父の日SS
――……、――……。
音が揺れる。暖かな琥珀色が穏やかな喜びの波となって打ち寄せ、ひんやりとした白銀が熱を鎮めながら沖合へ引いてゆく。見上げるは遠く澄んだ空の青、見下ろせば緑の草そよぐ平原。
繰り返し、繰り返し。ゆっくりと穏やかに、寄せては返し、拡がってはまとまる、柔らかな音色。それを生み出しているのは、環状の金糸に通されたとりどりの色石だ。
底部に注ぎ口のついた壺から細く流れ出る水で環を回す、単純な仕掛け。だが、ちょうど良い速さで、できるだけ長く奏でられるようにと、その作り手は試行錯誤を重ねていた。懐かしい思い出に、女王シャニカは微笑を浮かべる。
優しい音色が降り注ぐ揺り籠では、赤子がすやすやと眠っている。寝顔を覗き込んでいた幼い姉が、自分も眠そうな顔で母を振り返ってささやいた。
「わたしもねちゃいそう。とってもきれいでやさしいね」
「ええ、本当に。あなたもこれを聞いて眠っていたのよ」
「なんとなく、おぼえてる。母さまがつくったの?」
「いいえ。わたくしのお父様……あなたのおじいさまよ、リグティ」
娘、リグティは緑の瞳をぱちぱちとしばたたき、揺り籠のそばを離れて母のほうへ寄ってきた。そして、心底不思議そうに問いかける。
「母さま、あかちゃんだったの?」
思わずシャニカは小さく笑いをこぼし、そうよ、と肯定した。
「わたくしも、あなたと同じ子供だった時があるの。よく怖い夢を見て泣いていたから、ぐっすり眠れるように、と作ってくださったのよ」
シャニカの説明に、娘は信じられないというような顔をしてから、ぽてんと母の膝にもたれかかった。
柔らかい髪に覆われた丸い頭を、シャニカはそっと撫でてやる。音色に合わせて、繰り返し、繰り返し。安らぎをもたらす彩りに、明瞭な《詞》は結ばれていない。決して強く働きかけることはせず、ただ路に音色を巡らせて心を落ち着かせてくれるだけだ。
「おじいさまは……母さまの、やさしい父さま?」
寝言のようにリグティがつぶやく。シャニカは胸に生じた痛みをも愛しむように、ええ、とささやいた。
「ほかの人には、厳しくて怒りっぽいと怖がられてもいたけれど。わたくしが眠れるまで、この音色をよく歌ってくれたのですよ……」
長い昏睡から覚めた後、シャニカは意識して快活にふるまった。怖い夢に追いつかれたくなかったし、父も、黄金の声の人も、誰も悲しませたくなかったから。けれど夜にはどうしようもなく心まで闇に包まれ、あの日の光景がよみがえり、父までいなくなったらどうしよう、と恐怖に襲われて泣きながら飛び起きてばかりいた。
そんな娘のために、父シェイダールは子守歌を歌ってくれた。安らかな深い眠りにしっかりと包まれるまで、ずっと。
とはいえ彼は多忙で、娘を置いて国内外を飛び回ることも珍しくなかった。だから、この仕掛けを自らの手で作ってくれたのだ。
(優しいお父様。でも、わたくしに向ける優しさは、ただそれだけではなかった……そうでしょう?)
記憶のなかの父に呼びかける。
思い出す面差しはいつも同じだ。癇の強そうな顔を、愛娘にだけは緩ませて、けれど目元には必ず氷刃に似た痛みが刺さったまま。昔はその理由を誤解していた。
(わたくしを見ると、お母様を思い出すからだと……あの日のことを忘れられないからだと、思っていたけれど。それも間違いではないでしょう、でもお父様、あなたの心に刺さっていたあの残酷な刃は“償い”だったのですね)
他の子供たちが生まれ、成長してくると、シャニカだけが特別扱いされているのは誰の目にも明らかになった。妃やその実家筋からやんわり抗議されることもあったようだが、シェイダールは取り合わなかった。
シャニカがおよそ十五歳ほどの身体に育った頃には、大王の世継ぎは彼女であると、誰もが既に承知していた。不平不満も、別の男児を立てようとする動きもあったが、どれもシャニカを脅かすほどにはならなかった。
「だって僕らの誰も、シャニカ様にはかないっこないですから」
年の離れた弟セレスダールと話した時、そんなことを言われた。元からおとなしい気質の少年だが、彼の意見はだいたい他の弟妹たちの総意である。
「母上はまだ僕に過大な期待を寄せていますが。なんと言っても当の父上が、ひとりひとりの路と修練の進み具合をご存じで、そのうえ、やる気や性格までも見透かして、適した務めを示して選ばせてくださるんです。それをはねのけて、自分が王になりたい、なんて言うのは……あ、一人いましたね」
思い出して彼は笑い、やはりその場に居合わせていたシャニカも苦笑した。
跳ねっ返りの弟が、次の王は自分が、と言い出したことがあったのだが、まあ気の毒なまでにこてんばんにやられたのだ。
――王になる? 目的は。何を成すために王位を望む。何が必要になるか理解しているか。望まぬ義務と責任を負ったうえでなお、その目的を果たせる見込みがあるか。
野心を否定せず、ただ質問によって『王になりたい』という漠然とした要求の中から、具体的で確実な“望み”を炙り出すさまは、見ているほうが冷や汗をかくほどだった。王位それ自体は最終的な到達点になり得ず、成すべき目的のための手段にすぎないことを、未熟な王子に容赦なく理解させたのだ。
すっかり萎れてしまった王子に、シェイダールは慰めるでもなく言った。おまえの望みを叶えるなら、王位よりも地方の要塞司令官が向いているぞ、ちょうど従者を欲しがっている司令官がいるからそこで下積みをするといい。
早速その場で辺境に飛ばされそうになった王子は、大慌てで辞退した。
「あの彼も結局、じっくり考え直した後で父上の仰る通りだと気付いて、自分から行かせてくれと志願したのですし……つくづく、父上には畏れ入ります。あれほど毎日忙しくしていらっしゃるのに、僕たちのことも、大臣や大勢の役人のことも、本当によくご覧になっていて」
そう語るセレスダールの、崇敬と信頼と畏怖のいりまじる表情を眺め、シャニカは不意にすとんと腑に落ちたのだった。
ああ、それが彼の選んだ“父親としての在り方”なのだな、と。
危険から守り、成長を助け、良い人生を歩めるように道を示し、背を押してやる。
――すべて、彼がシャニカに与え損なったものだ。
守れなかった。勝手に成長してしまった。継承した膨大な標は人生の道行きを定めた。そして彼が背を押すまでもなく、娘は父の助けになりたいと言って、王の務めを自らも共に背負おうと縋りついた。
(だからなのですね。あの痛みは、ご自身の失敗で我が子の人生を台無しにしたことの自覚、なんとかそれを償おうという……ああでも、お父様。それでもわたくしは、あなたとお母様の娘です。あなたと弟妹たちの間にあるような親子関係ではないけれど)
自他に厳しい彼のことだ、きっとシャニカに対しては父親になり損なった、とでも思っていただろう。父親失格、だとか。そんな敗北宣言を正直に吐露することは、決してなかったけれども。
思いを巡らせているうちに、いつしか壺の水が落ちきって、音色が消えていた。膝の上では娘がうとうと微睡んでいる。あどけない寝顔を見下ろし、シャニカは微笑んだ。
この子は幸いだ。少なくとも、父親という一点に関しては。なぜって――
「さあ姫君たち、お待たせつかまつった……おっと」
部屋に入ると同時に慌てて声を飲み込んだのは、湯気の立つ食事を運んできたリッダーシュだ。幸福な黄金の声が、パンや菓子の甘い香ばしさと共に、室内に波紋を広げる。途端に、眠っていたはずのリグティが跳ね起きた。目をきらきらさせた幼子の素直さに、両親は笑い声を立てる。
「ありがとう、リッダーシュ」
「もったいなきお言葉」
畏まって応じつつも、その笑みは柔らかく慈しみ深い。
シャニカにとっての父、彼にとって無二の親友であった人が喪われ、受けた痛手は互いにとてつもなく深かったはずなのに、さほどの月日も経たぬ今、こうしてものを食べ、穏やかな心地で笑み交わすことができるのは、まるで奇蹟だ。
(お父様が片時もそばから離したがらなかったのも、無理もないわ。黄金の声を抜きにしても、この人の存在がどれほど支えになっていることか)
そんな父の真価をまだ知らぬリグティは、ただただ夢中の様子で懐いている。と言っても彼女の場合、食い気がかなり勝っていそうだが。
「ほらほら、お行儀が悪いわよ。きちんと座って」
娘をたしなめながら、シャニカは改めて夫に感謝と信頼のまなざしを向ける。父親としての彼の在り方は、シェイダールとはまったく異なっているが、きっと子供たちに惜しみなく幸福を与えてくれるだろう。それだけは間違いない。
「さあリグティ、お父様にちゃんとお礼を言って」
「あっ……、ありがとうございます」
早くも伸ばしかけていた手を慌てて引っ込め、幼い姫が姿勢を正して深々と低頭する。リッダーシュは笑って、自分と同じ金茶の髪を撫でてやった。
2021.6.15




