三人が駆け回る様子が目に浮かび、ミオも口元をほころばせた。
「きっと、可愛らしかったんでしょうね」
今は大きな体と力強い腕でミオの世話をしてくれるスルギも、昔は彼女の両手で軽く抱けるような、ふわふわの仔狼だったのか。そんな様を想像すると、どうにも微笑ましくなってしまう。
シムリの方はミオの言葉が一人だけを考えているとは気付かず、恥ずかしそうに尻尾を床の上で揺らした。
「ああ、ミオは子供好きだったわね。でもね、昔のヤティハの世話なんか頼まれたら、絶対に、いくらミオでも我慢できなくなって、首をつまんで川へ投げ捨てるわよ。それも一回じゃない、五回や十回は間違いないわね」
「そんなにやんちゃなお子さんだったのですか」
「やんちゃなんて域じゃないわよ! やってはいけない、行ってはいけない、触ってはいけない、そういう言いつけを片っ端から破るのが使命だと勘違いしてたんだもの。ちょっと知恵がついてきたら、昔の伝承にゆかりの場所を見付けようとして崖から落ちたり、廃れた儀式の真似事をして、真冬の霊峰に登って雪に埋まって死にかけたり」
思い出語りで往事の動転と恐怖がよみがえったのか、シムリは耐えがたいとばかりに顔を覆う。ミオは小首を傾げ、訝しげに繰り返した。
「儀式、ですか?」
この里で暮らすようになって二月ほど、儀式祭礼の類にはまだお目にかかったことがない。朝な夕なに人々が霊峰を拝んでいるのは見かけるし、ミオも自然と霊峰に一礼する習慣がついたが、それだけだ。
単に、たまたま今の時期は何も行事がなかったのか。それとも、自分が低地人で、ジルヴァスツの祭礼には加われないから、知らされてもいないのだろうか。
どうやら前者だったらしい。シムリは特に気後れや配慮の様子もなく、いたって普通に答えた。
「ええ。昔はもっとたくさん、いろんな機会に行う儀式やお祭りがあったらしいの。時代につれて少しずつ簡略化されたり、廃れちゃったりしたんだけどね。成人の儀式も、今は同じ生まれ年の人をまとめて済ませてしまうけれど、昔は一人一人に合わせて段取りや内容が違ったみたい。勇気の証に『女神の裳裾』と呼ばれる霊峰の斜面を、橇で滑り降りるとかね」
「……ヤティハさんなら、儀式とは関係なく、喜んで挑戦しそうですね」
「まさに、その通り。全身の毛に雪玉をくっつけて、正体不明のありさまで帰って来た時は、里じゅう大騒ぎだったわよ。それ以来、危ない儀式の内容はあいつに教えるな、って箝口令が敷かれたぐらい」
笑いながら話すシムリの声は温かく愛情深い。やはりこれは、とミオが確信すると同時に、彼女はふっと息をついて言った。
「昔はね、求婚の儀式に、『女神の喉』から紫水晶を採ってくる、っていうのもあったんですって。霊峰の頂上近くまで登るし、ものすごく急な崖だからあまりにも危険で、そんなことで命を落とすなんて女神もお望みにならない、って廃止されたんだけど。……なんていうか、儀式のようなきっかけがひとつ失われると、踏ん切りがつかないことってあるのよね。何も宝石を採ってこなくてもいいんだけど。花一輪だって充分なのに」
言葉尻はほとんど独り言だった。そのままシムリは日が落ちたように黙り込む。ミオもしばしその横顔を見つめ、それから、これは言っても良いのか、それともやはり今までのように不適切な言動とみなされるのか、迷いながら口を開いた。
「シムリさんは、ヤティハさんと結婚されるのですか」
あまりに直截な質問に、シムリは戸惑ったように耳を震わせた。短い沈黙の後、寂しげに微苦笑する。
「あたしは、そう考えているんだけど。ヤティハがはっきりしなくて」
「そうなんですか。この里でも、いろいろと難しいのですね」
低地のように、身分家柄だのしきたりだの世間体だのといった面倒なことはないだろうが、それでも互いの気持ちや時機といったもので上手く行かないこともあるのだろう。
ミオがしみじみと納得していると、シムリが話題を変えた。
「それよりミオ、ここでの暮らしにも馴染んできたみたいだけど、不自由や困ったことはない? まだ足りないものがあるとか、この習慣は困るとか……子供じゃないんだから頭を撫でないで、とか。我慢しないで、いつでも何でも言ってね」
「我慢は、していません」
ミオは答えてちょっと考えた。シムリは疑わしげだが、多分、家族や同僚がこの里でのミオの振る舞いを見たら、あまりの慎みのなさに呆れるだろう。
大怪我を治療してもらったばかりか、その医師(しかも男だ)の家に、相手が勧めてくれたからとそのまま住みついて、衣食の要望も遠慮しない。なんと厚かましい、少しは相手の迷惑も考えろ、と言われるに違いない。
「食事の味付けが薄すぎるから塩気が欲しいだとか、夜は冷えるから肌掛けが欲しいだとか、そんなことは……低地で誰かのお世話になっているのであれば、口には出せなかったでしょう」
どうしてだかわからないが、そうした感想や困り事を言うのは、贅沢で失礼なことであるらしい、というくらいは学習している。
正直であれと教えられるのに、そのように話すと、何を言うのか、口を慎みなさい、と叱責されたものだ。なぜいけないのですかと問えば、そんなことは常識です、当たり前でしょう、とにべもなくはねつけられるばかりであった。だからミオは大体、黙っていた。何が言っても良いことで、何がいけないことなのか、その判断はいつも難しい。
だがこの里では違う。
「低地人同士なら、言わなくても通じたり察したりするんでしょうけど、あたし達はそうはいかないもの。生活習慣どころか、身体のつくりからして全然違っているんだから、まず言葉にして伝えてくれないと対応しようもないわ。あたし達の方からもミオに対する要望は正直に言うし」
シムリは屈託なく、当然のことのように言った。あれこれ先回りして客をもてなす低地人とは異なる。見知らぬものを相手にして、慎重に用心深く、それでも善意と親愛の情をもって誠実な手を差し出す態度だ。
ミオがうなずくと、シムリはにこりとして続けた。
「ただ、お互いそれぞれの暮らしで当たり前だと思っている前提とか常識は違っているから、言葉に出しさえすれば何でも了解できるわけじゃないわよね。だからミオも、一度で早々と諦めてしまわないで、通じなくてもじっくり話しましょう。そういう点では、スルギがあなたの世話を見ているのは適任だと思うわ」
「スルギさんには親切にしていただいて、感謝しています」
ミオはいつも通りの平静さで、真面目な謝意だけを込めて言ったはずなのに、シムリは何かを嗅ぎつけたようだった。ひく、と鼻を動かしてミオの顔を覗き込む。
「ふーん?」
「……何でしょうか」
たじろぎながらミオが尋ねると、シムリはなおしばらく考えた末、くふんという妙な音を喉の奥で鳴らした。何を納得したのやら。ミオは訊くべきか否か判じかね、ふいと目をそらして戸口を見やった。
「いずれ私も、何かお手伝いできるでしょうか」
「うん?」
「スルギさんは狩りには加わらないとおっしゃいましたが、医師として手伝いに行かれました。シムリさんも、本当は何か務めがあるのではないですか。私の世話をするために、ここに留まっていらっしゃるのでは?」
「それは気にしないで」
不意にシムリの態度が硬くなった。失言だったか、とミオは頭を下げようとしたが、より早く彼女が続けた。
「ミオは絶対に、狩りにかかわっては駄目。万一の危険があるし、狩りの時は皆、気が立っているから、そばへ近寄ってもいけないわ。あなたを西区へ連れて行かないのも、そのためなの。もし西区にいる時に警鐘が鳴ったら、すぐに逃げなければ身の安全は保証できない。でもあなたのその足では、まともに走れないでしょう? だから、絶対に近寄っては駄目よ」
いつもなら、ミオが何か場違いなことを言っても笑って安心させ、なだめるように、気にするなというように取り成してくれるのだが、この時ばかりは違った。シムリは身をこわばらせ、尻尾の毛を膨らませている。怒りだろうか、恐れだろうか。
これほど強く戒められることに少し違和感を抱いたが、ミオは素直にうなずいた。彼らにとっては、守るべき『弱きもの』が剣呑な狩りの場に居合わせるだけで、相当な緊張を強いられるのだろう。
ミオが「わかりました」と承諾すると、シムリはほっとした様子で腰を上げた。
「さてと、それじゃ話はこのぐらいにして、そろそろ夕食の用意をしましょうか」
「はい」
応じてミオも立ち上がる。里では朝と夕に、隣近所が集まって食事を調え、共に食べるならわしだが、彼女は例外だった。ジルヴァスツの食事はほとんど味付けされておらず、しかもすべてが冷めてから供される。さすがにこれではやりきれない、ということで、ミオは自分の食事だけ別に用意することにしたのだ。
幸いスルギの家には職業柄、小さな竈の据えつけられた土間があり、調理ができるようになっていた。鍋に水を張り、火を熾す。
良い匂いの湯気に包まれると、この世には何ひとつ恐ろしいことなどないかのように、温かく幸せな心地になる。ミオはくつくつと煮える黍粥を杓子で混ぜながら、いつしか寒さを忘れていた。




