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彩詠譚  作者: 風羽洸海
断片・二次
79/127

王のつとめ(十年後)

ただの憂さ晴らし。即位から約十年後。


 今日も今日とてワシュアールの大王のもとへ、ひっきりなしに人が訪れる。

 広く陳情を聞く日ではなくても、土地のもめごとの裁定や水利事業の進捗報告、近隣諸都市とのやりとりそのほかあれこれあれこれ。常人ならば何がなんだか混乱すること間違い無しの膨大な案件を、シェイダールは次々と速やかに片付けていく。


 そんな中、珍しく財務長官のリヒトがやって来た。シェイダールが王宮で初めて彼を見た時、既に髪は雪まじりだったが、今はもうほぼ真っ白だ。しかし身体はいたって健康で思考も明晰、まだまだ現役で仕事に励んでいる。だから、

「畏れながら数日の休暇を頂きたいのですが」

 などと請われるとは予想外で、シェイダールは目を丸くした。


「もちろん構わないが、どうした、身内に何かあったのか」

「いいえ、私事ではなく。ちょっとした職務上の野暮用でございます」

「それは休暇じゃないだろう」


 具体的に答えずごまかされ、シェイダールは胡散臭げに眉を寄せた。リヒトが謙譲を装って顔を伏せる。途端にシェイダールは獲物を見付けた猫のように、目をきらめかせた。

「俺が食いつきそうな案件だな? 自分だけ現地を見に行こうって算段か。吐け、リヒト」

 うきうきと身を乗り出した相変わらずの大王様に、リヒトは困り顔をしてなおも渋った。


「御自ら出向かれる必要はございませんよ、我が君。むろんのこと、戻り次第、整理して報告いたします。そのほうが労力の節約になりましょう」

「おまえが見に行くってことは税の関係だな。去年から取り組んでいる単位か記録書式の案件絡みか」

 シェイダールは聞く耳を持たずに話を進める。リヒトはちらりと天を仰いでから、諦めて白状した。

「その両方、あるいはどちらでもないかと」

「つまり?」

「度量衡の統一と、各地で税収を新しい方式で記録し保管すること、このふたつを並行して普及させるべく努力して参りましたが、やはりなかなか定着は難しく……ちょうど近くの村で記録と実際の食い違いが顕著であると判明しましたゆえ、現場での運用がどのようになっているのか直に見てこようと考えた次第でございます」


「それこそ俺が行くべき重要案件じゃないか!」

 呆れ声を上げたシェイダールに、リヒトは辛抱強く繰り返す。

「いいえ。重要ではございますが、それは我々の報告をお待ち頂ければ済むこと。法を定めるだけでなくその実際を確かめる必要を思われる叡慮にはまこと敬服の至りでございますが、御君みずからお運びになるとあらば警護の隊列を組まねばならず、先方に受け入れの支度をさせている間に、都合の悪いものは隠匿されてしまうでしょう」

「ああ。だからおまえが後から来い」

「……は?」

「俺が先に行って、財務長官様が諸々お調べになるから、すぐにお見せできるように記録を整理しろと伝えてやるよ。数日で往復できる近場なんだろ? 護衛はリッダーシュだけで充分だ。それで現地の準備を助けてやれば、体裁を取り繕う前のありさまを見られるだろうさ。よし、決まりだ。すぐ出発するぞ」


 さも当然のように言われてしまい、リヒトは絶句した。その間にもう、せっかち大王は立ち上がって、いつものごとく親友の近侍に手配を命じている。

「お待ちを、我が君」

 慌ててリヒトは一声かけたが、こうなったら止められないことは承知だ。まだ何か、と言いたげに振り向いたシェイダールに、彼は一応、眉間を揉む仕草とため息で抗議の意を示してから、口に出してはこう言った。

「部下に地元の者がおります。案内につけますゆえ、お連れ下さい。その者が数字の食い違いに気付きましたので、道々詳しくお尋ねになれば良いかと存じます」

「それは助かる。ありがとう」

 シェイダールは気安く笑い、リヒトの肩をぽんと叩いて楽しげに出て行った。




 そんなわけで。


「数字の食い違いに気付いたのはおまえだってな。具体的に何がどうおかしかったんだ?」

「はっ、いえあの、食い違いと申しますか混乱と申しますか」


 街道のそばを流れる小川のほとり、涼しい木陰で強い陽射しを避けて休憩しながら、大王様に質問された気の毒な官吏は身を縮こまらせていた。相手の窮状に構わず、シェイダールはのんきに昼食を頬張っている。これ美味いな、と隣の友人に見せたのは、都を離れる前に屋台で買った包み焼きだ。リッダーシュはひとまず同意して、こちらは一応、官吏に向けて同情的な苦笑を見せる。それに気付いたシェイダールが、砕けた態度で話を続けた。


「マルガス、だったな。気にせず食えよ、畏まって話すことないぞ」

「は……、畏れ入ります」

「だからそれが必要ないって言ってるんだ。今の俺は財務長官様の使い走りの下っ端役人なんだから。間違っても大王様とか呼ぶなよ。名前もただのダールでいいからな」


 確かに実際、今のシェイダールは大王様には見えない格好だ。まともな仕立ての服ではあれど贅沢な刺繍や房飾りの類はほとんど無く、王宮で使っている宝飾品はすべて外し、少ない稼ぎで見栄を張ったような腕輪がひとつきり。相変わらず髭を伸ばさず剃っているせいもあり、妙に偉そうな若い役人としか思えないだろう。

 しかし、正体を知っていれば話は別だ。勘弁してくれ、と露骨に顔に表したマルガスに、リッダーシュが堪えきれず笑いをこぼした。


「無理難題を言いつけるのも下級役人のやりそうなこと、というわけか。お互い難儀させられるな、マルガス殿。すまぬがこの旅の間だけと思って従ってくれ。それで、さきほどの話に戻るが……混乱、と申されたか」

「あ、はい。不正やごまかしというよりも、何がなんだかわかっていないのでは、と思うようなざまでして。たまたま故郷からの報告を目にしたので興味を持って、いろいろ突き合わせてみたのですが……神殿への奉納と村での収穫高、納税記録、どれもこれもでたらめで、帳尻を合わせようと努力してさえいない様子だったのです」


「なんだそれ」シェイダールが呆れる。「書記は必ず学校を出てるんだろう?」

 彼自身は学校を視察こそすれ通ったことはないので、読み書き算術を修めたはずの者がなぜそうなるのか見当がつかなかった。

「おまえもだよな」

 マルガスにそう確認すると、少しばかり誇らしげな肯定が返ってきた。

「むろんでございます。子供の頃は正直、文字を発明した人間を呪いましたが、今では利便を実感しております。しかし同じく学校で書字を修めた者であっても、率直に申し上げて能力の程度は様々でございますゆえ」

「つまり……新しい方式が難しすぎた、ってことか? あれは分かりやすくていいと思ったんだがなぁ」


 解せん、とシェイダールは首を捻った。今までは、それぞれの土地で受け継がれたやり方で――言ってしまえば勝手気ままに、納税や奉納から売買貸借まであらゆることが適当に記録され杜撰に管理されてきた。それをすっきりと見やすくまとめる方法を広く募り、リヒトが選んで採用したのである。

 主要な農畜産物の項目別に、収穫量と納付先毎の量をひとつの表にまとめ、大きな影響を与える災害なども付記するもので、扱う情報は増えるが後から参照するには非常に便利だ。とはいえ、

「誰もがおぬしのように理解と憶えにすぐれるわけではないし、布告にまわった役人の説明が下手で伝わらなかったのかも知れぬぞ」

「あるいは書記当人が理解していても、村長や神殿祭司が受け入れず、あれこれと口出ししてくるせいで混乱したとも考えられます」

 ……といった事情があれば、新しいものが定着するのは困難になる。シェイダールはやれやれと天を仰いだ。

「それを現地へ確かめに行くわけか。どんなにいい方法を考えても、運用する人間がまずければ上手くいかない。歯痒いな」


 何やら既に疲れた気分になりつつ、さらに歩くこと一日。

 目的の村に着くと、マルガスの案内でまずは村長に話を通すことになった。幸いマルガスは村長の覚えめでたい類であったため、揉めることも渋られることもなく了承を得られた。村には読み書きのできる者が何人もいるが、役人に渡すような公のものは専ら一人の書記に任せているという。その彼は今どこに、と問えば返事は。


「神殿か……」

 リッダーシュがいろいろと含みのある声音でつぶやき、前を歩くあるじの背を見つめる。隣で、大王様の祭司嫌いを重々思い知らされている王宮官吏の一人であるマルガスもまた、沈鬱に眉間を揉んだ。

 背後からの不安げな視線には頓着せず、シェイダールは集落を突っ切って神殿を目指した。たまたま昨日、結婚式があったばかりとかで、その際の奉納や振る舞い酒など諸々の会計を整理する手伝いに書記も駆り出されているらしい。

 祭殿は素通りして、横手の別棟へ向かう。神官たちの住まいだ。倉庫もつながっているので、記録の保管庫もここだろう。

 予想通り、壺や箱に袋などが所狭しと並んだ部屋に年代物の棚があり、粘土板が積まれていた。その前で、突然の来客にきょとんとしている若者も。


「邪魔するぞ。俺は都から長官の使いで来た。おまえが書記か?」

 前置きも愛想もすっ飛ばして言ったシェイダールに、若者は困惑顔で曖昧にうなずく。いったい何事かとびくついた様子できょろきょろし、知った顔を見付けて縋るように呼びかける。

「マルガスさん?」

「うん、そうだが……誰だっけな、ええっと確か」

「ウルメシュです」

 名乗りを受けてマルガスが、ああ、と思い当たった顔をする。シェイダールが「知り合いか?」と振り返ると、彼ははいと応じて前に進み出た。

「親しくはありませんが、学校にいた時期が一年ほど重なりますかね。久しぶりだな、ウルメシュ。今日はおまえの仕事ぶりを見に来たんだ」

「えっ。え、えぇっ、あの」


 顔見知りから比較的穏便な言葉で用件を告げられたにもかかわらず、若者はうろたえるばかり。まだ十代であろう未熟さを慮るにしても、反応が鈍い。常日頃、打てば響く側近との会話に慣れたシェイダールが、もどかしげに口を挟んだ。


「この村で公の文書を作成しているのはおまえだと聞いたが、税と一緒に納める記録がでたらめになっているのに気付いているか」

「で、でたらめ!? そんな、僕はいつも言われた通りに書いてます」


 濡れ衣だ、とばかり若者は悲鳴じみた声を上げる。言われた通りねぇ、とシェイダールは眉を寄せ、棚の前へ行って適当な粘土板を手に取った。ウルメシュが、あっ、と咎める声を漏らすと同時に、棚がぎしりと不穏な音を立てて軋み、積まれた板がずれる。慌ててシェイダールは一歩下がった。

「これ、まずいんじゃないか? いつから使ってるのか知らないが、新調するか保管場所を替えたほうがいいぞ」

 崩れて粘土板が砕けたら目も当てられない。記録は正しく保管してこそ価値がある。

「それは祭司様に言ってください」

 僕にはどうにもできません、とばかり他人事の口調でウルメシュが言う。その態度にシェイダールは不信を募らせつつ、粘土板に目を通した。これだけを見れば特段、おかしなところはない。きちんと整理されてもいる。だがしかし。


「言われた通り、と言ったな。じゃあこれは本当なのか? 新年祝いの奉納に牛と羊が十頭ずつ、鶏二十羽。麦や豆についてはまだしも、家畜をこれだけ供物にできるとは思えないが、ちゃんと数えたのか」

 都の大神殿での新年祭であれば、それこそ百頭単位で家畜が屠られ神々に捧げられたのち人々の胃におさまるが、この村ひとつで二十頭は多すぎる。シェイダールの故郷よりはずっと大きい村ではあるが、それにしても妥当な線はその半分ほどだろう。

 供物にする家畜や作物は、誰がどれだけ納めたかも記録される。村での序列や権威に影響するのだから、そこは正確に記録しているはずだが、もしも……


「数えるのは神官の人たちです。僕は記録するだけなので」

 懸念が当たり、シェイダールは天を仰いだ。

「実際と違う、おかしいんじゃないか、とは思わなかったのか!?」

「別に……? だって言う通り書かないと怒られますし」

「それじゃ何のための記録だ!」


 シェイダールは思わず絶望的な叫びを上げる。責められた若者は首を竦めたが、あからさまに心外だという顔をした。なぜ自分が責められるのだ、そうしろと言われたからそうしただけなのに――と。

 この様子では恐らく、そもそも何のために記録しどう活用するのか、そんなことは一度も考えたことがないだろう。シェイダールは書記というものの基準に王宮の者をあてはめたのが間違いだったと悟り、途方に暮れた気分で若者を眺めた。


「もしかしておまえ、馬鹿なのか……?」

 彼がぽろりとこぼした言葉に、ウルメシュは歪んだ苦笑いで応じた。

「悪かったですね。僕じゃ役に立たないのなら、別の書記を寄越してくださいよ。都の役人様なら、そのぐらいできるでしょ。どうせ言われたことをそのまま書くしか能が無いんだから、誰だって代わりになる」

 捨て鉢かつ不敬な物言いに、マルガスが慌て、たしなめようとする。だがより早く、シェイダールが手振りでそれを制した。

「待て待て、そうじゃなくて。学校では教えなかったんだな、記録を取ることの意味とか目的とか。新方式が決まった時には、おまえはもう卒業してたんだろうが……よし、今から説明してやる」


 文字の書き方や表の作り方は問題なく理解しているのだから、ちゃんと説明しさえすれば通じるはずだ。そう見込んでシェイダールは慎重に言葉を選んだ。

「まず最初に、だ。そもそもなぜ、こんな記録をつけている?」

「だからそれは、言われたから」

「ああ……おまえはそうなのか。じゃあ、おまえに書けと言った奴は――祭司だったり村長だったり色々だろうが、なぜ記録を欲しがるのか、ちょっと考えてみろ」

 王宮で子供らの宮を訪れて勉学の様子を見ている気分になりながら、苛立ちそうになるのを堪えて導く。正直、十歳にも満たない我が子らのほうがウルメシュよりも聡いほどだが、だからとて諦めて放り出すのは何かに負ける気がして悔しい。

 幸いなことに、面倒くさそうなウルメシュに横からマルガスが適切な助け船を出してくれたおかげで、しばしの後には基本中の基本を理解させることに成功した。


「ええっとつまり、こういう記録をつけるのは、自慢とか、よそと張り合うためじゃなくて、それをもとに税とか水路の配水を決めたりするためで、だから怒られても実際通りに正しくなきゃいけなくて」

 自分が書いてきたものが記録としては用を為さない、どころか妨げにさえなると悟ったウルメシュは、いかにも情けない顔で棚を見上げた。

「これ全部、ゴミの山ってわけかぁ……」

「悲観することはないさ」シェイダールが慰める。「中には正確な記録もあるだろうし、数が揃えば傾向が掴める。つまり、この記録を残した奴はだいたい三倍ぐらいに見栄を張ってるらしい、とかいったことが見えてくるだろう。まぁ読み解く手間はかかるが、まったくのゴミってわけじゃない」

「最初からまともな書記にやらせてたら、そんな手間もかからないのに。お使者様だって、わざわざ僕なんかに道理をわからせる苦労をしなくて済んだし」


 不意に『お使者様』と呼ばれたことでシェイダールは一瞬怯み、それを隠すように苦笑した。

「そりゃ、優秀な奴だけにやらせれば簡単で話が早いけどな。そんなのが有り余ってるわけじゃないし、誰だって最初から何でもできるわけじゃない。とりあえず、ここにある記録を財務長官様に見せられるように整理するぞ。おまえの覚えている範囲でいいから、あからさまにこれは嘘……大袈裟だとわかるのと、比較的実際の数字に近いってのに選り分けよう」

「わかりました。あ、棚から下ろすのは僕がやります。やばい所があるので」

 やばい、とはつまり、迂闊に動かすと崩れる、という意味だろう。シェイダールは胡乱げに棚を睨み、リッダーシュも万一に備えて主君を守れるように立ち位置を変えた。


 そうしてマルガスも加わって全員で、これはあっちそれはこっち、と作業にいそしんでいるところへ、折悪しく邪魔が入った。神殿のあるじ、すなわち角帽をかぶり髭を長く伸ばした初老の祭司が、鼻息荒く乗り込んできたのだ。

「ウルメシュ! こらこら何やってる、余計なことをするな!」

 見慣れぬよそ者がいるのにも構わず書記に詰め寄ると、若者が手にしていた文書板を乱暴に奪い、その胸に指を突きつけて頭ごなしに叱責する。

「何度も言わせるな、おまえは字を書くだけでいいんだ! まったく、都からなんぞ使者が来たとかいうのにわざわざ散らかしおって、誰が片付けると」

「おい」


 低く険悪な声が小言を遮った。その一声の重さに、祭司はぎくりと竦んで振り返ったが、こちらを睨んでいるのが髭もたくわえていない若造と見ると、あからさまに侮る顔つきになった。そこへシェイダールが言葉を叩きつける。


「俺がその使者だ。おまえこそ後から来て余計なことをするな」

 予想外に厳しい物言いを受けて、祭司はまた怯んだものの、舐められてたまるかとばかり尊大に言い返してきた。室内の緊張が急激に高まったのにも気付かない。

「あんたがかね。どんな用件で来たのか知らんが、見たいものがあるならまず儂に言え。こんな散らかす必要なんぞない、いったい何を考えて」


「黙れ!」ついにシェイダールが怒鳴った。「貴様らジジイどもときたら、どうしてそういつもいつも、よく知りもしないくせに口出しして言うことを聞かせられると思うんだ!? 事情と状況を理解できるまで黙ってすっこんでろ!!」


 日頃の鬱憤までついでに爆発したらしい。リッダーシュが失笑を堪えてうつむき、口元に手を当てて表情を隠す。だがそんな余裕があるのは彼ひとりで、マルガスとウルメシュは縮み上がって身を寄せ合い、祭司は蒼白になってわなわな震えだした。

「な、なっ、この……木っ端役人の分際で、青二才がよくも!」

 憤激に任せ、手にした粘土板をふりかぶる。投げつけようとしたのだろうが、怒りのあまり勢いがつきすぎ、さらには足元に積まれた板につまずいて、のけぞりよろけて倒れかかる。

「危ない!」

 ウルメシュが叫ぶと同時に祭司が棚にぶつかった。長年酷使されてきた棚が、ついに断末魔を上げて崩れ落ちる。まだ残っていた文書の何枚かも共に。


「《抱きとめよ風のかいな》!」

 瞬時に紡がれた色と詞の連なりが小さな竜巻を起こし、支柱や仕切り板が巻き上げられて宙に浮く。その隙にシェイダールは手を伸ばし、祭司を引き寄せて避難させた。

 一呼吸置いて、ドサドサガラガラと瓦礫が落ちる。まともに崩れた場合に比べたら遙かに穏やかではあるが、それでも文書の何枚かは砕けてしまった。


 シェイダールはもう祭司の存在など無視して、木材の下敷きになった一枚を救出する。無事に見えたそれも、持ち上げるとぱかりとふたつに割れて落ちた。

「くそ、やっぱり粘土板を大量に保管するのは無理があるな。草木紙をもっと増産しないと駄目か。しかし原料がな……火災にも弱いし」

 眉間に皺を寄せて考え込みながら、ぶつぶつとつぶやく。そんな彼の後ろ姿に、祭司は言葉を失ってただ驚愕のまなざしを向けていた。ちらりと横目でマルガスを見やり、おいまさか、と言いたげな顔をしたものの、問いただす勇気は出ない。

 リッダーシュは面白そうに祭司の困惑を眺めていたが、いつまでも放っておくわけにはいかないので、こほんと咳払いして主君にやんわり声をかけた。


「我が君」

「おまえはどう思う? 草木紙のほうが断然扱いやすいよな。粘土板より書くのが難しくはなるが、量を保管する観点から言えば軽くて薄いほうが」

 すっかり考え事に没頭しているシェイダールは、小役人の演技を忘れて我が君と呼ばれたことにも気付かず返事をする。リッダーシュは苦笑で応じた。

「そうだな、私としては草木紙が望ましいが、土地柄によって湿度や火災あるいは水害の多さは異なるゆえ、どちらを用いるかはそれぞれの選択に任せるのが無難だろうと思う。ともあれ、王宮に戻ってから各長官に相談するのが良かろう。今はここを片付けて、リヒト様が到着された時にすぐ話を進められるよう、問題点を洗い出しておかねば」


「ああ、そうだったな」

 はたと我に返ってシェイダールは振り向き、祭司と書記の愕然とした顔に出くわしてたじろいだ。マルガスが天を仰いで嘆息する。

「大王様、やはり下級役人のふりをなさるなど、そもそもが無理だったのでは?」

「おい待てよ、途中まで問題なくいけてたじゃないか。現にそこのジジイに石板をぶつけられるところだったんだぞ。ウルヴェーユを使う役人だって今じゃそんなに珍しくないだろうが」

「それでも、あれほど素早く鮮やかに操れるのは御君をおいてほかにありません。もしまたお忍びになられる際はその点、重々自覚なさってください。むろん私はお供を辞退申し上げますが。……先ほどは肝が冷えました。御身に大事がなくて何よりです」


 ほっ、と胸を撫で下ろしたマルガスに、シェイダールは複雑な顔をする。木っ端役人のふりが上手くても下手でも、どっちにしろ文句を言われるらしい。結局彼は無言のまま、手の中に半分残った文書をやるせなく眺めたのだった。




 ともあれ、泡を食った祭司を適当な口実で追い払うと、大王様一行は崩れた棚を片付け、元の作業に戻った。その間もウルメシュがしきりにこちらの顔を見るもので、シェイダールは手を止め、呆れ顔をする。


「そんなに珍しいか? 王だからって、ほかの人間と何も変わらないぞ。いきなり角や翼が生えたり、ぴかぴか光って天に昇ったりもしない」

「あ、すみません。その……まさか大王様がこんなことまでするなんて、なんだか信じられなくて」

「何をしていたら大王様らしいんだ」


 思わずシェイダールは失笑した。己もかつて無知な田舎者だった頃、王というものを想像できていなかった。何だか知らないがとにかく偉くて、人に命令したり、税を取り立てたりするのが当たり前だとみなされる特別な存在――その程度の認識。

 ウルメシュは都に近い村で育っただけあって、それよりは具体的に理解していた。とはいえ、

「戦争したり、宮殿やお墓を造ったり……ですかね」

 どうやら庶民の知る王というのは、人手を駆り出す迷惑なものであるらしい。シェイダールは眉間を揉んで呻いた。


「まぁ、事実ではあるよな。だが王のつとめで一番大事なことは……『誰も飢えさせないこと』だ。そのためには、どこで何がどれだけ穫れて、どのぐらい余裕があるのかないのか、正確に知る必要がある。だから『こんなこと』だって重要な仕事だ」

 改めて自分自身に確かめるように、声に力を込めて言う。

「民を飢えさせる奴に王の資格はない。どんなことをするにしても、まず皆がちゃんと食べられる保証があって初めてできるんだ。……仕方ないから戦もするが」


 即位して十年ほどになるが、領内のどこの兵も動かさずに済んだ年は無い。むろん大軍を率いて遠征するような事態には一度もなっていないし、初期には『たった一人で万の軍勢を退けた大王』の噂のおかげで戦わずして臣従や同盟を申し出る国も多かった。だが、抱える国、支配する土地が増えれば、掠め取ろうとする手も増える。それらを払わなければ、安全な暮らしは確保できない。シェイダールは渋面になった。


「正直、戦なんかやってる暇あるか、ってんだ。ちょっかい出してくる奴らは他にやることが無いのか、それとも手っ取り早くよそから奪えば何でも解決するとか雑な考えしてやがるのか、まったく!」

 いろいろ思い出して腹を立てている大王様に、ウルメシュは目を白黒させるばかり。横からリッダーシュが親友の肩をぽんと叩いてなだめた。

「飢えの恐ろしさを知るおぬしが王となったことは、ワシュアールにとっては大いなる幸いだ。とはいえ、一度に何もかもやってしまおうとするのは無理だぞ。ここはほぼ整理できたから、一息入れよう。ウルメシュもマルガス殿も少し休まねば」


 大王様が休まなければ他の者も休めない、と言外に圧をかけられ、シェイダールは仕方ないな、とうなずいた。

「よし、じゃあここはひとまず終了だ」

 解放されたウルメシュとマルガスが、ほっと笑みをこぼす。だが仕事中毒者はにこやかに続けてくれた。

「次は村長のところにある文書だ。納税やら売買やら、ここの記録より気合いを入れて調べないとな。しっかり休憩してくれ」


 思わず呻いた二人には構わず、シェイダールは親友相手に今後の取り組みをとりとめなく語りだす。

 戻ったら学校で教える内容に記録文書の重要性を追加させよう、書字と計算だけじゃなく物事の考え方の基礎も教えられる者を教師にしなければ、草木紙への書き取りも必修にするなら紙とインクをどこで確保できるだろうか……

 あれもこれもと欲張る大王様に、リッダーシュは「おぬしも休めと言うのに」とたしなめたものの、結局やはりいつものように、楽しそうな親友につられて笑顔になってしまうのだった。



2022.3.27


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― 新着の感想 ―
[良い点] 相変わらずの仕事中毒シェイ様……! なんだかんだで飛び回ってるのがお好きなんだから、リッきゅんじゃなきゃついていけない……とか思うと、やっぱりいちばん忙しいのはリッきゅんかもしれません。 …
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