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彩詠譚  作者: 風羽洸海
久遠の振り子
86/127

第一部 柩・一章

※『金枝を折りて』本編読了済みが前提です

(『夜明けの歌、日没の祈り』は未読でも支障なし)

   第一部 柩



   一章


 白雲の切れ端を従えた急峻な山々が、蒼穹を支えている。

 その足元は切り立った崖になり、深い峡谷へと落ち込んでいた。ところどころに小さな松が生え、鷹が巣をかけているが、人間は対岸からただ眺めることしかできない。

 大地はそこで引き裂かれていた。

 南北に走る大峡谷の東側は沈み込み、西側は隆起し、やがて南も北も山々に隠される。唯一東側だけがわずかに開けて、平原と通じていた。

 最も峡谷に近付くことのできるこの場所は『牙の門』と呼ばれているが、実際には先に通じる道はない。底知れぬ谷と空まで聳える断崖の向こうを知るのは、谷底を流れて途中で西に曲がってゆく川だけだ。ここより先を見た人間はいない。少なくとも、陽帝国の歴史においては一人も。

 人跡を拒む断崖には、東から訪れた者がすぐ気付くところに、巨大な警告文が刻まれていた。いつ誰がどうやって彫ったのか、一枚板のように削られた部分に整然と並ぶ文字。かなり古い字体だが、今も鮮明に読み取れる。

「去れ人の子よ、これより先は虎狼の地なり。爪も牙も持たぬ弱きものは立ち入るべからず……言い伝えの通りですね」

 若い女が一人、それを見上げてつぶやいた。質素な藍染の袍を着て、焦茶色の髪をひっつめている。背に負った鞄は野暮ったく、機能性一点張り。遊山ではなく務めとして訪れたのは明らかだ。

 数歩後ろに男がいるが、旅の連れという雰囲気ではない。険しい顔で女を睨んでいた男は、ややあってゆっくり歩を踏み出した。シュラリ、と刃が鞘をこする音。女は驚きもせず振り向いた。

「いつか、いつかと待っているうちに、ここまで来てしまいました。ただ置き去りにされるだけなのだろうか、斬られるのと飢え死にとではどちらが楽だろうかと、考えはじめていたところです」

 感情を動かすことなく言った女に、男は顔を歪め、舌打ちした。

「薄気味悪い女だ。泣き喚いて命乞いされるよりは楽だが……斬った途端に、大蛇に化けたりせんだろうな。こっちだって、好きでこんな不吉なところまで来たわけじゃない。亡骸が絶対に見付からないようにとの命だから、仕方なくだ」

 ぶつぶつ言いながら、男は太刀を構えて間合いを詰める。女はそこでやっと、我が身に降りかかろうとしている死の影が見えたように、眉をひそめた。

 女が背後にちらりと視線をやる。

 走りだしたのは、同時だった。男が太刀を振りかぶって襲いかかり、女は地を蹴って谷へ跳ぶ。刃が空を切り、小石がカラコロとどこまでも落ちていった。


 ――ごめんなさい。

 誰かが泣いている。冷たい、寒いところで。

 ――ごめんなさい、ごめんなさい……

 涙の雫が宙で凍り、白い雪の花となって舞う。ひらり、ひらりと身を包む。

 寒い。寂しい。

 誰か……


 ふわり、と温もりが頬に触れた。誰かの息だ。

 冷え切った体に感覚はなく、ただ顔にかかる温かさだけがわずかに感じられる。睫毛が震え、血の気の失せた唇が小さくわなないた。

 ずぶ濡れの体が持ち上げられ、誰か――何かの背に乗せられる。顔にちくちくと毛の先が触れたが、人の髪なのか、それとも馬や驢馬のたてがみなのかもわからなかった。

 女はまた、暗く寒いところへ滑り落ちていった。


「ミオ。官吏となったからには、自分の意見などというものは決して出してはならんぞ。わしの伝手や緑綬三位の官位程度では、おまえもせいぜい赤綬止まりだろう。それ以上を望んではならん。前任者のしていたことを変えず、何を言うにもまわりの意向を確かめてからにせよ。上司には決して逆らうな。良いか」

 懇々と諭す父の声が聞こえる。はい、と女――ミオは、心に思うのみで答えた。

 はい、お父さん。私はそのように弁えておりました。ご指導の通り努めていたつもりです。何がいけなかったのでしょうか。

 いえ、今さら何がと問うても詮無いこと。どうかこの上は、皆様に火の粉がかかりませんよう、祈るばかりです。

 上手くふるまえなかった愚かな娘を、お許し下さい。

 ――ごめんなさい……

「……?」

 自分のものでない考えが浮かんだ気がして、ミオは目を開けた。

 重い。瞼を動かすだけでこんなにも重く感じるとは。どうやら布団に横たわっているようだが、もしかして、すべて夢だったのだろうか。ここは自分の部屋で、これからいつものように起床し、着替えて朝食をとり、登庁する……はずがない。

 薄暗がりに目が慣れると、部屋の様子が見えてきた。板張りの天井、漆喰塗りの壁。見慣れない調度。床は板敷きそのままだ。こんな部屋は知らない。

(誰かが、助けてくれた?)

 太刀のきらめきが脳裏をよぎり、瞬きする。あれを目にした途端、急に怖くなって後先を考えず逃げ出していたのだ。なぜだろう、とぼんやり考える。

 帝国北西部の果て、虎狼族が住むと伝えられる辺境を調査せよとの辞令を受け、ああこれは追放されるのだな、と理解した時は、恐れなど感じなかったのに。仕方がないと、無味乾燥な諦めを抱いて寂寞せきばくたる心持ちになっただけだった。しかしやはり、いざとなったら魂が死を拒んだのだろうか。

(よく、命があった)

 小さく息をつく。とてつもない高さを落ちたのは覚えている。わずかな崖の出っ張りに何度か足をひっかけて、少しでも勢いを削ごうとしたが、途中でただ転がり落ちるだけになった。谷底に川が見えたが、水面に落ちる前に気を失ったのだろう。その瞬間は記憶にない。

 しばらく放心していたミオは、身じろぎしようとした瞬間、全身が砕けそうな痛みに襲われて悲鳴を漏らした。骨のいたるところに火がついたように、強烈な熱と痛みが燃え広がる。

 まなじりから涙がこぼれ、喘ぎの合間に歯を食いしばる。隣室で誰かが動く気配がして、じきにカラリと慌しく引き戸が開いた。ぎしりと床板がきしみ、重く力強い足音が布団越しに背を揺らす。固いものが床を引っ掻くような音もまじっていた。

 続いて視界に現れたものに、ミオは一瞬、痛みを忘れた。

 狼だ。鈍い銀色の毛に覆われた長い鼻面、灰色の目。毛皮を被った猟師なのだと考えようとしたが、できなかった。首の下まで毛並みが続き、胴着の襟で隠れる際まで肌は見えない。剥き出しの太い腕も銀毛に覆われ、ところどころに濃灰色の房がまじっている。そのうえ、黒い鼻がひくひくと動き、牙の並んだ口がぱくりと開いて言葉を発したのだ。

「目が覚めたかい。すぐに痛み止めを処方するから、それまで我慢してくれ」

 穏やかな青年の声だった。視界から狼の頭が消え、枕元でごそごそ音がする。もう一度気を失ってもいいだろうか、とミオは混乱気味に目を動かした。布団の縁に太い尻尾の先が見えた。

(虎狼族。これが)

 では本当に彼らは存在したのだ。単なる言い伝え、『牙の門』より西へ出られぬことを納得するための作り事、だと思っていたのに。

 だが、その性質については本当ではなかったらしい。鋭い爪と牙で自らと異なるものを容赦なく引き裂く獣である、との伝承が正しければ、今頃己は肉の塊になっている。

「少しだけ起こすぞ」

 気遣う一言の後、肩の下に逞しい腕が差し込まれ、ゆっくり上体を起こされる。ミオは叫びをかろうじて堪え、子供のように涙をぽろぽろこぼしながら喘いだ。口元に木の匙があてがわれ、とろりとした液体が流し込まれる。

 巣から落ちた鳥の雛を世話するように、狼の手つきは慎重だった。ミオが薬を飲み下すと、元通りにそっと横たえ、心配そうに顔を覗き込む。

「低地の民の体についてはよくわからないんだが……痛み止めがちっとも効いてこないようなら、言ってくれ。声は出せるよな?」

「はい」

 かすれて聞き取りにくかったが、なんとか返事はできた。ミオは不思議な気分で狼の目を見つめる。まだ夢の中にいるかのようだ。実際、次第に感覚がぼんやりしてきた。痛みが薄らぐにつれて、意識に白い靄がかかってくる。

 重くなった瞼が勝手に下りてきて、礼を言わなければ、と思い出した時にはもう、ミオは夢も届かぬ深い眠りに包まれていた。


 鳥のさえずりと爽やかな光が、ミオを再び生者の世界に呼び戻した。

 数回瞬きしてから、痛みを覚悟しつつ慎重に首を動かす。それほどつらい思いをせずに済んで、ほっと息をついた。

 室内は明るかったが、誰もいない。しばらくミオはそのままじっとしていたが、やがて困ったことに生理的な欲求が目を覚ました。切羽詰まる前にと、痛む体を無理に動かす。布団の端に載せられていた鈴が転がり、シャランと澄んだ音を立てた。

 あっ、と思った時には、外から狼が駆け込んできた。

 緊張を湛えた鋭い目が、ミオの姿をとらえて緩む。ゆっくり枕元に近寄ると、彼は膝をついた。

「起きたかい。まだ痛むだろう、無理しない方がいい」

「あの……でも」

 ミオは曖昧に言葉を切り、目を伏せる。羞恥に顔を赤らめた彼女に、狼は首を傾げた。毛皮に顔を覆われている虎狼族には、赤面の意味するところがわからないのだろうか。ミオは諦めて、小声で「かわやへ」と白状した。

 途端に狼は慌てて立ち上がり、ちょっと待っててくれ、と部屋から飛び出していく。言葉通り、ちょっとの間の後、別の狼が入れ替わりにやってきた。薄金色の毛並みで、青年狼より一回り小柄だ。女性だろうとミオが見当をつけると同時に、金狼がニッと牙を剥いた。どうやら笑顔のようだ。

「気が利かなくてごめんなさい。あたしが手伝うわ」

 明るく言った声は案の定、若く溌剌とした女のものだった。

 ミオの体は相変わらずひどく痛んだが、女狼に手を貸してもらい、どうにか用を足すことができた。部屋に戻って布団に座ると、ミオは大きく息をつく。避けられない必要のためにすぐそこまで往復するだけで、大変な苦労だ。

「お世話をかけます」

 きちんと頭を下げたかったのに、それさえ中途半端にしかならない。金狼は屈託なく笑って応じた。

「気にしないで。あたしはシムリ、多少は低地のことも知っているつもりよ。あなたの手当てをしたのは医師のスルギ」

 名を教えてから、彼女は戸口を振り向いて、入ってらっしゃいよ、と呼んだ。外からスルギが決まり悪そうに顔を覗かせる。ミオはそちらにも頭を下げた。

「ミオと申します。助けていただき、ありがとうございました」

「いや、当然のことだから」

 スルギは曖昧に応じて枕元に寄ったが、腰を下ろすともう医師らしい真面目な顔つきになっていた。

「動いてみてどうだい。特に痛むところや、痺れているところは?」

「全身まんべんなく、同じぐらいに痛いです」

 正直に答えたミオに、スルギとシムリが失笑する。その穏やかな雰囲気に、ミオは安らぎを感じた。彼らは獣の姿をしているが、野蛮でも獰猛でもない。

 傷の具合を診るからと、スルギとシムリに寝間着を脱がされたが、多少の恥じらい以上の緊張も恐れも感じなかった。彼らの手は人間と同じく五本指があり、爪は本来厚く鋭いようだが、二人共に先端を丸く削っている。手つきにも荒っぽいところなどなく、安心して身を任せられた。

 包帯や湿布薬を外すと、なんとも不吉な色の痣が現れる。シムリは今初めて目にしたらしく、わあ、とたじろいだ。ミオも同感で、まだら模様の体を見下ろす。

「ひどいですね」

「毛がないと露骨だわねぇ。具合が見えやすいのはいいんでしょうけど。ああ、痛そう。よく生きてたわね。あの川を流されてきたってことは、関門の谷に落ちたの?」

 シムリが問いかける。ミオは痛みにぎくりと怯んで息を飲み、はい、と小さく答えた。どこまで話したものかと悩んだのも束の間、すべてを簡潔に説明する。

「私は故郷で、官吏として役所に勤めておりました。ですが、望ましくない偶然の重なりで、死なねばならないことになったようです。『牙の門』の現状を調査するように、と辞令が下されました。道中私を護衛してきた者がいたのですが、その者に崖の前で斬られそうになったので、咄嗟に谷へ飛び降りたのです」

「……なんだって?」

 腕の切り傷に新しい包帯を巻きながら、スルギが剣呑に唸る。シムリも不機嫌に鼻を鳴らした。ミオは二人に対して低頭し、無感情に続ける。

「申し訳ありませんが、傷が癒えても私には帰る場所がありません。惜しむほどの命でもありませんが、生かしておいて下さるのなら、ここに置いていただけないでしょうか。私にできることは何でもいたします」

 丁寧に頼んだのだが、しばらく返事がなかった。スルギは険しい顔で手当てを続け、シムリも口を閉ざしている。予想外に厄介な荷物を拾った、と機嫌を損ねたのだろうか。ここに置いてもらえないとなったら、どうすれば良いだろうか。

(なぜ、逃げてしまったのだろう。殺されることはわかっていたのだから、あそこで終わらせていれば、この方々を煩わせることもなかったのに。生き延びてしまった)

 ミオが落胆するでもなくそう考えはじめた頃になって、スルギが深くため息をついた。

「同族で殺し合うなんて、低地の民はどうかしているな。個人的ないさかいで暴力沙汰になった、というわけではないんだろう? それに君は女性だから、伴侶をめぐって戦ったというのでもないだろうし」

 思いがけない感想を聞かされ、ミオは目をしばたたいた。きょとんとしながらシムリを見ると、彼女も鼻面に少々皺を寄せて言った。

「低地では身分や財産や仕事をめぐって簡単に殺し合いになる、って聞いていたけれど。偶然の重なり、ですって?」

「はい。たまたま、あるはずのない帳簿や信書を見付けてしまったり、気付いてはならない来客の身元を知ってしまったり、そういうことが重なりましたので。官吏の世界ではよくあることです」

 だからこそ、口を閉ざし目を瞑り、耳を塞いで、空気のように過ごせ、と父にきつく言い含められたのだ。不都合な偶然があっても影響を受けないような、大樹の陰にいるわけではないのだからと。

 スルギとシムリは顔を見合わせると、互いに耳を小さく動かした。そうして、揃ってミオに向き直る。

「せっかく助けた命を、そんなつまらないことで殺されるようなところへ、送り返すつもりはない。ここで暮らすといい。まあ、低地の民が住むのは初めてだから、何かと不便はあるかもしれないが」

「心配しないで、あたしが面倒見てあげる。低地の民とは交流がないけど、馬の民とは少し行き来があるから、あなたに必要な物も手に入ると思うわ。なくても、なんとか作ればいいんだし」

「ありがとうございます。馬の民……というと、西の馬賊ですか?」

 ミオが礼を述べてから尋ねると、シムリは小首を傾げて答えた。

「低地ではそう呼んでいるの? ここから南に広がる丘陵に、馬や山羊を飼っている人達がいるでしょう。彼らのことよ。あたし達は大きな家畜を飼っていないから、彼らと時々いろんなものを交換するの」

 説明されて、ミオは軽い驚きと共に、そうでしたか、とうなずいた。

 陽帝国の版図は大陸の東側大部分を占める広大な平原であるが、北は氷壁、南は塩の荒野と赤海、ワンジル帝国に接し、西は大峡谷と山脈、そして丘陵の麓に延々と続く城壁によって区切られている。城壁は馬賊の侵略を防ぐべく、帝国初期に百年余りを費やして築かれたものだ。

 西北の端、大峡谷と氷壁との間に位置するのが『牙の門』である。

 天然の要害と人工の壁によって堅固な境を明確に築いた帝国は、長きにわたる平安を得た代わり、外の世界に関する知識を失った。

「帝国が馬賊との関係を維持していたなら、彼らを通じてあなたがた虎狼族のことも、もう少し知られていたのでしょうね。ですが今では虎狼族は空想の生き物ですし、馬賊も城壁の向こうの恐ろしい蛮族という、それだけの存在です。もしかしたら、一部の学者くらいは文献を読んで知っているかもしれませんが」

 淡々と言ったミオに、スルギとシムリが妙な反応をする。どうやら苦笑いらしき顔を作って、スルギが鼻面を掻いた。

「虎狼族とはまた、随分だなぁ」

「伝わっていないから仕方ないけど、ちょっと勘弁して欲しいわね」

 二人に言われ、ミオは非礼に気付いて謝罪した。どうお呼びすれば、と問うた彼女に、スルギが穏やかに答える。

「ジルヴァスツ、と呼んでくれ。『関の守人』という意味の古い言葉だ。この里の名はヴァストゥシャ。それから馬の民だが、彼らはイウォルと名乗っているよ。確か以前に聞いた話では、『警戒する者』とか、そんな意味だったはずだ」

「はい。気をつけます」

 神妙に約束したミオに、シムリが明るく笑った。

「それじゃ、改めて。ようこそヴァストゥシャへ! これからよろしくね、ミオ」


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