第一部 柩・一章
※『金枝を折りて』本編読了済みが前提です
(『夜明けの歌、日没の祈り』は未読でも支障なし)
第一部 柩
一章
白雲の切れ端を従えた急峻な山々が、蒼穹を支えている。
その足元は切り立った崖になり、深い峡谷へと落ち込んでいた。ところどころに小さな松が生え、鷹が巣をかけているが、人間は対岸からただ眺めることしかできない。
大地はそこで引き裂かれていた。
南北に走る大峡谷の東側は沈み込み、西側は隆起し、やがて南も北も山々に隠される。唯一東側だけがわずかに開けて、平原と通じていた。
最も峡谷に近付くことのできるこの場所は『牙の門』と呼ばれているが、実際には先に通じる道はない。底知れぬ谷と空まで聳える断崖の向こうを知るのは、谷底を流れて途中で西に曲がってゆく川だけだ。ここより先を見た人間はいない。少なくとも、陽帝国の歴史においては一人も。
人跡を拒む断崖には、東から訪れた者がすぐ気付くところに、巨大な警告文が刻まれていた。いつ誰がどうやって彫ったのか、一枚板のように削られた部分に整然と並ぶ文字。かなり古い字体だが、今も鮮明に読み取れる。
「去れ人の子よ、これより先は虎狼の地なり。爪も牙も持たぬ弱きものは立ち入るべからず……言い伝えの通りですね」
若い女が一人、それを見上げてつぶやいた。質素な藍染の袍を着て、焦茶色の髪をひっつめている。背に負った鞄は野暮ったく、機能性一点張り。遊山ではなく務めとして訪れたのは明らかだ。
数歩後ろに男がいるが、旅の連れという雰囲気ではない。険しい顔で女を睨んでいた男は、ややあってゆっくり歩を踏み出した。シュラリ、と刃が鞘をこする音。女は驚きもせず振り向いた。
「いつか、いつかと待っているうちに、ここまで来てしまいました。ただ置き去りにされるだけなのだろうか、斬られるのと飢え死にとではどちらが楽だろうかと、考えはじめていたところです」
感情を動かすことなく言った女に、男は顔を歪め、舌打ちした。
「薄気味悪い女だ。泣き喚いて命乞いされるよりは楽だが……斬った途端に、大蛇に化けたりせんだろうな。こっちだって、好きでこんな不吉なところまで来たわけじゃない。亡骸が絶対に見付からないようにとの命だから、仕方なくだ」
ぶつぶつ言いながら、男は太刀を構えて間合いを詰める。女はそこでやっと、我が身に降りかかろうとしている死の影が見えたように、眉をひそめた。
女が背後にちらりと視線をやる。
走りだしたのは、同時だった。男が太刀を振りかぶって襲いかかり、女は地を蹴って谷へ跳ぶ。刃が空を切り、小石がカラコロとどこまでも落ちていった。
――ごめんなさい。
誰かが泣いている。冷たい、寒いところで。
――ごめんなさい、ごめんなさい……
涙の雫が宙で凍り、白い雪の花となって舞う。ひらり、ひらりと身を包む。
寒い。寂しい。
誰か……
ふわり、と温もりが頬に触れた。誰かの息だ。
冷え切った体に感覚はなく、ただ顔にかかる温かさだけがわずかに感じられる。睫毛が震え、血の気の失せた唇が小さくわなないた。
ずぶ濡れの体が持ち上げられ、誰か――何かの背に乗せられる。顔にちくちくと毛の先が触れたが、人の髪なのか、それとも馬や驢馬のたてがみなのかもわからなかった。
女はまた、暗く寒いところへ滑り落ちていった。
「ミオ。官吏となったからには、自分の意見などというものは決して出してはならんぞ。わしの伝手や緑綬三位の官位程度では、おまえもせいぜい赤綬止まりだろう。それ以上を望んではならん。前任者のしていたことを変えず、何を言うにもまわりの意向を確かめてからにせよ。上司には決して逆らうな。良いか」
懇々と諭す父の声が聞こえる。はい、と女――ミオは、心に思うのみで答えた。
はい、お父さん。私はそのように弁えておりました。ご指導の通り努めていたつもりです。何がいけなかったのでしょうか。
いえ、今さら何がと問うても詮無いこと。どうかこの上は、皆様に火の粉がかかりませんよう、祈るばかりです。
上手くふるまえなかった愚かな娘を、お許し下さい。
――ごめんなさい……
「……?」
自分のものでない考えが浮かんだ気がして、ミオは目を開けた。
重い。瞼を動かすだけでこんなにも重く感じるとは。どうやら布団に横たわっているようだが、もしかして、すべて夢だったのだろうか。ここは自分の部屋で、これからいつものように起床し、着替えて朝食をとり、登庁する……はずがない。
薄暗がりに目が慣れると、部屋の様子が見えてきた。板張りの天井、漆喰塗りの壁。見慣れない調度。床は板敷きそのままだ。こんな部屋は知らない。
(誰かが、助けてくれた?)
太刀のきらめきが脳裏をよぎり、瞬きする。あれを目にした途端、急に怖くなって後先を考えず逃げ出していたのだ。なぜだろう、とぼんやり考える。
帝国北西部の果て、虎狼族が住むと伝えられる辺境を調査せよとの辞令を受け、ああこれは追放されるのだな、と理解した時は、恐れなど感じなかったのに。仕方がないと、無味乾燥な諦めを抱いて寂寞たる心持ちになっただけだった。しかしやはり、いざとなったら魂が死を拒んだのだろうか。
(よく、命があった)
小さく息をつく。とてつもない高さを落ちたのは覚えている。わずかな崖の出っ張りに何度か足をひっかけて、少しでも勢いを削ごうとしたが、途中でただ転がり落ちるだけになった。谷底に川が見えたが、水面に落ちる前に気を失ったのだろう。その瞬間は記憶にない。
しばらく放心していたミオは、身じろぎしようとした瞬間、全身が砕けそうな痛みに襲われて悲鳴を漏らした。骨のいたるところに火がついたように、強烈な熱と痛みが燃え広がる。
眦から涙がこぼれ、喘ぎの合間に歯を食いしばる。隣室で誰かが動く気配がして、じきにカラリと慌しく引き戸が開いた。ぎしりと床板がきしみ、重く力強い足音が布団越しに背を揺らす。固いものが床を引っ掻くような音もまじっていた。
続いて視界に現れたものに、ミオは一瞬、痛みを忘れた。
狼だ。鈍い銀色の毛に覆われた長い鼻面、灰色の目。毛皮を被った猟師なのだと考えようとしたが、できなかった。首の下まで毛並みが続き、胴着の襟で隠れる際まで肌は見えない。剥き出しの太い腕も銀毛に覆われ、ところどころに濃灰色の房がまじっている。そのうえ、黒い鼻がひくひくと動き、牙の並んだ口がぱくりと開いて言葉を発したのだ。
「目が覚めたかい。すぐに痛み止めを処方するから、それまで我慢してくれ」
穏やかな青年の声だった。視界から狼の頭が消え、枕元でごそごそ音がする。もう一度気を失ってもいいだろうか、とミオは混乱気味に目を動かした。布団の縁に太い尻尾の先が見えた。
(虎狼族。これが)
では本当に彼らは存在したのだ。単なる言い伝え、『牙の門』より西へ出られぬことを納得するための作り事、だと思っていたのに。
だが、その性質については本当ではなかったらしい。鋭い爪と牙で自らと異なるものを容赦なく引き裂く獣である、との伝承が正しければ、今頃己は肉の塊になっている。
「少しだけ起こすぞ」
気遣う一言の後、肩の下に逞しい腕が差し込まれ、ゆっくり上体を起こされる。ミオは叫びをかろうじて堪え、子供のように涙をぽろぽろこぼしながら喘いだ。口元に木の匙があてがわれ、とろりとした液体が流し込まれる。
巣から落ちた鳥の雛を世話するように、狼の手つきは慎重だった。ミオが薬を飲み下すと、元通りにそっと横たえ、心配そうに顔を覗き込む。
「低地の民の体についてはよくわからないんだが……痛み止めがちっとも効いてこないようなら、言ってくれ。声は出せるよな?」
「はい」
かすれて聞き取りにくかったが、なんとか返事はできた。ミオは不思議な気分で狼の目を見つめる。まだ夢の中にいるかのようだ。実際、次第に感覚がぼんやりしてきた。痛みが薄らぐにつれて、意識に白い靄がかかってくる。
重くなった瞼が勝手に下りてきて、礼を言わなければ、と思い出した時にはもう、ミオは夢も届かぬ深い眠りに包まれていた。
鳥のさえずりと爽やかな光が、ミオを再び生者の世界に呼び戻した。
数回瞬きしてから、痛みを覚悟しつつ慎重に首を動かす。それほどつらい思いをせずに済んで、ほっと息をついた。
室内は明るかったが、誰もいない。しばらくミオはそのままじっとしていたが、やがて困ったことに生理的な欲求が目を覚ました。切羽詰まる前にと、痛む体を無理に動かす。布団の端に載せられていた鈴が転がり、シャランと澄んだ音を立てた。
あっ、と思った時には、外から狼が駆け込んできた。
緊張を湛えた鋭い目が、ミオの姿をとらえて緩む。ゆっくり枕元に近寄ると、彼は膝をついた。
「起きたかい。まだ痛むだろう、無理しない方がいい」
「あの……でも」
ミオは曖昧に言葉を切り、目を伏せる。羞恥に顔を赤らめた彼女に、狼は首を傾げた。毛皮に顔を覆われている虎狼族には、赤面の意味するところがわからないのだろうか。ミオは諦めて、小声で「厠へ」と白状した。
途端に狼は慌てて立ち上がり、ちょっと待っててくれ、と部屋から飛び出していく。言葉通り、ちょっとの間の後、別の狼が入れ替わりにやってきた。薄金色の毛並みで、青年狼より一回り小柄だ。女性だろうとミオが見当をつけると同時に、金狼がニッと牙を剥いた。どうやら笑顔のようだ。
「気が利かなくてごめんなさい。あたしが手伝うわ」
明るく言った声は案の定、若く溌剌とした女のものだった。
ミオの体は相変わらずひどく痛んだが、女狼に手を貸してもらい、どうにか用を足すことができた。部屋に戻って布団に座ると、ミオは大きく息をつく。避けられない必要のためにすぐそこまで往復するだけで、大変な苦労だ。
「お世話をかけます」
きちんと頭を下げたかったのに、それさえ中途半端にしかならない。金狼は屈託なく笑って応じた。
「気にしないで。あたしはシムリ、多少は低地のことも知っているつもりよ。あなたの手当てをしたのは医師のスルギ」
名を教えてから、彼女は戸口を振り向いて、入ってらっしゃいよ、と呼んだ。外からスルギが決まり悪そうに顔を覗かせる。ミオはそちらにも頭を下げた。
「ミオと申します。助けていただき、ありがとうございました」
「いや、当然のことだから」
スルギは曖昧に応じて枕元に寄ったが、腰を下ろすともう医師らしい真面目な顔つきになっていた。
「動いてみてどうだい。特に痛むところや、痺れているところは?」
「全身まんべんなく、同じぐらいに痛いです」
正直に答えたミオに、スルギとシムリが失笑する。その穏やかな雰囲気に、ミオは安らぎを感じた。彼らは獣の姿をしているが、野蛮でも獰猛でもない。
傷の具合を診るからと、スルギとシムリに寝間着を脱がされたが、多少の恥じらい以上の緊張も恐れも感じなかった。彼らの手は人間と同じく五本指があり、爪は本来厚く鋭いようだが、二人共に先端を丸く削っている。手つきにも荒っぽいところなどなく、安心して身を任せられた。
包帯や湿布薬を外すと、なんとも不吉な色の痣が現れる。シムリは今初めて目にしたらしく、わあ、とたじろいだ。ミオも同感で、まだら模様の体を見下ろす。
「ひどいですね」
「毛がないと露骨だわねぇ。具合が見えやすいのはいいんでしょうけど。ああ、痛そう。よく生きてたわね。あの川を流されてきたってことは、関門の谷に落ちたの?」
シムリが問いかける。ミオは痛みにぎくりと怯んで息を飲み、はい、と小さく答えた。どこまで話したものかと悩んだのも束の間、すべてを簡潔に説明する。
「私は故郷で、官吏として役所に勤めておりました。ですが、望ましくない偶然の重なりで、死なねばならないことになったようです。『牙の門』の現状を調査するように、と辞令が下されました。道中私を護衛してきた者がいたのですが、その者に崖の前で斬られそうになったので、咄嗟に谷へ飛び降りたのです」
「……なんだって?」
腕の切り傷に新しい包帯を巻きながら、スルギが剣呑に唸る。シムリも不機嫌に鼻を鳴らした。ミオは二人に対して低頭し、無感情に続ける。
「申し訳ありませんが、傷が癒えても私には帰る場所がありません。惜しむほどの命でもありませんが、生かしておいて下さるのなら、ここに置いていただけないでしょうか。私にできることは何でもいたします」
丁寧に頼んだのだが、しばらく返事がなかった。スルギは険しい顔で手当てを続け、シムリも口を閉ざしている。予想外に厄介な荷物を拾った、と機嫌を損ねたのだろうか。ここに置いてもらえないとなったら、どうすれば良いだろうか。
(なぜ、逃げてしまったのだろう。殺されることはわかっていたのだから、あそこで終わらせていれば、この方々を煩わせることもなかったのに。生き延びてしまった)
ミオが落胆するでもなくそう考えはじめた頃になって、スルギが深くため息をついた。
「同族で殺し合うなんて、低地の民はどうかしているな。個人的ないさかいで暴力沙汰になった、というわけではないんだろう? それに君は女性だから、伴侶をめぐって戦ったというのでもないだろうし」
思いがけない感想を聞かされ、ミオは目をしばたたいた。きょとんとしながらシムリを見ると、彼女も鼻面に少々皺を寄せて言った。
「低地では身分や財産や仕事をめぐって簡単に殺し合いになる、って聞いていたけれど。偶然の重なり、ですって?」
「はい。たまたま、あるはずのない帳簿や信書を見付けてしまったり、気付いてはならない来客の身元を知ってしまったり、そういうことが重なりましたので。官吏の世界ではよくあることです」
だからこそ、口を閉ざし目を瞑り、耳を塞いで、空気のように過ごせ、と父にきつく言い含められたのだ。不都合な偶然があっても影響を受けないような、大樹の陰にいるわけではないのだからと。
スルギとシムリは顔を見合わせると、互いに耳を小さく動かした。そうして、揃ってミオに向き直る。
「せっかく助けた命を、そんなつまらないことで殺されるようなところへ、送り返すつもりはない。ここで暮らすといい。まあ、低地の民が住むのは初めてだから、何かと不便はあるかもしれないが」
「心配しないで、あたしが面倒見てあげる。低地の民とは交流がないけど、馬の民とは少し行き来があるから、あなたに必要な物も手に入ると思うわ。なくても、なんとか作ればいいんだし」
「ありがとうございます。馬の民……というと、西の馬賊ですか?」
ミオが礼を述べてから尋ねると、シムリは小首を傾げて答えた。
「低地ではそう呼んでいるの? ここから南に広がる丘陵に、馬や山羊を飼っている人達がいるでしょう。彼らのことよ。あたし達は大きな家畜を飼っていないから、彼らと時々いろんなものを交換するの」
説明されて、ミオは軽い驚きと共に、そうでしたか、とうなずいた。
陽帝国の版図は大陸の東側大部分を占める広大な平原であるが、北は氷壁、南は塩の荒野と赤海、ワンジル帝国に接し、西は大峡谷と山脈、そして丘陵の麓に延々と続く城壁によって区切られている。城壁は馬賊の侵略を防ぐべく、帝国初期に百年余りを費やして築かれたものだ。
西北の端、大峡谷と氷壁との間に位置するのが『牙の門』である。
天然の要害と人工の壁によって堅固な境を明確に築いた帝国は、長きにわたる平安を得た代わり、外の世界に関する知識を失った。
「帝国が馬賊との関係を維持していたなら、彼らを通じてあなたがた虎狼族のことも、もう少し知られていたのでしょうね。ですが今では虎狼族は空想の生き物ですし、馬賊も城壁の向こうの恐ろしい蛮族という、それだけの存在です。もしかしたら、一部の学者くらいは文献を読んで知っているかもしれませんが」
淡々と言ったミオに、スルギとシムリが妙な反応をする。どうやら苦笑いらしき顔を作って、スルギが鼻面を掻いた。
「虎狼族とはまた、随分だなぁ」
「伝わっていないから仕方ないけど、ちょっと勘弁して欲しいわね」
二人に言われ、ミオは非礼に気付いて謝罪した。どうお呼びすれば、と問うた彼女に、スルギが穏やかに答える。
「ジルヴァスツ、と呼んでくれ。『関の守人』という意味の古い言葉だ。この里の名はヴァストゥシャ。それから馬の民だが、彼らはイウォルと名乗っているよ。確か以前に聞いた話では、『警戒する者』とか、そんな意味だったはずだ」
「はい。気をつけます」
神妙に約束したミオに、シムリが明るく笑った。
「それじゃ、改めて。ようこそヴァストゥシャへ! これからよろしくね、ミオ」




